第一章: 煤煙の街と青の出会い
[FadeIn]灰色の雪が降りしきっていた。[/FadeIn]
帝都を分厚く覆う煤煙の雲。空を塞ぐ重たい鉛色の天井から、絶え間なく煤が剥がれ落ちてくる。鼻腔を焼く硫黄と劣悪な石炭の匂い。錆びついた第漆区の時計塔の頂上。油と煤にまみれた分厚い作業着の青年が、むき出しの鉄骨に片足をかけていた。無造作に跳ねた黒髪には灰色の塵が絡みつき、スパナを握る手には古いエンジン油の染みと無数の切り傷が刻まれている。
青年の名はレオン。貧民街の煤汚れの中、彼の両目だけが異常なほど透き通っていた。すべてを拒絶するような帝都の空の下、唯一、本当の空の青を切り取って嵌め込んだような痛烈な蒼。
[Pulse]カン、カン、カン。[/Pulse]
鈍い金属音が、下層の喧騒を遠く引き離した高度で鳴り響く。眼前に鎮座するのは、無数の廃棄歯車と真鍮のパイプで編み上げられた未完成の滑空機。
[A:レオン:冷静]「……ここじゃねえ。三番バルブの噛み合わせが甘い」[/A]
レオンは油まみれの手の甲で額の汗を拭い、風の音に耳を澄ませた。空を切る微かな気流の乱れ。
[Shout]「そこのお前! 止まれ!」[/Shout]
突如、眼下の屋根伝いに怒声が弾ける。
レオンが視線を落とすと、傾いた瓦屋根の上を、場違いな白い影がよろめきながら走ってきた。息が詰まるほど何層にも重ねられ、重たく装飾された純白のドレス。美しく結い上げられた金髪の随所に、煤汚れがこびりついている。少女は泥にまみれたレースの裾を両手で掴み、黒光りする軍靴の男たちから逃げていた。
[Think]なんだ、あの恰好。山の手の貴族か?[/Think]
足場を踏み外す白い影。少女の体が、重力に引かれて屋根の縁から傾く。
[A:レオン:驚き]「馬鹿っ!」[/A]
レオンは反射的にレンチを放り投げ、鉄骨から空へと身を躍らせた。
風の壁を突き抜け、落下する少女の腰を腕で強引に引き寄せる。分厚いキャンバス地越しにも伝わる、異常なほどの細さと、コルセットで締め付けられた硬い骨の感触。そのまま勢いを殺さず、隣の建物の錆びたトタン屋根へと転がり込んだ。
[Impact]ガアァァン!![/Impact]
鈍い衝突音と共に火花が散る。二人の体は瓦礫の中を数メートル滑り、煙突の陰に身を隠した。
少女は激しく咳き込みながら、レオンを見上げる。生気を欠いていた灰色の瞳が、驚愕に見開かれている。その足首で、冷たい銀のアンクレットがチリンと鋭い音を立てた。
[A:レオン:怒り]「死にてえのか! あんな足場も見えねえで……」[/A]
[A:アメリア:驚き]「……あ」[/A]
少女——アメリアの唇が震え、彼女の視線がレオンの肩口を越えて上空へ釘付けになる。
レオンも釣られて振り返った。
分厚い煤煙の雲が、強風に煽られて一瞬だけ引き裂かれる。
暗い亀裂の奥から、燃えるような夕陽が、一筋の黄金の槍となって二人の間を撃ち抜いた。空気に漂う無数の煤が、光の粒子となって乱舞する。視界のすべてを奪い取るような、圧倒的で暴力的なまでの光の奔流。
[Flash]あまりにも、美しい。[/Flash]
[A:アメリア:照れ]「空は……あんなにも広いのに。私たちはどうして、こんなにも不自由なのでしょう」[/A]
灰色の瞳に夕陽の炎を反射させながら、アメリアがぽつりとこぼす。その横顔には、重い鎖を引きずりながらも空を乞うような、痛切な熱が孕んでいた。
レオンの胸の奥で、錆びついていた何かが大きく脈打つ。
[A:レオン:冷静]「風が、泣いてる。今はまだ飛べない」[/A]
青い瞳が、彼女の灰色の瞳を真っ直ぐに射抜く。
[A:レオン:興奮]「だが、俺の翼なら、あの向こうへ行けるさ」[/A]
遠くで、憲兵たちの軍靴の音が再び近づいてくる。この出会いが、帝都の冷たい鉄の秩序を根底から狂わせる引き金になる。まだ二人は知る由もなかった。

第二章: 鳥籠の秘密と油の匂い
[Sensual]
薄暗い地下工房。ランプのオレンジ色の灯りが、壁一面に貼られた古ぼけた設計図を照らしている。
「違う。その気筒の計算式は、風圧の抵抗係数を無視していますわ」
