第一章: 血塗られた神殿の嘘
夕闇が、消毒液の染みついた病室を思わせる薄暗い六畳間に忍び寄る。
トタン屋根を叩く雨音は重く、湿った冷気が床板から這い上がってきた。
葉山 朔は、無造作に伸びた漆黒の髪を病的に白い額に散らし、机に向かっている。
骨張った指先が、赤黒く染まった鋭いカミソリの刃をじわりと握り締めた。
手首に刻まれた無数の自傷痕から、生温かい真紅の液体が容赦なく溢れ出す。
朔はその先端を、愛用の万年筆のペン先に慎重に、そして恭しく浸した。
黒いシャツの袖を捲り上げ、鉄の錆びたような匂いで部屋を満たしていく。
真っ白な原稿用紙の繊維が、喉の渇きを潤すように、その赤黒い染みを貪欲に吸い上げた。
傍らには、純白のノースリーブワンピースを纏った織原 瑠璃が、静寂そのものとなって座っている。
ハーフアップに結った絹のように滑らかな黒髪が、陶器を思わせる肌に淡い影を落としていた。
彼女の漆黒の瞳は虚空を捉えたまま、視線はどこにも定まっていない。
それでも、瑠璃はペンが紙の繊維を削り取る微細な摩擦音に、じっと耳を澄ませていた。
織原 瑠璃「朔ちゃん、今日も美しいお話を書いて。私はただ、あなたの影を追いかけるから」
その鈴を転がすような澄んだ響きが、閉ざされた部屋のよどんだ空気を微かに震わせる。
朔の喉が引き攣り、ひび割れた唇から乾いた呼吸が漏れた。
葉山 朔「僕が君の目になる。だから君は、僕という光だけを見ていればいい」
トクン、と耳奥で熱い血脈が激しく跳ねる。
瑠璃が提示する絶対的な沈黙こそが、朔にとっての唯一の聖域だった。
彼女の盲目という盾の裏で、朔は自らの肥大した支配欲を甘美に潤していく。
しかし、原稿に刻まれる流麗な一節は、神保町の古書店で盗み見た無名作家の遺稿そのもの。
他者の言葉を、自らの血をインクにしてなぞるだけの、あまりにも薄汚い模倣に過ぎない。
偽りの神殿に君臨する支配者の快楽が、朔の背筋を冷たく這い上がっていく。
この腕が動かなくなるまで、彼女にとっての唯一の神様でい続けなければならないんだ。
織原 瑠璃「朔ちゃんの言葉は、私にとっての光なの。目を閉じているのに、何でも見える気がするわ」
そのあまりにも無垢な言葉が、朔の手首の傷口をさらに深めるように抉る。
赤黒い文字が、原稿用紙の余白を埋め尽くし、歪んだ芸術を完成させていった。
完璧な欺瞞に満ちた時間が、夜の底知れぬ深淵へと静かに溶けていく。
ドンドンドン!
突如、錆びついた鉄のドアが暴力的な音を立てて激しく震えた。
第二章: 剥ぎ取られた偽りの翼

稲光が窓を白く染め上げ、激しい雷鳴が六畳間の空気を激しく揺さぶる。
ドアが力任せに蹴り開けられ、ずぶ濡れの影が部屋に侵入した。
オールバックに整えられた髪から雨水を滴らせた男、梶谷 創がそこに立っている。
高級ブランドの眼鏡の奥で、爬虫類を思わせる冷徹な瞳が不気味な光を湛えていた。
グレーの仕立ての良いスーツにまとわりつく雨の匂いが、鉄の香りを乱暴に塗り替える。
梶谷は、朔が書き上げたばかりの、まだ乾かぬ血染めの原稿を容赦なく奪い取った。
そして、床に溜まった汚水へと叩きつけるように投げ捨てる。
梶谷 創「市場が求めているのは、君の血ではなく、君の物語だ。……もっとも、もうそれも存在しないがね」
朔の呼吸が瞬時に止まり、細く痩せた体躯が恐怖で微かに痙攣する。
葉山 朔「か、梶谷さん……何を、言っているんだ……?」
梶谷は口元を三日月のように歪め、指先のヤニ汚れを目立たせながら、一枚の書類を突きつけた。
梶谷 創「君が盗み出した遺稿の遺族と契約を結んだよ。すべての模倣、盗作の証拠が揃った」
すべてが、ここで暴かれた。
