第一章: 血煙と粉砂糖のファーストコンタクト
冷え切った雨水が、黒ずんだ石畳を叩きつける。
濡れそぼった黒革のロングコートの裾から、粘り気のある鈍い赤が滴り落ちた。
漆黒の長髪を首の後ろで雑に束ねた男――帝都の裏社会で『死神』と恐れられる暗殺者レオンハルトは、刃物そのものの冷え切った灰色の瞳をギラつかせ、軋む木製の扉を肩で乱暴に押し開ける。
店内に漂うのは、濃厚なバニラビーンズと発酵バターの焼ける暴力的なまでに甘い匂い。
硝煙と凝固した血の臭気にまみれていた肺腑が、異質な芳香によって激しく満たされる。咽頭が引きつり、乾いた嚥下音が喉仏を震わせた。
レオンハルト「……動くな。声を上げれば、喉首を切り裂く」
拘束ベルトに差した鋭利なダガーの柄に親指を掛け、低く濁った声を店内に落とす。
鼓膜のすぐ裏側で刃を研ぎ澄まされるような絶対的な殺気。
だが、カウンターの奥からひょっこりと顔を出した少女の琥珀色の垂れ目は、血濡れの凶刃を前にしても微塵も揺らがない。
柔らかなミルクティー色のウェーブヘアをハーフアップにし、粉まみれの木綿エプロンを身に纏った小柄な少女――セリア・フィッツは、不思議そうに首を傾げ、白い指先をふっくらとした顎に添える。
セリア・フィッツ「まあ、いらっしゃいませ!……って、あらあら、大変」
レオンハルト「貴様、言葉が聞こえなかったのか。命が惜しくば――」
凄惨な脅迫の言葉を無残に断ち切ったのは、レオンハルトの腹の底から響いた情けない重低音だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ……
静寂に包まれた店内に、飢えた獣の唸り声が響き渡る。
レオンハルトの頬の肉が引きつり、灰色の瞳が羞恥と殺意の狭間で凍りついた。任務のために三日間、泥水すら口にしていなかった肉体が、甘美な空気の刺激に耐えきれず痙攣している。
セリア・フィッツ「まあ!そんなに怖いお顔をして……もしかして低血糖ですか?」
レオンハルト「な……何だと?貴様、この俺を愚弄する気か……!」
セリア・フィッツ「待っていてくださいね!すぐに効く特効薬を出しますから!」
セリアは小走りでトングを握ると、ガラスのショーケースから、茶褐色に香ばしく焼き上がった拳大の球体を取り出した。
無警戒そのものの軽やかな足取りで、レオンハルトの絶対殺傷圏内へと踏み込んでくる。
間合いの侵入速度、ゼロ。暗殺の初歩すら弁えぬ愚か者め。即座に頸動脈を裂き、肉の盾に――
セリア・フィッツ「はい、お口を大きく開けてください!あーん!」
レオンハルト「むぐっ!?」
無造作に押し込まれたのは、掌ほどの大きさがある焼きたての『極上クランブル・シュークリーム』だった。
強引に噛み砕かれた極薄の生地が、サクサクと快音を立てて爆散する。
閃光のような衝撃。
舌の上に溢れ出たのは、極限まで練り上げられた黄金色のカスタードクリームだった。
熱を帯びた口蓋でとろりとほどけ、濃厚な卵黄のコクと芳醇なバニラの香りが、爆発的な奔流となって鼻腔を突き抜ける。
……なんだこれは。甘い。極限の純度だ。砂糖の浸透圧と卵黄の乳化バランスが完璧すぎる……!
幼少期から毒物と泥水しか喉を通さず、生きるための燃料としてしか食物を認識してこなかった殺人機械の味蕾が、甘美な暴力によって一方的に蹂躙されていく。
全身の毛穴が開き、脳内に濃密な陶酔が巡る。
レオンハルト「……う、美味い……なんという完成度だ……」
膝の関節から完全に力が抜け落ち、屈強な大男が床に崩れ落ちた。
灰色の瞳から一筋の涙が静かに伝い、濡れた黒革の襟元へと吸い込まれていく。
セリア・フィッツ「ふふ、元気が出ましたか?雨宿りでもしていってください。お代の代わりにお手伝いをしてくれるなら、二階の空き部屋に泊まってもいいですよ!」
この少女……ただ者ではない。この至高の甘味製造装置を護衛し、全フレーバーを独占しなければならん……!
