第一章: 破滅の魔王と、狂気の猫吸い聖女
パチ、パチと爆ぜる乾燥したブナの薪。
煮出したカモミールと甘い蜂蜜の湯気が、山奥にひっそりと佇む丸太小屋の薄暗がりを満たしていた。
無垢材の分厚いテーブルの上、真っ白な生き物が一匹。
体長わずか四十センチ、柔らかな綿毛を全身に纏い、額には豆粒ほどの愛らしい紅い角を宿す神獣系の子猫。
かつて全土を血の海に沈め、神々すら戦慄せしめた漆黒の覇王――魔王ヴァルハイトである。
だが今の彼は、両前足と短い後ろ足を無防備に天へ投げ出し、無残にも腹を丸出しにして転がされていた。
くそっ、体が……言うことを聞かぬ……!
その小さな体を真上からねめ回すのは、腰まで届くプラチナブロンドの銀髪を揺らした絶世の美少女。
清廉潔白を象徴する白と金の聖女装束に身を包んだ、エレノア・フォン・シルフィードその人だった。
サファイアブルーの瞳は爛々と濁った情欲を宿し、銀縁の眼鏡を人差し指でクイと押し上げると、喉の奥から重たい吐息を漏らす。
エレノア・フォン・シルフィード「あぁぁ……ハイト様……本日も至高の神聖なる毛並み……吸わせていただきますわぁっ!」
ヴァルハイト(通称「き、貴様、やめぬか無礼者! 余は漆黒の鎧を纏いし魔王であるぞ! 腹を吸うでな――ふにゃああああっ!?」
制止の声など欠片も届かない。
エレノアの端麗な顔面が、ヴァルハイトの柔らかい純白の腹毛へ、重力を無視した勢いで深々と埋め込まれる。
すぅぅぅぅぅーーーっ!
肺胞が限界まで軋む、凄まじい吸引音。
気管支の隅々まで子猫の粒子を満たそうとする執念のブレス。
エレノア・フォン・シルフィード「天界の芳香……太陽に干したシーツと焼き立てのパンの香り……宇宙の真理がここにありますわ……!」
ヴァルハイト(通称「く、くすぐったい! 離せ下等生物め! ……ふぎゃっ、そこを、耳の後ろを掻くでない……!」
エレノアの白く細い指先が、耳の裏側と顎の下の急所を、職人技の力加減でカリカリと掻き上げる。
ゴロゴロゴロ……
魔王の矜持とは裏腹に、喉の奥から甘やかな振動が勝手に溢れ出した。
全身の筋肉から完全に力が抜け、ピンク色の肉球が虚空をふにふにと掴む。
魔力を使い果たして衰弱し、雪山で行き倒れていたところをこの狂気の女に拾われて早一ヶ月。
朝夕差し出される極上の濃厚ミルク粥と、全身の凝りを完璧にほぐす神技の指圧マッサージに、抗う術は疾うの昔に失われていた。
その時、のどかな静寂を暴力的な轟音が打ち砕く。
ドガァァン!
頑丈な樫の木で作られた小屋の扉が、蝶番ごと弾け飛んだ。
第二章: 急襲の勇者と、奇跡の肉球セラピー

粉々に砕け散った木片の嵐の中、真紅のマントを風情もなく翻し、伝説の聖剣を抜いた赤髪の青年が仁王立ちしていた。
琥珀色の瞳を血走らせ、怒りと焦燥に肩を揺らす人類の最終兵器――勇者レオン・ブレイズハート。
レオン・ブレイズハート「エレノア! こんな辺境で何をしている! 教会は大騒ぎだぞ! ……それに、その微かに邪悪な気配を放つ魔獣は何だ!?」
ヴァルハイト(通称「ぐぬっ、ついに我が正体が露見したか……!」
ヴァルハイトの全身の毛が逆立ち、短い尻尾がピンと直立する。
だが次の瞬間、小屋の中の室温が急激に氷点下まで叩き落とされた。
エレノアのサファイアブルーの瞳からハイライトが完全に消失し、絶対零度の殺気がレオンの喉元を精密にロックオンする。
エレノア・フォン・シルフィード「……静かにしなさい、レオン。ハイト様がお昼寝から目覚めてご機嫌を損ねたら、光線魔法で塵一つ残さず消滅させますわよ」
レオン・ブレイズハート「エ、エレノア……? お前、目が血走って……っ」
青筋を浮かべた聖女の異様な迫力に、数多の魔獣を屠ってきた勇者が本能的な後退りを一つ。
