第一章: 沸騰するモノクルと依頼人のツン
轟音。蝶番(ちょうつがい)が悲鳴を上げ、事務所の重厚なオーク材の扉が蝶番ごと吹き飛ぶ。
煤煙の焦げついた臭気。舞い散る木屑の只中から現れたのは、逆巻く赤銅色のツインテールだ。短く仕立て直されたヴィクトリアンドレスの裾を翻し、真鍮の留め具がついた編み上げブーツが、軋む床板を乱暴に踏み抜いた。
セシリア・フォスター「探偵さん! 我がフォスター家の家宝『紅蓮の心臓機関』が盗まれましたのよ!」
琥珀色の瞳がつり上がり、感情の昂ぶりに呼応して、側頭部の真鍮製安全弁からプシューッと細い蒸気が噴き出す。
卓上の書類を手で払いのけ、彼女は身を乗り出した。至近距離。怒気を含んだ甘いジャスミンの香油が、アルフレッドの鼻腔を容赦なく刺す。
セシリア・フォスター「なぜ私の顔ばかりジロジロ見ていらっしゃいますの!? 早く予告状を改めなさい!」
アルフレッド・クロムウェル「……フォスター令嬢、落ち着きたまえ。論理的に考えて明白だ」
アルフレッドは乱れたツイードのキャスケット帽のつばを指先で押し上げ、右目に嵌めた真鍮製モノクル――感情計測レンズの焦点輪(フォーカスリング)をカリカリと回した。
耳元で超小型の真鍮歯車が噛み合い、高熱の冷却パイプから白い気体が鋭く大気を裂く。
アムール・メーター稼働:対象計測値【好感度:98%】
レンズの奥に刻まれた極小の目盛り。その赤銅の指針が、危険領域へと勢いよく跳ね上がっていた。
アルフレッド・クロムウェル「針が跳ね上がった。君の心臓は今、摂氏百度の過熱蒸気を吹き上げている! なぜだ……なぜ私の顔を直視するだけで、針が致死限界(レッドゾーン)を突破する!? 機械の故障か?」
仮説。彼女は怪盗と内通しており、自作自演で私を罠に嵌めようとしている。この振り切れ方は、私の喉笛を噛み千切らんとする極限の殺意による血流スパイクに違いない。
セシリア・フォスター「な、なんですのその失礼な覗き眼鏡は!? べ、別にお父様の依頼のついでに見に来てあげただけですわ!」
扇子をバッと広げ、真っ赤に染まった頬を隠す令嬢の胸元。きつく締め上げられたコルセットが、激しい呼吸に合わせて上下に波打つ。
白皙のうなじに滲む、微かな汗の粒。その微小な震えをレンズの拡大機構が克明に捉えた瞬間、内部の蓄圧タンクがカチリと音を立てた。
アムール・メーター警告音:対象計測値【99%】
アルフレッド・クロムウェル「また上がった! ひ、退きたまえ! 殺意の圧力が致死量に達している! 弁を解放しろ、頭蓋が破裂するぞ!」
セシリア・フォスター「誰が殺意ですの、このバカ探偵! 時計塔へすぐ向かいなさい!」
激昂した彼女が叩きつけた扇子が、机上のガラス製インク壺を粉砕する。
黒い飛沫が宙を舞った刹那、外側から飛来した真鍮の徹甲弾が窓ガラスを粉々に砕き散らした。
第二章: 巨大時計塔の逢引と狂乱の針

霧の立ち込める夜気。冷え切った煤煙が咽喉を撫でる。
ロンドン中央時計塔の最深部では、直径十ヤードを超える巨大な鉄製歯車が、骨を削るような重金属の軋み声を上げて回転していた。
バルナバ・バイン「やあ諸君! 実にエレガントな夜じゃないか」
シルクハットの鍔に手を添え、漆黒のマントを夜風に翻して現れたのは義賊バルナバ・バイン。その真鍮の義手が掲げた胸元で、奪われた『紅蓮の心臓機関』が鈍い赤光を脈打たせていた。
アルフレッド・クロムウェル「バイン! 我が推論通り現れたな。家宝を返還してもらおう」
セシリア・フォスター「あら、口先だけは勇ましいのね探偵さん。私の後ろに隠れて震えていなくて結構ですわよ!」