梶谷は動けない朔の濡れた髪を乱暴に掴み上げ、その顔を至近距離で覗き込む。
梶谷 創「君には最初から才能などない、ただの寄生虫だよ。血を流せば芸術家になれるとでも思ったか?」
葉山 朔「あ、ああ、あぁぁぁっ!」
喉の奥から絞り出されたのは、獣のような掠れた絶叫だった。
激しい動悸が胸を突き上げ、視界の端が急激にぼやけ始める。
梶谷の言葉は、朔が必死に築き上げてきた存在価値を根底から消し去った。
梶谷 創「その安っぽい血のインクで、一体いくらの利益が生み出せるんだ? 精々、悲劇の作家として死んでもらう方が売れるだろうね」
梶谷は吐き捨てるように言い放ち、壁際に微動だにせず佇む瑠璃を侮蔑を込めて一瞥した。
梶谷 創「その人形もお前の哀れな嘘に付き合わされて、いい迷惑だな」
重い靴音が遠ざかり、部屋には窓を叩きつけるような豪雨の音だけが取り残される。
朔は泥水に塗れた床に這いつくばり、書き損じた原稿の束に顔を埋めた。
手首の傷が、冷たい泥水と混ざり合って、白くふやけていく。
唯一の観客である瑠璃の前で、自らの虚無が、醜悪な化けの皮が完全に剥き出しにされた。
死ぬしかない。もう、僕には、何も残されていないんだ。
朔は震える手で、ポケットから磨き抜かれたカミソリを取り出した。
冷たい金属の刃が、青白い喉元へと優しく押し当てられる。
第三章: 欺瞞の楽園、永久の牢獄

雨が上がり、冷たい灰色の光が窓から静かに差し込む。
朔の首筋に触れた刃が、微かな赤い線を刻み、一筋の血が鎖骨へと滴り落ちた。
葉山 朔「瑠璃……僕は、最低の人間だ。君を、裏切っていた……」
震える掠れた声が、静まり返った部屋に頼りなく響く。
葉山 朔「僕の小説はすべて、他人の言葉を盗んだだけの偽物なんだ。君を騙して、神様のつもりでいたんだ……!」
瑠璃の冷酷な軽蔑と拒絶を覚悟し、朔は目を強く瞑った。
しかし、首元のカミソリが、絹のように滑らかな白い指先によって静かに奪い去られる。
織原 瑠璃「朔ちゃん」
そのあまりにも穏やかで、慈雨のような声に、朔はゆっくりと瞼を開けた。
視線が重なる。
焦点の合わないはずの、瑠璃の漆黒の瞳が、真っ直ぐに朔の顔を射抜いていた。
その瞳はどこまでも深く、澄み渡り、目の前の男の醜態を完璧に捉えている。
織原 瑠璃「知っていたわ、朔ちゃん」
葉山 朔「え……る、瑠璃……? 君の、目は……」
瑠璃はそっと首を傾げ、妖艶な、ゾッとするほど美しい笑みを浮かべた。
織原 瑠璃「あなたが他人の文章を写しているときの、ペンの進め方のリズム。焦った呼吸。全部聞こえていたもの」
彼女は指先で、朔の頬に付着した泥と血を、愛おしそうに優しく拭い取る。
織原 瑠璃「あなたが私を『無垢な玩具』として支配したがっていることも、全部。私はね、目が見えるのよ」
脳内で、信じていた世界が決定的に崩壊する。
朔を支配していたはずの「盲目の少女」は、最初から存在しなかった。
むしろ、朔の狂気と執着を極限まで引き出すために、彼女が完璧な舞台を演じていただけ。
檻の中にいたのは、朔の側だった。
織原 瑠璃「朔ちゃんの言葉は、私にとっての光なの。嘘でも、偽物でもいい。私のために、傷ついて」
朔の全身に、甘美な戦慄が稲妻のように駆け巡る。
♥歪んだ恍惚[/Heart]が、絶望の泥沼を、極彩色の楽園へと急速に塗り替えていく。
二人は互いの体を、骨が軋み、肉が溶け合うほどの強さで抱きしめ合った。
葉山 朔「僕にはこれしかないんだ。瑠璃、君だけが、僕の……」
織原 瑠璃「ええ、ずっと一緒よ。もっと深く、私を騙して」
二人は狂ったように微笑み、再び手を取り合う。
冷たいカミソリの刃が、新たな嘘を紡ぐための、世界で最も美しい赤いインクを呼び覚ました。