第一章: 腐爛する果実の部屋
降りしきる夜雨が、書斎の硝子戸を激しく叩きつけていた。
饐えた甘酸っぱい悪臭が、散乱する原稿用紙の隙間から濃密に立ち上る。
床に転がった木箱の林檎は茶色く濁り、どろりと果汁を溢れ出させて畳を汚していた。
痩躯を包む墨色の着流しの裾を乱し、蓮見馨は這いつくばって紙片を貪るように漁る。
病的に長い睫毛に縁取られた三白眼が、血走りながら最後の遺稿を探し求めていた。
インクと煙草のヤニで汚れた指先が、かさりと乾いた音を立てて紙を引っ掻く。
背後の闇が揺れ、湿った絹擦れの音がした。
夜会巻きに結い上げた黒髪の下、陶器めいて青白い項が覗いている。
紫紺の絹着物を纏った深見志津子が、音もなくそこに佇んでいた。
深見 志津子「探し物は見つかりましたか、馨さん」
馨の背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
喉が砂を噛んだように干上がり、荒い息が引きつった。
蓮見 馨「し、志津子さん……これは、先生の遺品を……整理しようと」
深見 志津子「嘘をおつきでないこと。『林檎の園』に続く、夫の遺稿を探しているのでしょう?」
紅を引いた唇が、嘲るように弧を描く。
志津子は音もなく歩み寄り、冷たい白魚のような指先で馨の顎を強引に掬い上げた。
氷のような肉の感触が、皮膚の奥へと食い込む。
馨の呼吸が止まり、全身の血液が指先へと一気に収縮していく。
美しく尖った爪が、馨の青白い喉仏を嬲るようにゆっくりとなぞり下りる。
馨の膝から完全に力が抜け、情けなく畳へと額を擦り付けた。
蓮見 馨「ああ……あなたのその指先が、いっそ僕の頸を絞めてくれればいいのに」
志津子の冷たい指先が割り込み、馨の湿った唇を強引に押し開く。
深見 志津子「泥棒の子猫ちゃん。次の作品も夫の遺稿を使うのでしょう?……いいえ、わたくしが書かせてあげますわ、あなたの肉体に」
口内に広がる林檎の腐臭と白粉の匂いに、馨の背骨が甘く痺れ、狂おしい熱に侵されていった。
第二章: 共犯の甘い毒

寝室の床の間には、花弁を茶色く枯らした白百合が首を垂れていた。
障子を透かして差し込む青白い月光が、乱れ狂った敷布を生々しく照らし出す。
馨の浅く荒い吐息が、志津子の露わになった白い胸元に吹きかかる。
馨は夢中で志津子の細い人差し指に吸い付き、尖った歯でその柔らかな肉を噛み締めた。
蓮見 馨「僕にはこれしかない……先生の真似事しか書けない空っぽの怪物なんだ」
志津子は乱れた黒髪をそのままに、艶めく爪先で馨の背筋を容赦なく引き裂いた。
皮膚が裂け、微かに滲む血の熱さが馨の全身を心地よく震わせる。
深見 志津子「お可哀想な馨さん。まだ気づいていらっしゃらないの?」
志津子は馨の髪を指に強く絡め、強引にその顔を仰向かせた。
冷淡な黒瞳が、馨の怯える瞳を凍てつかせるように射抜く。
深見 志津子「夫はね、とうに筆が折れていたの。あなたが若い頃に残した習作ノートを盗み見て、自分の名で発表していたのよ」
馨の耳朶で、何かが砕け散る音がした。
盗作していたのは、師の方だった。
僕が奪ったと思っていた遺稿は、最初から僕自身の魂の残骸だったというのか。
蓮見 馨「あ……あああッ!」
その引き裂くような叫びを遮るように、書斎の引き戸が轟音を立てて蹴破られた。
第三章: 剥き出しの怪物たち

夜空を裂いた稲妻が、部屋の隅々までを昼のように白く染め上げる。
敷居の上に仁王立ちしていたのは、丸眼鏡をかけた中年男――編集長の梶原宗一だった。
泥にまみれた革靴で畳を踏み躙り、安煙草の濁った紫煙を部屋中に吐き出す。
梶原 宗一「おいおい、傑作の種明かしにしては湿っぽすぎるじゃねえか」
無精髭に覆われた口元が醜悪に歪む。
梶原は胸ポケットから銀色の万年筆を引き抜くと、馨の足元へ無造作に投げ捨てた。
梶原 宗一「深見は嫉妬に狂ってあんたの才能を殺そうとした。だから志津子さんに毒を盛られて殺されたんだよ」
馨の視線が、血の気を失った志津子の横顔へと吸い寄せられる。
志津子は小さく息を呑み、紅を引いた唇を血が滲むほどに噛み締めていた。
梶原 宗一「文学ってのはなぁ、人間の死肉の上にしか咲かねえ花なんだよ。盗作だろうが殺人だろうが関係ねえ。お前の血肉でこの結末を書き殴れ!」
重苦しい沈黙の中、馨は床に転がる万年筆を震える手で握りしめた。
心臓が早鐘を打ち、指先に灼熱の業火が巡る。
馨は志津子に歩み寄り、彼女の冷え切った指先に狂ったように激しい口づけを落とした。
蓮見 馨「書くさ……僕たちの地獄を、余さず全部!」
馨の瞳から卑屈な影が消え失せ、底知れぬ飢えを宿した獣の光が宿っていた。
第四章: 指先に遺る永遠
薄紫の朝靄が、書斎の硝子窓を白々と染め抜いていく。
床一面には、黒々と狂気じみた文字が刻まれた数百枚の原稿用紙が敷き詰められていた。
最後の句点を力強く打ち終えた瞬間、馨の手から万年筆がカタリと零れ落ちる。
原稿の束を狂喜の笑みで抱え込んだ梶原は、一瞥もくれず土足のまま部屋を飛び出していった。
嵐の去った部屋に、二人きりの濃密な静寂が降り注ぐ。
志津子の張り詰めていた糸が切れ、着物の裾を崩して馨の胸へと崩れ落ちるように倒れ込んできた。
その華奢な肩は小さく、今にも壊れそうに頼りなく震えている。
馨は墨に汚れた手で、彼女の冷たく細い指を一本ずつ愛おしそうにすくい上げた。
自らの唇で包み込み、甘い毒を吸い出すように丁寧に舐め清めていく。
深見 志津子「馨さん……わたくしたち、もうおしまいですわね」
蓮見 馨「ええ。ですが、この指先だけは僕のものです」
馨は卓上に残された濁った林檎の酒を自らの口に含み、志津子の唇へと静かに注ぎ込んだ。
饐えた果実の甘さと、灼けつくようなアルコールの熱さが二人の舌を深く絡め取る。
遠くから、雨上がりの澄んだ空気を切り裂いて警察の冷たいサイレンが近づいてくる。
馨の骨張った指と、志津子の白魚のような指が、音もなく深く、強く絡み合った。
二度と解けぬ強固な檻となって。
二人は濡れた瞳を見つめ合い、迫り来る破滅を抱き締めるように静かに笑い崩れた。