重金属の腐臭が漂う、第7セクター廃棄区画。
赤錆に塗れたパイプから、粘り気のある汚水が滴り落ちる。
ドクン、ドクン。
イヴァンの鼓動が、自身の耳膜を内側から叩き割るように響いていた。肺腑を灼くのは、極寒の空気と、致死量の絶望。
イヴァン「……ミーシャは、どこだ」
吐き捨てるような声。その切先は、暗がりに佇む影——ボリスへと向けられている。
ボリス「探すだけ無駄だ。あいつはもう、沈んだよ」
ボリスの靴底が、水溜まりを静かに踏み躙る。その足元、微かに光を反射するのは、ミーシャが肌身離さず持っていた銀のロケットだった。
視界が、紅く明滅する。
イヴァン「ふざけるな……ッ!」
跳躍。手にしたコンバットナイフが、鈍色の弧を描いてボリスの頸動脈へ迫る。だが、その刃が肉を裂くことはなかった。
「動かないで、イヴァン」
背中から押し当てられた、氷のように冷たい銃口。
振り返るまでもない。その声の主を、イヴァンの細胞すべてが記憶している。
イヴァン「……サーシャ」
サーシャ「ごめんなさい。……私たちは、生き残るためにこれしかなかったの」
彼女の声が、微かに震えていた。
嘘だ。冷酷な暗殺者である彼女が、感情を露わにするなど。
ボリス「そういうことだ、イヴァン。お前はここで終わりだ」
熱い吐息が、イヴァンの首筋にかかる。
サーシャ「……愛してるわ、イヴァン」
その囁きと同時に、サーシャの指が引き金を絞る。
轟音。
炸裂する閃光。しかし、血を吹いて倒れたのはイヴァンではなかった。
ボリス「が、は……ッ!?」
ボリスの胸に、ぽっかりと黒い風穴が空いている。彼が膝から崩れ落ちるのを、イヴァンはただ見下ろしていた。
イヴァン「……遅いぞ、サーシャ」
サーシャ「わざとよ。少しは痛い目を見ればいいのよ、あなたは」
銃口から立ち昇る硝煙を吹き消し、サーシャは薄い唇の端を歪める。
床に転がるボリスの死体を一瞥し、イヴァンは歩き出した。
かがみ込み、泥にまみれた銀のロケットを拾い上げる。掌のなかの金属は、凍りつくように冷たかった。
イヴァン「行くぞ。ミーシャを回収する」
二人の足音が、腐敗した地下都市の深淵へと吸い込まれていった。

第7セクター最下層。通称『スカル・プール』。
都市から排出される有機廃棄物と重化学薬品が混ざり合う、巨大な地下貯留槽。ボリスの言った「沈んだ」という言葉の意味を、イヴァンは嫌というほど理解していた。ここへ落とされた人間は、骨の一片すら残らず融解する。
サーシャ「……来るわ。上層の『掃除屋(クリーナーズ)』よ」
暗闇の奥、赤く光るサイボーグの義眼が幾つも蠢く。
銃撃戦の幕が上がるのに、言葉は不要だった。
ダダダダダッ!!!
