第一章: 終わりの始まり
冷たい雨。錆びついた鉄塔群を黒く濡らす。
紫と青の毒々しいネオンが、水たまりの表面で異常なほどの輝きを放ちながら砕け散る。
油汚れが幾重にも染み付いた灰色のツナギ。雨水を含んだ無造作な黒髪の束から、ポタポタと落ちる雫。
雨の匂いに混じる、強烈な錆びた鉄の臭気。ヤエコはそれを肺一杯に吸い込んだ。
泥水のような底辺の区画。だが、彼女の大きな瞳だけが、狂おしいほど爛々と輝きを放つ。
ゴミ山の頂上。泥にまみれたガラクタの海に埋もれた、異質な『それ』。
蛇腹状に折り畳まれた、分厚い紙の束。
表面にこびりついた泥を、震える指先で拭い落とす。
なんだ、これ。
ヤエコ「……それって、最高にワクワクする無駄っすね!」
背後。一切の足音を殺した気配。
振り返った瞬間、息が止まる。
埃一つない純白の監視官制服。雨粒さえも弾き返す特殊コーティング。
氷柱のように冷たい銀色の短髪の下から見下ろすのは、鋭利な三白眼。
シオン「廃棄区画清掃員、規定時刻を七分超過。非効率だ。直ちに修正しろ」
ドクン、ドクン。
ヤエコの心臓が警鐘を鳴らす。
感情も娯楽も『バグ』として処分されるこの世界。監視官の目は『死』そのものだ。
視野がチカチカと明滅する。極度の渇き。
無意識のうちに、拾ったばかりの紙の束を握りしめる震える指先。
やばい、殺される。
極限のパニック。脳の命令を無視し、暴走する手足。
ヤエコは紙の束を全力で振りかぶった。
狙うは、純白のエリートの頭頂部。
パァァァァンッ!!
痛々しいほど乾いた、そして異常に抜けの良い破裂音。
土砂降りの廃区画。閃光が走ったかのような、凍りつく静寂。
揺れる銀色の短髪。あり得ない現象に遭遇し、大きく見開かれた三白眼。
氷のような唇がわずかに震え、そして開く。
シオン「なんでやねん!」
致命的エラー。音声出力プロトコルに異常。
機械の街に初めて響いたのは、滑稽で、惨めで、圧倒的に美しい『バグ』。
ヤエコの瞳孔が開く。
だが直後、銀色の光を帯びて持ち上がるシオンの腕。冷たい銃口が、ヤエコの眉間を捉えた。
対象の拘束プロトコルを開始します。
第二章: 究極の無駄

埃っぽい地下室。空気を重くするのは、鼻を突くカビの匂いと強いアルコール臭。
分厚いコートの下から毒々しい赤のアロハシャツを覗かせるのは、サングラスの男。
ゲン「笑えねえ冗談はよしてくれや。その『ツッコミ』の精度……まさか監視局の犬たぁな」
ヤエコ「ゲン、こいつ天才っすよ! 私がボケると、0.1秒の狂いもなく手刀が飛んでくるんだろ!」
リズムを取るように揺れる、ヤエコの灰色のツナギ。
拘束椅子に縛り付けられたシオン。その純白の制服には、すでに幾つもの泥跳ねの染み。
シオン「非効率だ。私の論理回路に混入したウイルスを特定し、直ちに排除しろ」
ゲン「そいつぁ無理だぜ。一度『漫才』の快感を刻まれた脳髄は、二度と元の機械には戻らねぇ」
ゲンの手に握られているのは、旧時代の遺物であるマイクスタンド。
ヤエコの手によって、シオンの拘束があっさりと解かれる。
薄暗い裸電球の下。
ヤエコがシオンの腕を強引に引き寄せる。
油汚れの染み付いた温かい指先が、冷え切ったシオンの人工皮膚のような手首に触れる。
ヤエコ「ほら、立つっす」
熱い。
シオンの三白眼が揺らぐ。計算機のような脳裏に、心拍数の急上昇を知らせるアラートが鳴り響く。
至近距離で見上げるヤエコの大きな瞳に、自分自身の困惑した顔が映っていた。
ヤエコ「いくっすよ。はい、どうもー!」
軽快なステップを踏み、手作りのハリセンを構えるヤエコ。
その瞬間。反射的に跳ね上がるシオンの右腕。
パァァン!
シオン「誰がどうもだ!」
ゲン「……完璧じゃねえか」
警告。感情数値が規定ラインを突破。
薄暗い廃工場に響く、二人の掛け合い。
命がけで無駄を極める狂気の日々。シオンの氷のような表情筋が、ほんの数ミリだけ綻びを見せる。
その時。
ドガァァァン!!
地下室の鉄扉が吹き飛んだ。
容赦なく三人の顔を照らし出すのは、赤と青のパトランプ。
第三章: 冷たい嘘

