第一章: 落城の火焔
爆ぜる火の粉が朱に染まる夜空を切り裂き、充満する黒煙が容赦なく気道を焼く。崩れ落ちる天守を背に、白銀の陣羽織を乱れなびかせた葛西綾乃は、小刻みに震える白く細い首筋へ短刀の冷刃を深々と押し当てていた。皮膜が裂け、一筋の紅が白い肌を伝い落ちる。
葛西 綾乃「城と運命を共にする! 名門葛西の誇り、敵の泥靴に踏みにじられてたまるか!」
甲高い金属の激突音。
泥と乾ききらぬ返り血にまみれた南蛮胴具足が、爆炎を割いて踏み込んできた。巨躯のしなりと共に無造作に振り抜かれた鉄甲の手甲が、綾乃の握る白刃を容赦なく弾き飛ばす。鋭い眼光を爛々と走らせる真壁宗十郎は、たたらを踏んだ綾乃の細い手首を握り潰さんばかりの万力で締め上げた。骨が軋む痛みに、綾乃の喉から細い悲鳴が漏れる。
真壁 宗十郎「死んで美談にする気か。腹を切れば名誉が残るとでも思い上がったか。虫酸が走る」
葛西 綾乃「放せ! 宗十郎、放さぬか! 兄上も討たれ、手勢もすべて血の海に沈んだのだ! 女ひとりの無様な生き恥を晒せと貴様は申すのか!」
真壁 宗十郎「武士の命など銭三文の価値もねえよ。泥水をすすり、誇りなんぞ便所に流し、敵の股をくぐってでも生き延びろ。死んだらただの腐肉だ」
激情に駆られた綾乃の拳が、宗十郎の分厚い鉄胸当てを何度も激しく打ち据える。だが、そのまま板敷きへと強引に組み敷かれた瞬間、綾乃の肌が男の異常を捉えた。彼女を押さえつける宗十郎の逞しい豪腕が、まるで凍えた獣のように激しく痙攣していた。武具の下から伝わるのは、勝利の熱狂でも武人の剛毅でもない。骨の髄まで浸透した、凍てつくような拒絶の震え。
葛西 綾乃「貴様……腕が、震えて……なぜ、そこまでして私を……」
その問いを呑み込むように、本丸の大手門が地響きと共に内側へ爆砕した。分厚い樫の扉が裂け、火炎の向こうから拍子木の音にも似た慇懃な軍靴の音が反響する。
織田 方の軍使・佐久間 弦斎「葛西の残党どもよ、無駄な抗弁はやめよ。城主・葛西宗純の首級を速やかに差し出せ。然らば城下に残る領民と女子供の命だけは、この弦斎が保証して進ぜよう」
第二章: 偽りの首級

床板がくすぶり、頼りなく揺れる灯明の影が、奥の間の煤けた壁を禍々しく舐め回す。充満する脂の燃える匂いと、生臭い血溜まりが足元に広がっていた。膝を折った綾乃の指先は小刻みに床の炭を掻き毟り、その爪の間に黒い煤が食い込む。
葛西 綾乃「兄上の骸は、すでにあの猛火の底だ。骨の一片すら拾えぬ……差し出す首など、この世のどこにもありはせぬ!」
真壁 宗十郎「首なら、ここにある」
低く紡がれた言葉の冷徹さに、綾乃の呼吸が凍りつく。宗十郎は無言のまま腰の太刀を一閃させて抜き放つと、銀色の切っ先を迷うことなく自らの右の頬骨へと押し当てた。
肉を断ち切る鈍い裂傷音。鮮血が勢いよく噴き出し、畳の目を赤黒く濡らしていく。それはかつて先代城主が初陣の折に敵の槍衾で刻まれた、あの三寸に及ぶ特徴的な深傷と寸分違わぬ位置だった。
葛西 綾乃「やめろ! なぜだ! なぜ己をそこまで切り刻む! 貴様は葛西の血を引く者ですらないのだぞ!」
綾乃は狂乱のまま宗十郎の胸元へ縋り付いた。溢れ出し、顎を伝って滴り落ちるどす黒い鮮血を、身に纏う白銀の陣羽織で遮ろうと必死に押し当て、かき抱く。絹布越しに伝わってくるのは、男の荒々しい呼気と、焼けた鉄のような生々しい血の匂い。宗十郎の大きな掌が綾乃の後頭部に食い込み、力任せに引き寄せる。
真壁 宗十郎「お前が死ねば……俺の戦場はすべて無意味になる。生きていろ、綾乃」
葛西 綾乃「宗十郎……あ、ああっ……」