サーシャの操るサブマシンガンが火を噴き、重金属の雨が迫る影を次々と引き裂いていく。肉が弾け、機械のオイルが撒き散らされる悪臭が通路に充満した。
イヴァンは遮蔽物を蹴って飛び出し、生き残った大男の懐へと滑り込む。
イヴァン「退けェッ!!」
ナイフの刃が男の人工筋肉を強引に両断し、首筋の制御チップを抉り出す。


激しい戦闘のさなか、背中合わせになったサーシャの背の熱が、衣服越しに伝わる。
「相変わらず無茶苦茶ね、イヴァン。でも、そういう壊れたところ、本当にゾクゾクするわ」
彼女の引き裂かれたライダースーツの隙間から、大量の返り血に濡れた白い肌が覗いていた。
敵の全滅を確認する間もなく、イヴァンは処理施設の鉄扉を殴り開けた。
その先に広がっていた光景に、イヴァンの息が止まる。
……にいちゃん……たすけて……
耳鳴りのような幻聴が、脳髄を直接揺さぶる。
巨大なガラス製の培養槽。緑色の防腐液で満たされたその内部に、彼女はいた。
ミーシャ。
だが、その姿はあまりにも無残だった。四肢はすべて切断され、無数の生命維持プラグが背骨に直接突き刺さっている。彼女の脳と心臓だけが、施設のメインサーバーに接続され、辛うじて『生かされて』いた。
イヴァン「ミーシャ……そんな、嘘だろ……」
ガラスに触れるイヴァンの手が、激しく震える。
管理官「素晴らしい適合率だろう? 彼女の脳は、このセクターの廃棄システムを制御する最高のパーツになったのだよ」
天井のスピーカーから、不気味な男の声が響く。この施設の主だ。
サーシャ「ふざけた真似を……! イヴァン、システムを遮断して。この男の居場所は私が突き止める」
サーシャがコンソールに端末を叩きつけ、ハッキングを開始する。
その時、培養槽の中のミーシャが、ゆっくりと目を開けた。
光を失ったその瞳が、ガラス越しにイヴァンを捉える。
「い……ヴぁん……? ごめん、ね……もう、わたし、人間の形に、戻れな……」
水槽内に設置されたスピーカーから、機械的に合成されたミーシャの声が漏れ出す。
イヴァン「喋るな、ミーシャ! 今すぐそこから出してやる!」
「ううん……殺して、お兄ちゃん。これ以上、この街の、歯車にされたくないの……」
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の鼓動が、狂ったように早くなる。イヴァンはナイフを握り直した。ガラスを叩き割れば、溶液が流れ出し、彼女の生命維持は完全に停止する。それが彼女の望む「救い」だった。
管理官「させんよ。貴重なサンプルを破棄させてたまるか」
ガガガガガッ!
天井から突如として現れた自動迎撃機(ドローン)が、一斉に銃撃を開始する。
サーシャ「イヴァン、避けて!!」
サーシャがイヴァンの身体を突き飛ばし、自らが身代わりとなって銃弾を浴びる。彼女の身体から鮮血が噴き出し、床の汚水を赤く染めた。
イヴァン「サーシャーーッ!!」
理性が消し飛んだ。イヴァンはドローンの銃撃を掻い潜り、その機体に飛び移ると、剥き出しの配線を素手で引きちぎった。火花が散り、ドローンが爆発する。
満身創痍のイヴァンは、血の海に倒れるサーシャの元へ駆け寄った。
サーシャは弱々しく微笑み、血に濡れた手でイヴァンの頬を撫でる。
サーシャ「ねえ……私、ちゃんと役に立てたかしら……? あなたの特別に……なれた?」
彼女の唇から溢れる温かい血が、イヴァンの首筋に滴り落ちる。
イヴァン「ああ、お前は俺の相棒だ。だから、まだ死ぬな」
イヴァンは立ち上がり、ミーシャの培養槽へと歩み寄った。
ミーシャは、静かに微笑んでいた。
イヴァン「……愛してるよ、ミーシャ。お前をこの地獄から解放する」
パリィィィィン!!!
渾身の力で振り下ろされたナイフの柄が、強化ガラスを粉砕した。
溢れ出す緑色の液体とともに、ミーシャの身体が床へと滑り落ちる。生命維持のアラートがけたたましく鳴り響き、彼女の心臓の脈動が、徐々に、静かに、消えていく。
イヴァンはミーシャの胸元に、先ほど拾い上げた銀のロケットをそっと置いた。
イヴァン「一緒に行こう。この腐った街の、外へ」
サーシャの身体を抱き起こし、イヴァンは歩き出す。背後では、制御を失った廃棄処理施設が、爆発の連鎖を始めていた。
燃え盛る硝煙の向こう側、暗黒の地下世界を捨てた二人の影が、かすかな光が差し込む地上への出口へと向かって消えていった。