純白のドレスの袖を肘まで捲り上げたアメリアが、黒鉛筆を滑らせる。彼女の白く滑らかな指先には、いつの間にか黒い油の汚れが付着していた。
[A:レオン:驚き]「お前、なんでそんな図面が頭に入ってんだよ。俺が半年かけて組んだクランクの寸法まで……」[/A]
[A:アメリア:冷静]「私の頭の中には、古い世界地図と、お父様が書斎に隠していた幾何学の本がすべて詰まっていますの。一度見たものは、絶対に忘れません」[/A]
アメリアは悪戯っぽく微笑み、レオンの横顔を覗き込んだ。その距離は、互いの吐息が届くほどに近い。古いエンジン油のツンとする匂いと、彼女の髪から微かに漂う白百合の香りが混ざり合い、レオンの心臓の拍動を無意識に早めた。
[/Sensual]
出会いから数週間。政略結婚から一時逃れたあの日以来、アメリアはたびたび公爵邸を抜け出し、レオンの地下工房に潜り込むようになっていた。
身分も、息を縛るコルセットも、この鉄と油の匂いに満ちた空間では何の意味も持たない。
[Pulse]チリン。[/Pulse]
彼女が動くたび、足首の銀のアンクレットが冷たい音を鳴らす。貴族の証であり、決して逃れられない「家柄」という名の足枷。
[A:アメリア:照れ]「レオンの工房の匂い、好きです。……生きている、という感じがしますから」[/A]
アメリアは完成に近づきつつある真鍮の翼の表面を、愛おしげになぞる。
[A:レオン:照れ]「……変な奴だな。こんな油臭え場所」[/A]
レオンは乱れた黒髪をガシガシと掻き回し、視線を逸らした。だが、その青い瞳には隠しきれない熱が灯っている。彼にとって、孤独だった空への渇望に寄り添う彼女の存在は、いつしか心を満たす唯一の光になっていた。
[A:レオン:興奮]「あと少しだ。お前の計算式のおかげで、エンジンの出力は倍になる。……一緒に、あの雲を突き抜けるだろ?」[/A]
アメリアの灰色の瞳が一瞬だけ激しく揺れた。彼女の視線が、床に落ちた自分の影へと落ちる。
[A:アメリア:悲しみ]「……ええ。いつか、必ず」[/A]
[Think]私には、飛ぶための羽など最初から与えられていないのに。[/Think]
彼女が唇を噛み締めたその時だった。
[Impact]ドァァァァン!![/Impact]
地下工房の分厚い鉄扉が、爆発音と共に吹き飛んだ。
濛々と立ち込める硝煙の向こう側から、漆黒の軍服に身を包んだ男が、一切の足音を立てずに踏み込んでくる。
胸元に光る銀の懐中時計。氷のように冷たく鋭い銀髪。手には一滴の汚れもない黒革の手袋。
[A:ヴィンセント:冷静]「見苦しい真似を。……捜す手間が省けたぞ、アメリア」[/A]
[Tremble]室内の温度が、数度下がったような錯覚。[/Tremble]
アメリアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。

第三章: 引き裂かれた翼と冷たい秩序
[A:ヴィンセント:怒り]「秩序の乱れは、世界の崩壊を意味する。このような薄汚い鼠の巣で、我が公爵家の娘が泥遊びとはな」[/A]
ヴィンセントは革手袋の指先で、丁寧に組み立てられた翼の骨組みを軽蔑しきった瞳で見下ろした。背後には、銃を構えた十数人の憲兵が隙間なく並んでいる。
[A:レオン:怒り]「何しやがる! そいつから離れろ!」[/A]
レオンがスパナを握りしめて飛び出そうとした瞬間。
ヴィンセントの銀の拳銃が目にも留まらぬ速さで抜かれ、レオンの眉間にピタリと照準を合わせた。
冷たい銃口。指を引き金にかける微かな摩擦音。
[A:アメリア:驚き]「お兄様! やめて!」[/A]
[A:ヴィンセント:冷静]「動くな、鼠。……個人の感情など、歴史の前では塵に等しい。すべてを壊せ」[/A]
ヴィンセントが冷酷に指を鳴らす。憲兵たちが一斉に工房の機材を叩き壊し始めた。
ガラスが砕ける音。金属がひしゃげる悲鳴。
レオンとアメリアが夜を徹して計算し、磨き上げた二人の夢が、軍靴の下でただの鉄屑へと変えられていく。
[Shout]「やめろぉぉぉ!! 俺の翼に触るな!!」[/Shout]
レオンが叫び、飛びかかろうとする。その頭を、憲兵の銃床が容赦なく打ち抜いた。