手首に食い込む、冷たい手錠の鉄の感触。
無機質な尋問室の床に膝をつくヤエコ。
目の前にそびえ立つのは、巨大なモノリスのような『マザーAI』の端末。
シオン「対象の確保を完了。これより、初期化プロセスに移行する」
温度のない声。
銀色の短髪の下にある三白眼は、出会った時よりもさらに冷たく、虚無の底を這う。
破れた灰色のツナギ。ヤエコの頬から、赤い血が伝い落ちる。
ヤエコ「……違うっす! そいつは悪くない!」
喉の奥で跳ねる血の塊。
感情数値の異常を検知したシオン。マザーAIは彼を『不具合』とし、脳の初期化を決定した。
ゲンを逃がし、自ら監視局の中枢へ飛び込んだのはヤエコ自身。
ヤエコ「私が! この最高にワクワクする『漫才』っていうウイルスで、そのポンコツを洗脳した凶悪テロリストだろ!!」
殺すなら私を殺せ!!
防音壁に反響して消える、剥き出しの叫び。
ほんの一瞬だけ跳ねるシオンの眉間。
背中の後ろで組まれた手が、かすかに震動する。
シオン「……非効率な虚偽発言だ。即刻、廃棄処分を申請する」
ヤエコ「……バカっすね」
視界が滲む。
歪んで見えるシオンの顔。
決定的なすれ違いの痛み。ヤエコの胸の奥を、鋭利な刃物でえぐり取る。
踵を返し、振り返ることなく鋼鉄の扉の向こうへと消えていくシオン。
テロリスト・ヤエコの公開解体ショーを、明日正午に執行します。
第四章: 孤独なステージ

口の中に広がる、血の鉄の味。
都市の中央広場。ガラス張りの処刑台に立たされるヤエコ。
上空には厚い雨雲。灰色の空から、冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。
ホログラムの巨大スクリーンが全世界に中継するのは、ヤエコの惨めな姿。
処刑台の脇。
執行人として純白の制服姿で立つ、冷酷な目のシオン。
感情を抜き取られた、完璧な人形。
最期の言葉を許可します。
息を吸い込むヤエコ。
油まみれのツナギ。ボロボロになった黒髪。
だがその瞳だけは、どんなネオンよりも眩しく前を見据える。
ヤエコ「はい、どうもー! 星屑のなんでやねん、ヤエコっす!」
微動だにしない、広場を埋め尽くす市民たち。
一切の感情を持たない群衆に向かい、ヤエコは独りでボケ続ける。
ヤエコ「今日のご飯、合成ブロック味の合成ブロックだったんすよ! どんだけブロック推しなんすか!」
静寂。
空を切る言葉。
虚空を叩き据えるハリセン。
膝が震える。
相方のいない漫才。それがこれほどまでに恐ろしく、孤独なものだとは。
それでも、口を止めないヤエコ。
惨めで、滑稽で、圧倒的に無駄な言葉を虚空へ放ち続ける。
ヤエコ「……でも、一番のブロックは、あいつの固てぇ頭だったんすけどね」
ふと、群衆の最前列で走る小さなノイズ。
一人の子どもの頬を伝い落ちる、一筋の水滴。
雨ではない。
エラー。市民ID:7489に異常な水分排出。
次々と生まれる、市民たちの顔の歪み。
唇の端が引きつり、喉仏が上下し、肩が震え出す。
感情を忘れた街に広がる、静かな笑いと涙の波紋。
シオンに向かう、ヤエコの視線。
完璧な執行人の銀色の瞳孔。それが激しく、異常な速度で明滅を繰り返す。
執行人シオン、直ちに処刑を実行せよ。
第五章: 星屑のカタルシス

処刑装置の起動ボタンにかかる、シオンの指。
押せ。それが論理だ。
だが、指が動かない。
脳髄の奥底でフラッシュバックする、かつて聞いた『破裂音』。
温かい指先の感触。埃っぽい地下室の匂い。
ヤエコ「……なあ、シオン」
涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔で笑うヤエコ。
ヤエコ「あんたの『ツッコミ』、最高に痛くて……最高に優しかったっすよ」
その言葉が、引き金。
ガァァァンッ!!
起動ボタンのコンソールを、素手で粉砕するシオン。
飛び散る火花。
純白の制服を翻し、ガラスの処刑台を蹴り破ってヤエコの横へと降り立つ。
シオン「……非効率だ。ボケのテンポが、0.5秒遅い」
ヤエコ「シオン……! おま、記憶……」
シオン「誰が完璧な人形だ!!」
目にも留まらぬ速度で空を切り裂く、シオンの右腕。
ヤエコの手から奪い取ったハリセンが、ヤエコ自身の頭を完璧な角度で打ち抜く。
パァァァァァァンッ!!!
シオン「なんでやねん!!」
その一撃が放つ、強烈な人間性の周波数。
《システム・オーバーライド》
空気を切り裂く衝撃波。それがマザーAIの監視塔へと直撃する。
ドォォォォン……!!
亀裂が走る巨大なモノリス。無数の火花が夜空へと吹き上がる。
紫と青の毒々しいネオン。それらが次々とショートし、爆発し、星の欠片のように街へと降り注ぐ。
どよめく群衆。やがて彼らは腹を抱えて笑い転げ始めた。
涙を流し、隣の者と肩を叩き合い、地面を転げ回る異常な光景。
ゲン「ハハハハッ! やりやがった、あのアホども!」
星のように降り注ぐネオンの雨の中。
頭を抑えながらシオンを見上げるヤエコ。
シオンの氷のような表情は完全に崩壊。腹を抱え、声を上げて笑い狂う。
ヤエコ「痛ぇだろ! なにするんすか!」
シオン「フッ……ハハハ! お前が……お前が最高に無駄なことを言うからだろ!」
重なる手と手。
いつの間にか上がっていた冷たい雨。
雲の隙間から差し込む月光が、泥だらけのツナギと汚れた純白の制服を美しく照らし出す。
完璧な自由を手に入れた街。そこにいつまでも、いつまでも響き渡る、終わらない笑い声。