言い放つセシリアだが、その指先はコートのポケットに届いていない。
震える細い指が、アルフレッドの革トレンチコートの裾を背後からぎゅっと握り締めていた。布地越しに伝わる、小刻みな戦慄。
アムール・メーター警告音:対象計測値【105%(限界突破)】
バルナバ・バイン「ハートの針を動かせない泥棒など、ただの鉄屑拾いに過ぎないのさ! 探偵くん、彼女が予告状に『無能なクロムウェルを指名しろ』と書き足させた理由にまだ気づかないのかい?」
セシリア・フォスター「なっ、何を余計なことを喋っていますの怪盗!」
羞恥に顔を染め抜いたセシリアが、腰のホルスターから小型蒸気ピストルを引き抜こうとした瞬間だった。湿った鉄板の上で、革ブーツの踵が空を突く。
セシリア・フォスター「きゃっ……!?」
アルフレッド・クロムウェル「危ない!」
思考より先に肉体が跳ねていた。
反射的に伸ばしたアルフレッドの右腕が、細い腰を強引に引き寄せる。
衝撃。胸元に押し付けられた柔らかな肉の弾力。鼻腔を麻痺させるのは、雨に濡れた黒髪と高級なアールグレイの甘やかな芳香だ。
セシリア・フォスター「……っ、ば、バカ! どこ触っていますの!?」
ドクン、ドクンと暴れる鼓動が、薄いシルクのドレス越しにアルフレッドの掌へと直接叩きつけられる。
♥熱い。[/Heart]肌と肌が触れ合っているわけでもないのに、まるで灼熱のボイラーに素手を押し当てたかのような錯覚。
アムール・メーター警報:【好感度:120%】計測限界超過
アルフレッド・クロムウェル「ひ、悲鳴を上げるな! モノクルのクリスタルガラスにヒビが入る! やはり君は全身全霊で私を爆殺する気だな!?」
セシリア・フォスター「なんでそうなるんですのーーッ!?」
バルナバ・バイン「やれやれ、愛という名の圧力弁を解放したまえ。ショック療法が必要だね」
怪盗の義手が嘲笑と共に床の真鍮レバーを倒す。
噛み合っていた鉄の爪が外れ、足元の床板が一気に底なしの闇へと跳ね上がった。
第三章: 非常停止レバーと真鍮の告白

ガコン!
二人の身体は垂直に落下し、数千枚の歯車が噛み合う狭隘な機械室の底へと叩きつけられた。
頭上では巨大な鋳鉄の歯が火花を散らしながら下降し、容赦なく二人の生存空間を削り取っていく。
アルフレッド・クロムウェル「停止レバーはあの歯車の隙間か……! 蒸気の噴出圧が高すぎて手が届かない!」
トレンチコートを脱ぎ捨てて回転するギアへ力任せに噛ませる。布が引き裂かれ、摩擦熱で白煙が立ち上る。稼げた猶予はわずか数秒。
金属の悲鳴が響き渡る中、冷え切ったセシリアの白い指が、アルフレッドのシャツの袖を乱暴に引きちぎるほどの力で食い込んだ。
セシリア・フォスター「アルフレッド……私、ここでミンチにされますの……?」
声が震えている。強気な仮面が剥がれ落ち、そこにあるのはただの怯えた少女の瞳だった。
アルフレッド・クロムウェル「安心したまえ。君をこんな場所で死なせはしない。君が私をどれほど憎悪していようとな!」
セシリア・フォスター「はぁ!? 憎悪!? 私がいつあなたを憎んだと言いましたの!?」
アルフレッド・クロムウェル「誤魔化すな! メーターの針は今や【130%】を指している! 人間が他者をここまで強烈に意識するなど、骨の髄まで呪っている証拠だ!」
セシリア・フォスター「この大馬鹿者ーーーッ!!」
限界だった。セシリアはアルフレッドのシャツの襟首を両手で掴み上げ、至近距離から涙に濡れた琥珀の瞳を叩きつけるように見据えた。