視界が[Blur]赤黒くぼやけ[/Blur]、口の中に強い鉄の味が広がる。膝から力が抜け、レオンは冷たい石の床に崩れ落ちた。
[A:レオン:絶望]「アメリア……っ」[/A]
血塗れの視界の中で、レオンは必死に手を伸ばす。過去に家族を失った時の、肺が握りつぶされるような喪失の恐怖。全身を麻痺させる冷気。
[Think]また、奪われるのか。俺は何も守れないのか。[/Think]
ヴィンセントがアメリアへ視線を向ける。
[A:ヴィンセント:冷静]「さあ、帰るぞ。明後日はお前の結婚式だ。これ以上、私に不確定要素を排除させるな」[/A]
言葉に、アメリアの肩がビクリと跳ねた。彼女は床に倒れ伏すレオンと、銃口を構える憲兵たちを見比べた。
自分が逆らえば、レオンはここで撃ち殺される。
自分が我慢すれば、この人は生き延びるのだ。
美しい義務。それこそが私の運命。
アメリアはゆっくりと立ち上がり、ドレスの砂を払う。
かつての生気を失った灰色の瞳に戻り、レオンを見下ろした。
[A:アメリア:冷静]「……こんなガラクタ遊び、もう飽きましたわ」[/A]
[Impact]その言葉は、どんな凶弾よりも深くレオンの心臓をえぐった。[/Impact]
[A:レオン:驚き]「……は?」[/A]
[A:アメリア:冷静]「私は山の手の貴族。泥水のような空を飛ぶ夢など、一時の気の迷いに過ぎません。……さようなら、第七区の鼠さん」[/A]
彼女は一度も振り返ることなく、ヴィンセントの隣へと歩み寄った。銀のアンクレットが、絶望的な音色を響かせて暗闇に消えていく。
残されたのは、無惨に破壊された翼の残骸と、自らの無力さに嗚咽を漏らす青年の声だけだった。

第四章: 祈りの残骸と徹夜の組み立て
すべてを失った。
工房の床には、踏み躙られた真鍮のパイプと引き裂かれた布切れが散乱している。レオンは空を見上げることもやめ、ただ暗がりの中で体育座りをしたまま、虚空を見つめていた。
失うことが怖かったから、俺は空へ逃げようとしていた。だが、本当に欲しかったのは空なんかじゃない。あの隣で笑ってくれる、あいつ自身だったんだ。
痛みを伴う自己嫌悪の中。レオンはふらつく足で立ち上がり、残骸を片付け始めた。
引き裂かれた主翼の布をどけた時だった。
フレームの最奥部。ヴィンセントたちの目につかない隙間に、小さく丸められた一枚の紙片が挟まっているのを見つけた。
[Pulse]ドクン、と心臓が跳ねる。[/Pulse]
そっと広げた紙片。そこには、アメリアが最後に描いた緻密な設計図があった。
計算式はすべて書き直されている。そして、その機体の座席は、一つから『二人乗り』へと変更されていた。
図面の隅、インクの染みに紛れて、小さく震えるような文字が記されている。
[FadeIn]『いつか、私をあの空へ連れ去って』[/FadeIn]
紙片の端には、水滴が落ちて乾いたような丸いシワがあった。
涙の痕だ。
[A:レオン:驚き]「……あいつ、最初から……俺と……」[/A]
彼女のついた嘘の裏側にあった、血を吐くような自己犠牲の祈り。
レオンの青い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。手の甲で乱暴に拭っても、涙は止まらない。喪失の恐怖が、確かな怒りと熱狂へと変わっていく。
[A:レオン:怒り]「ふざけんな。……勝手に終わらせてんじゃねえぞ、アメリア!!」[/A]
レオンは立ち上がった。切り傷だらけの手で巨大なレンチを掴み取る。
結婚式は明日の朝。時間はない。だが、設計図はここにある。
彼は第漆区のスクラップ置き場へ走り、狂ったように使える部品をかき集めた。近隣の仲間たちが呆れ顔で集まってくる中、レオンはなりふり構わず土下座して機材を借り集めた。
ハンマーの音が夜通し響き渡る。
指先の皮が剥け、血が油と混ざって黒く染まる。思考が麻痺し、視界が明滅しても、手を止めることはなかった。
[Shout]「動け! 噛み合え! 俺の翼!!」[/Shout]
[Glitch]ガガガガッ、ギュルルン!![/Glitch]
朝靄が立ち込める中、無理やり繋ぎ合わされた不格好な双発エンジンが、火を噴きながら産声を上げた。
