第一章: 紙塵と吐息の檻
千歳 廻「……栞姉さん、ここ、触ったよね」
黴と古い植物油の匂いが淀む、地下書庫の最奥。埃を被った裸電球が、黄ばんだ空気の層を頼りなく照らし出す。色素の薄いボサボサの黒髪を垂らし、縁なし眼鏡の奥で濁った瞳を細めた。インク染みのこびりついたオーバーサイズのカーディガンを胸元で掻き抱き、革装丁の背表紙に鼻先を深く擦り付ける。乾いた紙繊維の奥に沈む、白百合めいた冷たい香気。肺腑の底が痺れるほど、一息に吸い込んだ。
階段の鉄板を踏み抜くような、鋭く硬質な靴音が頭上から降りてくる。漆黒の濡れ羽色を背に流し、肌に張り付く黒のタートルネックを纏った千歳栞が、怜悧な眼差しで冷たく見下ろしていた。
千歳 栞「また私の本を嗅ぎ回っているの。相変わらず、指先ひとつで発情する下品な生き物ね、廻」
千歳 廻「栞姉さんの指先が触れた紙なら、一瞬で当てられるよ。隠しても無駄だ、姉さんが読んだ頁の湿り気まで全部わかるんだ」
早口で呼吸を乱しながら擦り寄る足元へ、栞は無言のまま、銀のペーパーナイフを抜き放ち滑らせた。白磁のような人差し指の腹を薄く裂き、一筋の赤い雫がぷつりと膨らみ、滑らかな皮膚を伝う。
千歳 栞「舐めなさい。本なら売るほどあるわ。でも、貴方の飢えを満たす頁は……私の手の中にしかないのよ」
震える舌先を伸ばし、生々しい傷口へ吸い付く。
ツンと鼻腔を突く鉄の味と、古い植物性インクの苦味が、舌の上で濃密に溶け合った。栞の氷のように冷たい指先が、廻の唇を強引に押し割り、濡れた歯列を乱暴になぞる。♥喉の奥から漏れる荒い吐息[/Heart]が重なり、書庫の底冷えする空気を肌へ突き刺した。
千歳 廻「あ……姉さんの血、すごく、甘い……頭の芯まで、焼け爛れそうだ……」
千歳 栞「父さんが死に際に隠した未発表原稿……あれだけは絶対に売るなと言い遺した呪縛を、貴方に教えてあげる」
栞の細い喉が小さく震え、冷酷な嗜虐の笑みが唇の端を歪める。
その刹那、地下の重い鉄扉が外側から暴力的な勢いで叩きつけられた。
蝶番が軋み、錆びたボルトが悲鳴をあげる。
九条 朔太郎「まいど。ええ匂いに誘われて来てみれば、随分と熱心な勉強会やないの」
第二章: 半分血縁の裏切り

店舗奥の薄暗い帳場に、屋根を叩く土砂降りの雨音が重く反響していた。琥珀色の鼈甲眼鏡を指先で押し上げ、無精髭を撫でる九条朔太郎が、高級スリーピーススーツのポケットから無造作に煙草を取り出す。
細く吐き出された紫煙が、湿った空気の中にとぐろを巻いた。
九条 朔太郎「単刀直入にいこか。千歳の親父さんが遺した肉筆原稿、三千万で買い取らせてもらおか」
千歳 廻「断る! 父さんの遺言だ、あの原稿は絶対に誰の手にも渡さない!」
廻の叫びを遮るように、静まり返った帳場に澄んだ声が落ちる。
千歳 栞「いいわよ。契約を交わしましょう、九条さん」
張り詰めた空気が一瞬で凍りついた。
廻は眼鏡をずり落としかけ、姉の黒い袖元へ縋り付こうと、脂汗の滲む手を宙へ伸ばす。指先が虚しく空を切った。
千歳 廻「嘘だよね、栞姉さん……僕たち二人でこの店を守るって、そう言ったじゃないか……!」
九条 朔太郎「坊主、まだ知らんのか? 連れ子同士の他人やと思って姉貴に欲情してたんやろが、お前らは同じ父親から生まれた実の姉弟や」
脳の奥を直接抉られたような衝撃が走る。
九条は短くなった吸い殻を床に踏みにじり、帳簿の間に挟まれた黄ばんだ原稿――父の日記を指先で弾いた。紙片が乾いた音を立ててめくれる。
九条 朔太郎「血を分けた姉弟の背徳の証拠や。栞ちゃんはこれを使って俺と新しい取引先に乗り換える。お前はお払い箱や」
千歳 栞「そういうことよ、廻。貴方と私のごっこ遊びはここで終わり」
栞が冷徹な瞳で一瞥もくれず背を向け、九条の隣へ歩み寄る。視界が真っ赤な血の色に明滅した。廻はカーディガンのポケットの奥底から真鍮のマッチを取り出し、擦り木の頭を無数の紙が積まれた書棚の側面に叩きつける。
爆ぜる火花が闇を裂く。
火の粉が乾ききった稀覯本の山へと飛び火し、猛烈な勢いで黒煙が天井へ立ち昇った。
第三章: 頁が燃え尽きる果てに

九条 朔太郎「うわあああっ! 火事や! 狂っとるんか自分ら!」
九条は無様に悲鳴を上げ、手記を放り出して土砂降りの表通りへ転がり出ていく。赤黒い火柱が棚を舐め尽くし、百年分の活字が刻まれた頁が、炭化した無数の黒い蝶となって宙を乱舞した。
逃げ惑うこともなく、崩落する炎の檻の中に立ち尽くす栞の細い腰を、廻は背後から骨がきしむほど乱暴に抱き竦める。
千歳 廻「本なら売るほどあるけれど、僕たちを縛る物語はこれでおしまいだ……!」
降り注ぐ黒い紙灰の中、栞の怜悧な仮面が音を立てて崩れ落ちた。切れ長の瞳孔が獲物を見定めた獣のように見開かれ、狂乱の光を宿した両腕を、実の弟の首筋に絡めつかせる。
千歳 栞「……壊してくれたのね、廻。私の檻を、全部」
焦熱の爆風が二人の髪を激しく乱し、奪い合うように唇が重なり合った。激しく絡み合う舌先から、互いの皮膚を焼く熱と、燃え盛るインクの苦みが喉へ雪崩れ込む。足元で実父の遺した日記が赤黒く爆ぜ、二度と解読できない灰へと溶けていく。
千歳 廻「栞姉さん……僕の、血を分けた本物の姉さん……」
千歳 栞「ええ、もう二度と離さないわ。地獄の底まで連れていきなさい」
遠くから雨を切り裂く消防車のサイレンが、狂ったように響き渡る。
燃え盛る積善堂の業火を背に、二人は爪が食い込むほど固く指を絡め合わせ、黒煙の奥、どこまでも続く夜の闇へと足を踏み出した。