レオンハルト「……取引成立だ。俺が貴様の用心棒を務める」
一方、雨煙の立ち込める薄暗い路地裏。
店の向かいに立つ電柱の陰から、曇った双眼鏡を下ろす角刈りの大男が一人いた。
無精髭を撫でる憲兵隊長バルツ・ハインツの手が、捜査手帳の鉛筆を握ったまま強烈に震えている。
バルツ・ハインツ「馬鹿な……あの冷酷無比な死神が民間人を人質に取り、史上最悪の生体毒素を口内投与で調教しているというのか……!?」
降りしきる冷雨の中、勘違いに満ちた男の戦慄が静かに深まっていた。
第二章: 死神の泡立て器と監視者の深読み

翌朝の暖かな陽光が、甘い小麦とバニラの香りで満たされた厨房の床を照らし出す。
身の丈百八十八センチ、鋼のように引き締まった逆三角形の体躯。
その威容に掛けられているのは、胸元にピンク色のクマが刺繍されたフリル付きのエプロンだった。
レオンハルトは仁王立ちのまま、手渡された巨大なステンレスボウルを、獲物の心臓を狙うような底冷えする視線で見つめている。
セリア・フィッツ「シフォンケーキ用の卵白です!ツノがぴんと立つまで、しっかり泡立ててくださいね!」
レオンハルト「……貴様、命が惜しくばその白い粉の配合比率を吐け。隠し立ては許さん」
セリア・フィッツ「あはは、企業秘密ですよ!薄力粉百二十グラムに、グラニュー糖が八十グラムです!さあ、手首のスナップを利かせて!」
全部あっさりと喋っている。だが、レオンハルトの瞳は極めて真剣だった。
なるほど。遠心力と空気の抱合率を極限まで高めろという暗殺指令だな。了解した
レオンハルトの右腕がブレた。
ドッ、シュルルルルルルルルッ!!
刃物を振るう神速の暗殺体術が、銀色の泡立て器にそのまま宿る。
超音速で空気を引き裂く甲高い風切り音が厨房に木霊し、ボウル内の透明な卵白が一瞬にして純白の雲海へと変貌を遂げた。
わずか三秒。逆さにしても一滴たりとも垂れ落ちない、陶器のように滑らかで緻密な極上のツノが立ち上がる。
セリア・フィッツ「す、すごいですレオンさん!まるで魔法使いみたい!」
セリア・フィッツ「こんなに立派なメレンゲ、私初めて見ました!」
無邪気に歓声を上げたセリアが、無防備にレオンハルトの逞しい右腕へと飛びついた。
押し当てられた豊かな胸の柔らかな弾力が、薄い木綿のエプロン越しに二の腕へ密着する。
甘い粉砂糖と少女のあどけない体温の混ざり合った芳香が、容赦なく鼻腔を直撃した。
♥ドクン、と首筋の古い裂傷が熱く跳ねる。[/Heart]
二十六年間の生涯で、他人の温もりはおろか、女性の肌に触れた経験など皆無の暗殺者は、全身の腱を硬直させて耳まで朱に染めた。浅くなった呼吸が喉を詰まらせる。
レオンハルト「ぐっ……き、貴様……離れろ……っ、間合いが近すぎる……!」
セリア・フィッツ「あ、ごめんなさい!腕の筋肉がすごく綺麗で、つい見惚れちゃって……」
セリアが慌てて身を引くと、その小さな耳たぶまで夕焼けのように赤く色づいていた。
こ、これが噂に聞く精神汚染トラップか……触覚と嗅覚から脳幹を侵食する、恐ろしい破壊力を持つ女だ……
一方、通りの向かいにある雑居ビルの屋上では、三脚に据えた望遠鏡を覗き込むバルツが胃のあたりを強く押さえて冷や汗を流していた。
バルツ・ハインツ「あ、あの手首の異常な回転運動……毒物の極微粒子撹乱技術を実演しているのか!?しかもあの幼い店主は恐怖で取り乱し、必死に命乞いをしている……!」
捜査手帳の頁に殴り書きされる『下町全域散布型・気化生物兵器の調合現場』の文字。
押し付けられた鉛筆の芯が、鋭い音を立ててボキリと折れた。
バルツ・ハインツ「奴め、明日の新商品発表会を帝都壊滅のゼロアワーに設定したな……!特殊強襲部隊を全班招集しろ!下町の平和は俺たちが守る!」
眼下の路上では、レオンハルトが無骨な指先で、セリアのミルクティー色の髪についた小麦粉をそっと、ぎこちなく払い落としていた。
第三章: 激突のティータイムと究極のフォンダンショコラ

翌日の昼下がり。『プティ・ボヌール』の店頭には、焼きたての香ばしい匂いに引き寄せられた下町の住人たちが列を作っていた。
カウンターの中央には、黒い宝石のように妖しく艶めく新作『とろける濃厚フォンダンショコラ』が銀のトレイに美しく鎮座している。
セリア・フィッツ「はいどうぞ!外側はさっくり、中はとろーり熱々ですよ!」
満面の笑みで紙包みを手渡すセリア。
だが次の瞬間、けたたましい破壊音が平和な空気を無慈悲に粉砕した。
ガシャァァァン!!
