第一章: 白雨に沈む、水槽の底
喉仏のすぐ下に這い回る、熱い鈍痛。
肺の奥で、酸素がじりじりと燃え尽きていく。
[Pulse]ドクン、ドクン、ドクン。[/Pulse]
耳の奥で跳ねる自らの血流だけが、世界で唯一の音。
瞬き一つせず鉛色の空を見つめるのは、窓ガラスに額を押し当てたままの少女。
切り揃えられた艶やかな黒髪のボブカットが、青白い頬の輪郭に影を落とす。
首の第一ボタンまで隙なく留められた紺色の学生服。
とめどなく流れ落ちる水滴の軌跡を追う、色素の薄い硝子玉のような茶色の瞳。
限界。一分四十二秒。
糸を引くように吐き出される細い息。
背後のドアが、音もなく開く気配。
部屋の空気を塗り潰すのは、吐き気を催すほど甘い柔軟剤の匂い。
[Sensual]
首筋に滑り込む、ひんやりとした指先。
背骨をなぞるように這い上がり、結衣の黒髪を静かに梳く手。
[A:遠野志帆:愛情]「結衣。紅茶が、一番美味しい温度になったわよ」[/A]
鼓膜を撫でる、砂糖菓子のようなどこまでも甘い声。
振り返る視界に映るのは、絹のような長い黒髪を真っ直ぐに下ろした母の姿。
淡いラベンダー色の清楚なワンピースには、微かな皺すら見当たらない。
差し出されたアンティークのティーカップ。
指先から伝わる、火傷もしない、冷たくもない、計算し尽くされた完璧な温もり。
[A:遠野志帆:愛情]「クッキーは、ちゃんと三十回噛むのよ。あなたの胃は、とても弱くて可哀想なんだから」[/A]
母の指先が、結衣の口元に甘い欠片を押し込む。
[A:遠野結衣:冷静]「……うん。一、二、三……」[/A]
血の味が滲むほど強く奥歯を打ち合わせながら、従順に数を数える結衣。
その姿に、美しい三日月の形に釣り上がる母の赤い唇。
[/Sensual]
◇◇◇
雨だれがコンクリートを叩く、放課後の渡り廊下。
銀色のライターを弾くような金属音。
[A:鳴海蒼:冷静]「おい。邪魔だ」[/A]
振り返る。癖のある茶髪。気怠げに伏せられた三白眼。
だらしなく開け放たれた制服の首元で鈍く光る、傷だらけの古いフィルムカメラ。鳴海蒼。
彼がレンズを向けているのは、水たまりに反射する灰色の空。
響き渡る、乾いたシャッター音。
[A:遠野結衣:驚き]「……何を、撮ってるの」[/A]
[A:鳴海蒼:冷静]「ただの泥水。でも、レンズを通せば光の塊になる」[/A]
ファインダーから目を離す蒼。
湿った風が吹き抜け、錆びた鉄と古い薬品の匂いが結衣の鼻腔を掠めた。
胸の奥底に沈めていた水面が、微かに揺れる。
それは、完璧な密室に投げ込まれた、最初の小さな石。

第二章: 灰に変わる光
廃墟の屋上。雨と埃が混じった、ひび割れたコンクリートの匂い。
蒼が切り取るファインダー越しの世界は、結衣の知らない色彩で溢れていた。
錆びた標識の赤。フェンスに絡みつく雑草の緑。雲の切れ間から差し込む、鋭利な夕陽のオレンジ。
現像された小さな写真を指先でなぞる結衣。
[A:鳴海蒼:冷静]「ほらよ。お前の顔、笑うと案外悪くない」[/A]
写真の中の自分は、微かに唇の端を綻ばせている。
初めて見る、自分自身の表情。
[Think]外の世界は、こんなにも眩しい。[/Think]
小さな四角い光を学生服のポケットにねじ込み、結衣は家路を急ぐ。
玄関のドアを開ける。
綺麗に磨き上げられたフローリング。
靴を脱ごうとした瞬間、違和感が足裏を刺す。
つまみ上げたローファー。
[Glitch]踵のゴム底が、金やすりで削り取られたように、極端にすり減らされている。[/Glitch]
歩きにくくするための、物理的な細工。
[Tremble]背筋を滑り落ちる、巨大な氷塊。[/Tremble]
急いで自室へ向かう。机の引き出しを開け放つ。
昨日蒼から貰った風景の写真が、ない。
代わりに部屋に漂うのは、微かな焦げ臭さ。
振り返ると、部屋の入り口に立っていたのは志帆。
美しい微笑み。手には、黒い灰がこびりついたクリスタルの灰皿。
[A:遠野志帆:狂気]「汚いゴミが落ちていたから、燃やしておいたのよ。ふふっ、綺麗に燃えたわ」[/A]
[A:遠野結衣:恐怖]「……あ……」[/A]
[A:遠野志帆:愛情]「外は危ないわ。変な虫がついてしまうもの。門限、明日からは一時間早くしましょうね。すべては、あなたのためを思って言っているのよ」[/A]
志帆は灰まみれの指を、結衣の唇に押し当てる。ザラリとした異物の感触。
痙攣する喉の奥。声が出ない。
白く細い指が、結衣の頬を優しく撫でる。
真綿で首を絞められるような、圧倒的な窒息感。
檻の扉が、けたたましい音を立てて施錠された。