殺伐とした一触即発の気配に居心地の悪さを覚えたヴァルハイトは、短い四肢でトテトテと床を歩み、レオンの足元へ近づいた。
傷だらけの金属すね当てに純白の頭をすり寄せ、小さな前足をすっと伸ばす。
ぷに。
ピンク色の瑞々しい肉球が、レオンの無骨な膝の甲冑をポンポンと優しく叩いた。
ゴロゴロゴロ……
ヴァルハイトの喉から放たれた極上の微振動――『魂の共鳴』の癒やし波動が、冷たい金属を透過してレオンの全身を包み込む。
世界の命運を一人で背負わされる過酷な重圧。
「勇者様なら救ってくれる」という民衆の底知れぬ身勝手な欲望。
擦り切れ、血を流し、今にも砕け散りそうだった青年の心が、圧倒的な純粋無垢の温もりによって蕩けるように満たされていく。
レオン・ブレイズハート「な……んだこれ……? 俺はずっと……誰かに、こうして欲しかったのか……?」
涙の雫が甲冑を濡らし、床に落ちる。
最強の勇者はその場に膝から崩れ落ち、震える両手で恐る恐る、壊れ物を扱うように子猫を胸へと抱き上げた。
レオン・ブレイズハート「あったけぇ……うわぁぁぁん! ハイト様ぁぁ!」
勇者が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして陥落したその瞬間、森の木々をざわめかせる無数の冷酷な足音が小屋を完全に包囲した。
第三章: 日常を守るための共闘、そして極上の昼寝

窓の外の木々を、黒装束を纏った集団が埋め尽くしていた。
放たれるのは、血と鉄の臭いにまみれた異端審問暗殺部隊の禍々しい気配。
聖女の強制奪還、および不浄な魔獣の即時処刑を告げる無機質な詠唱が、夕暮れの空気をビリビリと震わせる。
エレノア・フォン・シルフィード「わたくしたちの至福の時間を邪魔する害虫どもめ……万死に値しますわ」
レオン・ブレイズハート「ハイト様には指一本触れさせねぇ!」
二人が殺気を剥き出しにして武器を構えた瞬間、ヴァルハイトが小さな体で縁側へと進み出た。
純白の毛を逆立て、エメラルドグリーンの瞳を鋭く輝かせる。
ヴァルハイト(通称「やれやれ……余の忠実なる下僕どもに手を出そうなど、一万年早いわ!」
ヴァルハイト(通称「にゃぁぁぁーーーっ!」
額の小さな角が眩い閃光を放ち、《暗黒神聖複合絶対障壁》がコテージ全体を黄金と漆黒の分厚いドームで覆い尽くす。
外から降り注いだ無数の即死攻撃魔法は、膜に触れた瞬間に心地よい花火のような光の粒子となって霧散した。
エレノア・フォン・シルフィード「ハイト様のお力……素晴らしいですわ! 《セイクリッド・バインド》!」
レオン・ブレイズハート「行くぜオラァッ! 《ブレイブ・スラッシュ》!」
編み上げられた無数の光の鎖が暗殺者たちを瞬時に縛り上げ、聖剣の衝撃波が森の木々ごと敵の軍勢を一掃して地平線の彼方へと吹き飛ばす。
血の一滴すら流させぬ、圧倒的なまでの連携と蹂躙。
戦いが終わり、秋の柔らかな夕暮れが縁側を濃密なオレンジ色に染め上げる。
レオンが焚き火で丁寧に炙った最高級サーモンジャーキーを細かく裂いて差し出し、エレノアは神業のブラシさばきで背中の毛並みを優雅に梳かす。
ヴァルハイト(通称「ふん、下僕にしては上出来の働きであったぞ」
エレノア・フォン・シルフィード「♥「まぁっ、お腹を出してくださるなんて! 今夜は夜通し猫吸いですわ!」[/Heart]」
レオン・ブレイズハート「おいエレノア、俺にも少し吸わせろよ! 俺のほうがジャーキー上手に焼けたんだからよ!」
エレノア・フォン・シルフィード「不潔ですわレオン、貴方はまず滝で身を清めてきなさい!」
世界を救うはずの勇者と、神に祈るはずの聖女が繰り広げる醜い奪い合い。
その騒がしい二人の声を極上の子守唄代わりに聞きながら、元魔王は陽だまりの中で喉を盛大に鳴らし、抗えぬ微睡みの海へと深く落ちていった。