セシリア・フォスター「呪ってなんかいませんわ! これは……好意ですわよ! 好きだからですわ!」
アルフレッド・クロムウェル「……は?」
思考が凍結する。脳内の論理回路盤に過負荷がかかり、ショートした火花が視界を白く染めた。
セシリア・フォスター「好きでもない男の埃っぽい事務所に、毎日毎日くだらない理由をつけて通う令嬢がどこにいますの!? あなたが事件のことしか見ないから……怪盗に宝をわざと盗ませて、あなたを指名させたんじゃありませんの!」
アルフレッド・クロムウェル「な……君が……私を……?」
セシリア・フォスター「メーターが壊れるほど想っているのに……殺意だなんて、あんまりですわ……っ!」
ぽろぽろと零れ落ちた熱い大粒の涙が、アルフレッドの右目のモノクルを濡らす。
冷たい真鍮のフレームを通して、彼女の叫びが、体温が、剥き出しの心が、男の強固な論理の壁を粉々に粉砕した。
殺意ではない。この激甚な数値上昇の正体は――純度百パーセントの熱情。
バルナバ・バイン「カーテンコールだねえ!」
天井の排気口からワイヤーで舞い降りた怪盗の義手が、過熱した停止レバーを完璧なタイミングで引き抜いた。
第四章: 蒸気探偵の甘美なるオーバーヒート
朝霧の晴れ渡るベイカー街。
探偵事務所のテラス席には、優雅に湯気を立てる二つのティーカップが並んでいた。
初秋の柔らかな陽光が、レンガ造りの街並みを黄金色に染め上げていく。
セシリア・フォスター「……で、探偵さん。私の事件は解決しましたけれど、次はどんな口実……じゃなくて、どんな依頼を差し上げればよろしくて?」
セシリアは伏し目がちに琥珀色の瞳を揺らし、膝の上に置いた扇子の骨をもじもじと指先で弄んでいた。
いつもならツンと上を向いているはずの顎が、小さく引かれている。
アルフレッド・クロムウェル「コホン! フォスター令嬢……いや、セシリアさん」
アルフレッドは耳朶まで真っ赤に染め上げ、咳払いを一つ落とした。
そして、トレードマークだった右目のモノクルを指先で外し、卓上のソーサーの脇へと静かに置いた。カチャリと真鍮が鳴る。
セシリア・フォスター「あら。その覗き眼鏡、外してしまわれるの?」
アルフレッド・クロムウェル「……ああ。計器に頼る必要はもうないのだよ。君の瞳と、その吐息を見るだけで……私の胸の安全弁も、完全に吹き飛んでしまうからね」
セシリア・フォスター「なっ……! な、生意気なことを言いますのね、バカアルフレッド……!」
茹で蛸のように赤くなった彼女の手が、白いテーブルクロスの下へと滑り込む。
逃げ場を失ったアルフレッドの無骨な指先を、冷たく震えるセシリアの指が、一本ずつ熱っぽく絡め取った。
ぎゅっと握り返された掌から、互いの狂おしいほどの心音がダイレクトに混ざり合う。
♥ドクン、と跳ねる二つの生命。[/Heart]
机上のメーター:計測不能【LOVE:999%】
プシューッと甲高い排気音を響かせ、放置された真鍮レンズの隙間から、ぽわんと可愛らしい白煙が立ち上った。内部のゼンマイが完全に焼き切れた音だった。
バルナバ・バイン「実にエレガントな結末だ」
遥か向かいの時計塔の尖塔の上。シルクハットの怪盗が優雅にハットを掲げて一礼し、薄れゆく朝霧の彼方へと音もなく消え去っていった。
アルフレッド・クロムウェル「さあ、捜査の続きだセシリア。君と私の熱力学的関係について、生涯をかけて検証する難事件だよ」
セシリア・フォスター「喜んでお供しますわ、私の鈍感な名探偵さん!」
重ね合わされた二つの指先。テーブルの下で結ばれた絆の熱は、冷たい帝都の霧を瞬く間に溶かし尽くしていった。