第三章: 夕暮れのプラットホーム
肺が押し潰される。
これ以上ここにいたら、息ができなくなる。
蒼との約束。夕暮れの六時、町外れの無人駅。
夏の湿気を含んで立ち込める、錆びた線路の匂い。
遠くで鳴り始める、踏切の警報音。
[Impact]カン、カン、カン、カン。[/Impact]
血のように赤い夕陽が染め上げる、プラットホームの白線。
足音。
改札の向こうから現れた影。
結衣の瞳孔が開き、呼吸が止まる。
傘の隙間から覗く、絹のような黒髪とラベンダー色のワンピース。
[A:遠野志帆:愛情]「お迎えに来たわよ、結衣」[/A]
[Tremble]どうして。[/Tremble]
足がすくみ、後ずさる。
志帆の後ろ、改札の暗がりに浮かび上がる見慣れた茶髪のシルエット。
首から下げたフィルムカメラ。気怠げな三白眼。
[A:遠野結衣:絶望]「……蒼、くん?」[/A]
[A:鳴海蒼:狂気]「悪いな。お前も俺と同じ、一生這い上がれない泥人形なんだよ」[/A]
薄く歪む、蒼の口角。
彼もまた、孤独の泥沼で溺れる共犯者を求めていた。結衣を外の世界へ連れ出すふりをして、初めからこの暗い底辺に縛り付けるつもりだったのだ。
[Shout]ぐにゃりと歪む、結衣の視界。[/Shout]
[A:遠野志帆:狂気]「さあ、帰りましょう。私たちだけの、綺麗なお城へ」[/A]
差し出された白い手が、結衣の手首を鉄の万力のように掴む。
夕陽が沈み、世界からすべての光が失われた。

第四章: 剥製とたった一枚の証明
空虚な部屋に響くのは、時計の針の音だけ。
食事の時間は決められ、咀嚼の回数を数えられ、髪を梳かれる毎日。
感情の起伏を殺し、瞳から光を消す。
呼吸を極限まで浅くし、人形になること。それだけが、この繭の中で生き延びる唯一の術。
雨の降る夜。
ベッドの端に身を横たえ、虚空を見つめる結衣。
シーツの隙間。
指先が触れる、硬い紙の感触。
引きずり出す。
それは、灰を逃れた一枚の写真。
屋上のフェンス越し。風に髪を揺らし、無防備に笑う自分の横顔。
蒼が撮った、裏切りの証。
しかし、その写真の中にいる自分は、確かに生きていた。
胸の奥で、微かに[Pulse]ドクン[/Pulse]と鳴る音。
肺の底に沈殿していた泥が、熱を帯びて沸騰し始める。
[Think]お母さんは、私を愛しているんじゃない。[/Think]
[Flash]私という人形を支配することで、自分自身の孤独を埋めているだけだ。[/Flash]
奥歯を噛み締める。
口の中に広がる、錆びた鉄の味。
自らの血の味。
[Shout]私は、剥製じゃない。[/Shout]

第五章: 硝子の雨と冷たい夜明け
家全体を揺さぶる、猛烈な風の音。
台風の夜。
狂ったように窓ガラスを打ち鳴らす、叩きつける雨粒。
結衣は、部屋の片隅にある木製の椅子を両手で掴み上げる。
重い。悲鳴を上げる腕の筋肉。
弾け飛ぶように開く背後のドア。
[A:遠野志帆:狂気]「何をしているの! それを下ろしなさい!」[/A]
完璧だった母の顔面が、初めて見苦しく歪む。
結衣は振り返らない。
[A:遠野結衣:怒り]「私は……!」[/A]
肺の底から、今まで殺してきたすべての呼吸を吸い込む。
[Shout]「お母さんの人形じゃない!!」[/Shout]
[Impact]ガシャァァァァン!!![/Impact]
窓ガラスを粉砕する椅子。
凄まじい暴風雨が、一気に部屋の中へなだれ込む。
稲妻の閃光に反射し、スローモーションのように空中で煌めく無数のガラス片。
圧倒的な美しさ。
吹き込む風が、ラベンダー色のワンピースを無残に引き裂くように煽る。
[A:遠野志帆:絶望]「結衣! 行かないで! 私を一人にしないで!!」[/A]
自らの美しい黒髪を掻きむしり、獣のように泣き叫ぶ母。
[Blur]雨音に掻き消されていく、哀れな絶叫。[/Blur]
結衣は窓枠に足をかける。
砕けたガラスが手のひらを切り裂き、滴り落ちる熱い血。
雨に打たれながら、庭の泥土へ飛び降りる。
泥はねが学生服を汚し、整ったボブカットが顔に張り付く。
門の前に立っていたのは、ずぶ濡れの蒼。
手にはカメラを持たず、ただ震える手で結衣へ腕を伸ばす。
[A:鳴海蒼:悲しみ]「……俺と一緒に、」[/A]
結衣は、その手を力任せに払いのける。
[A:遠野結衣:冷静]「どいて。私は、私の足で歩く」[/A]
彼を一瞥もせず、血まみれの手で自らの前髪をかき上げ、歩き出す結衣。
夜明けが近づく空。
次第に小降りになる雨。頬を打つ冷たい風。
焼けるように痛む、手のひらの傷。
靴の中は泥だらけで、たまらなく重い。
けれど。
立ち止まり、空を見上げる結衣。
大きく、深く、息を吸い込む。
冷たくて、生臭くて、どこまでも透明な、世界の空気。
肺いっぱいに満ちるその感覚は、痛いほどに、自由だった。