[A:レオン:興奮]「風が……風が吹いてる。飛べるさ、絶対に!」[/A]

第五章: カタルシスと光の奔流
帝都の大通りは、見渡す限りの群衆と、花吹雪に埋め尽くされていた。
盛大な結婚式のパレード。純白のオープンカーに乗るアメリアの顔に、血の気はない。ただの人形のように虚ろな目で、重たい鉛色の空を見つめている。
護衛の先頭には、黒馬に跨がるヴィンセント。彼は完璧に統制された行進を見渡し、満足げに目を細めた。
[A:ヴィンセント:冷静]「完璧だ。これで一族の秩序は保たれる。お前はもう、無駄な感情に傷つくことはない」[/A]
[Pulse]鐘の音が響き渡る。[/Pulse]
その時だった。
[Impact]ヴォォォォォンッ!![/Impact]
鼓膜を破るような異形の爆音が、上空から群衆の頭上に叩きつけられた。
見上げるヴィンセントの瞳孔が驚愕に収縮する。
煤煙の雲を切り裂き、継ぎ接ぎだらけの不格好な滑空機が、絶叫するような風切り音を立てて急降下してきたのだ。
[A:ヴィンセント:怒り]「なっ……! 貴様、生きていたのか!」[/A]
[Shout]「撃て!! あの羽虫を叩き落とせ!!」[/Shout]
ヴィンセントが狂ったように叫び、自らも銀の拳銃を空へ向ける。
無数の銃弾が空気を切り裂く。カンッ、という甲高い音と共に、翼の端が弾け飛び、火花が散る。
だが、レオンは操縦桿から片手を離し、身を乗り出した。
風圧で顔が歪み、作業着がちぎれんばかりにバタつく。青い瞳が、まっすぐにアメリアを捉えていた。
[A:レオン:興奮]「アメリアァァァァッ!!」[/A]
油と血に塗れた手を、思い切り伸ばす。
[A:レオン:興奮]「迎えに来た! そのくだらねえ鳥籠から、出てこい!!」[/A]
アメリアの灰色の瞳に、強烈な光が宿った。
彼女は震える両手で、自らの足首に手を伸ばす。絶対に外れないはずの銀のアンクレット。力任せに引きちぎり、血の滲む素足を座席に叩きつけて跳躍した。
[A:アメリア:興奮]「レオンッ!!」[/A]
[Flash]空中で、泥だらけの手と、白手袋の手が激しくぶつかり合い、固く絡みつく。[/Flash]
レオンは凄まじい筋力で彼女を後部座席に引きずり込み、同時に操縦桿を限界まで手前に引いた。
[Magic]《フルスロットル》!![/Magic]
[Impact]ガアァァァァン!![/Impact]
エンジンが断末魔のような悲鳴を上げ、機体は垂直に近い角度で急上昇を始める。
[A:ヴィンセント:絶望]「アメリア! 戻れ! お前は私がいなければ……っ!」[/A]
ヴィンセントの手から拳銃が滑り落ちる。彼が見上げた先で、機体は厚く淀んだ帝都の煤煙の層に突入し、視界から消えた。
◇◇◇
[Sensual]
分厚い雲の壁を突き抜ける。湿った冷たい空気が、二人の頬を鋭く打つ。
アメリアは後ろからレオンの背中に強く抱きつき、そのぬくもりと鼓動を肌で感じていた。油と汗の匂い。生きている証の匂い。
[/Sensual]
[A:レオン:興奮]「目ぇ、開けてみろよ!」[/A]
雲の海を抜けた瞬間。
視界を完全に焼き尽くすような、圧倒的な光の奔流が世界を包み込んだ。
果てしなく広がる、突き抜けるような青い空。眼下に広がる純白の雲海は、昇りたての太陽に照らされ、燃えるような黄金色に輝いている。
[A:アメリア:喜び]「ああっ……!」[/A]
アメリアは息を呑んだ。涙が風に攫われて光の粒になる。これがお父様の本で見た世界。彼がずっと見ていた、本当の空。
[A:レオン:照れ]「言っただろ。俺の翼なら、行けるって」[/A]
レオンが振り返り、煤まみれの顔で悪戯っぽく笑う。その青い瞳は、目の前の空よりも美しく澄み切っていた。
アメリアはもう、自分の感情を押し殺さない。花が綻ぶような、本物の笑顔を彼に向ける。
帝都の冷たい石畳の上。
ヴィンセントは一人、ぽつりと空を見上げていた。彼の歪んだ秩序は崩れ去った。だが、その氷のような瞳の奥に映っていたのは、黒い煤煙の空に一筋だけ真っ直ぐに引かれた、純白の飛行機雲。
何者にも縛られない自由の証明拠として、いつまでも美しく輝き続けていた。