正面のガラス扉を蹴破り、黒塗りの防弾ベストで身を固めた重武装の憲兵集団が雪崩れ込む。
破片が床に飛び散る中、先頭で軍刀を抜刀したのは血走った眼光のバルツだった。
バルツ・ハインツ「動くな死神!その危険な黒色火薬の塊から離れろ!民間人を今すぐ解放するんだ!」
無骨な散弾銃の銃口が、怯えるセリアへ、そして焼きたてのショコラへと無情に向けられる。
レオンハルトの瞳から感情の光が完全に消えた。
室内の気温が一気に氷点下へと叩き落とされるような、絶対零度の殺気。足元の石畳が微かにきしむ。
レオンハルト「……万死に値する」
影が爆発した。
視界から完全に消失したレオンハルトは、一瞬で隊員の懐へ踏み込み、先頭の男の肘関節を逆方向に極めて武器を奪取。
奪い取った散弾銃の銃身を素手で握り潰し、屑鉄の塊に変えて床へ投げ捨てた。
疾風のような体術で五人の隊員が次々と天井へと跳ね上げられ、悶絶しながら床に崩れ落ちる。
レオンハルトの手にはいつの間にか鋭利なケーキサーバーが握られ、その研ぎ澄まされた銀の切っ先は、バルツの喉元へ皮一枚の距離で突きつけられていた。
レオンハルト「貴様ら……セリアが三日三晩、一秒単位の温度管理を極めた至高のショコラに、埃を被せる気か」
バルツ・ハインツ「くっ、殺せ……!貴様の陰謀に屈するくらいなら、名誉ある死を選ぶ……!」
バルツが苦悶に満ちた表情で奥歯を噛みしめ、死を覚悟して瞼を閉じた瞬間――。
セリア・フィッツ「はいはい、そこまで!お店の中での喧嘩はおやめください!」
間に割り込んだセリアが、立ち上る湯気を纏ったフォンダンショコラを、バルツの叫びかけた大口へ迷わず丸ごと押し込んだ。
バルツ・ハインツ「もがッ!?」
サクッとした極薄のスポンジの殻が歯列によって割れ、中心部から溢れ出した超濃厚なビターガナッシュが、バルツの乾いた口内へ熱く流れ落ちる。
厳選された深みあるカカオの苦味と、後から追いかけてくる上質なグラニュー糖の澄んだ甘み。
過労と胃潰瘍で焼け爛れていた内臓の隅々にまで、とろけるような滋養が染み渡っていく。
バルツ・ハインツ「な……なんだこれは……美味すぎる……胃が、ちっとも痛まない……!?」
角刈りの大男の濁った両目から、大粒の涙が滝のようにボロボロと溢れ出した。
レオンハルト「フン、貴様のような無骨者に、この繊細なガナッシュの乳化技術が理解できるとはな」
セリア・フィッツ「お腹が減っていると人はイライラしちゃうんですよ!もう一つ召し上がりますか?」
バルツ・ハインツ「た、頼む……!今月の憲兵隊の機密費で、全品買い取らせてくれ……!」
凄惨を極めるはずだった包囲網は、瞬く間に下町の平和な試食会へと姿を変えていた。
第四章: 死神の誓いと世界一あまいエピローグ
大量の焼き菓子の箱を両手いっぱいに抱え、全員が蕩けた笑顔になった憲兵隊が去った後。
厨房の勝手口の石段に、二人は並んで腰掛けていた。
夕暮れ時の茜色の光が、下町の入り組んだ路地裏をあたたかく染め上げている。
白い皿の上に残された最後の一欠片のショコラを、銀のフォークで丁寧に半分に切り分けた。
セリア・フィッツ「レオンさん、私のお店を守ってくれてありがとうございました」
セリアは隣に座るレオンハルトの大きな右手を、温かい両手でそっと包み込んだ。
何十人もの命を奪い、決して許されることのない血で汚れてきたはずの硬い掌。
セリア・フィッツ「レオンさんの手は、とっても大きくて温かいです。お菓子を大切に扱ってくれる、世界で一番優しい手ですよ」
胸の奥が締め付けられるように激しく脈打つ。
不器用に視線を路地の隅へと逸らしたレオンハルトは、首の後ろの髪を乱暴にかきむしった。
喉の奥が引きつり、まともな声が出せない。
レオンハルト「……俺はただ、美味い菓子を食いたいだけだ。貴様が倒れでもしたら、この世からあの味が失われる」
セリア・フィッツ「ふふ、それなら一生作り続けますよ?レオンさんが、ずっとここにいてくれるなら」
琥珀色の瞳が、沈みゆく夕日を反射して宝石のように眩しく煌めく。
一切の打算も裏切りもない、春の陽だまりに咲く花のような笑顔。
一生だと……!?事実上の終身雇用……否、これは魂の永久専属契約……!!
耳朶まで真っ赤に染め上げたレオンハルトは、無骨な手をセリアの柔らかな頭の上にそっと乗せた。
かつて多くの標的を怯えさせてきた低く冷徹な声音は、微かに震え、驚くほど優しくほどけていく。
レオンハルト「……契約成立だ。貴様が菓子を焼く限り、世界の果てまで俺が護ってやる」
セリア・フィッツ「はい!明日もいっぱい美味しいのを作りますね、レオンさん!」
夕闇が街を包み込む中、冷酷な暗殺者の心には、甘く温かな居場所が確かに灯っていた。
翌朝、『プティ・ボヌール』の店先には、新しい木製の看板が誇らしげに掲げられている。
『本日のおすすめ:死神仕込みの超高速泡立てスフレ』
開店を待つ長蛇の列の先頭には、胃薬を完全に投げ捨て、小銭入れを握りしめたバルツの引き締まった笑顔があった。