抗いようのない熱が下腹部を突き上げる。綾乃は震える指先を宗十郎の汗ばんだ襟元へ滑り込ませ、肉を割いたばかりの傷口からあふれ出る鉄の味を貪るようにして、男の唇を奪い取った。傷口の痛みに宗十郎の喉が唸り、綾乃の舌先がその血潮を絡め取った。重なり合う激しい心音が肋骨を激しく揺さぶり、背後で天守を焼き尽くす炎の熱さえも完全に塗りつぶしていく。互いの吐息が混ざり合い、視界の輪郭が紅蓮の滲みとなって溶け落ちていった。
濡れた唇を離した刹那、焼け残った階段を踏み鳴らす無慈悲な足音が、すぐ階下から響き渡った。
第三章: 血糊の首実検

煙霧が渦巻く大広間。荒縄で幾重にも戒められた宗十郎が、冷たい板敷きの上へ生きたまま無造作に引き据えられていた。その前に立つのは、金箔塗りの豪華な南蛮具足を身に纏い、整えられた顎髭を細い指先で撫でる織田方の軍使、佐久間弦斎である。嘲るような流し目が、血まみれの宗十郎の顔面をじっと検分する。
織田 方の軍使・佐久間 弦斎「ほほう。これが名高き葛西城主の首……か。妙だな、首級実検の場に、まだ荒い息を吐く胴体が繋がっておるとは」
弦斎は手にした軍配の先を宗十郎の頬へ当て、肉が裂けた傷口を容赦なく抉り回した。じわりと新たな赤が吹き出し、弦斎の白銀の指貫を汚す。
織田 方の軍使・佐久間 弦斎「傷口が新しすぎる。血が固まっておらぬわ。皮一枚の筋彫りで見立てを作るとは浅ましい。忠義の負け犬め、身代わりのつもりか?」
冷酷な観察眼が欺瞞を暴き立てる。弦斎は腰の業物を静かに引き抜くと、背後で押さえ込まれていた綾乃のうなじへと、凍りつくような切っ先を迷わず突き立てた。白磁の皮膚に切っ先が食い込み、紅の雫が一筋、背筋へと滑り落ちる。
織田 方の軍使・佐久間 弦斎「真実を吐け。さもなくば、この小娘の細首をここで叩き落とし、城門の前の槍衾に晒すまで」
今だ、宗十郎。この老獪な男の目を逸らす。この男の意識を、私一点に釘付けにする。
綾乃の喉から、低く濁った哄笑がせり上がった。切っ先が肉を裂く痛みすら意に介さず、嘲笑の色を瞳に宿して弦斎を睨み据える。
葛西 綾乃「くく……ははは! 弦斎殿、大業を誇る織田の軍師と聞いていたが、貴様こそ我が策にまんまと嵌まったわ!」
弦斎の眉がぴくりと跳ね上がり、冷たい視線が一瞬、嗤う綾乃の濡れた双眸へと引きずられた。そのわずかな刹那の隙間。
縄の断裂音。
宗十郎の鋼のような筋繊維が一気に膨張し、きつく締め上げられていた麻縄が千切れ飛んだ。閃いたのは、具足の脛当ての裏に隠されていた無骨な短刀。男の全身の膂力を乗せた白刃が、弦斎の黄金の胸当ての継ぎ目、脇の甘い隙間へと深々と突き刺さった。骨を断ち割り、肺腑を貫く鈍い手応え。
織田 方の軍使・佐久間 弦斎「が、はっ……貴様、狂うて……おる……!」
血反吐をぶちまけながら弦斎の手から軍配が滑り落ち、板敷きに虚しい音を立てて転がる。広間の外を取り囲んでいた敵の鉄砲隊が、その落下音を指揮官の発砲合図と誤認した。轟音と共に無数の鉛玉が格子戸を吹き飛ばし、硝煙が充満する中を、宗十郎は綾乃の細い腰を抱え込み、崩れかけた回廊の闇へと決死の跳躍を放った。
第四章: 泥濘の夜明け
白み始めた鉛色の空の下、冷たい朝靄が青白く立ち込める鬱蒼とした竹林。背後の遥か彼方では、かつて綾乃が生まれ育った葛西城の天守が、断末魔の爆ぜる音を立てて完全に崩落していった。
泥濘の中に膝を突き、宗十郎は肩で激しく呼吸を刻む。頬の裂傷からは未だ血が滲み、雨水と混ざり合って胸元を汚していた。
真壁 宗十郎「城は落ちた……俺はお前を守りきれなかった。名門の誇り高き姫から、ただの泥を啜る落ち武者の女に堕としたのだ」
男の拳が泥の中に叩きつけられ、濁った水しぶきが上がる。その荒れた呼吸を断ち切るように、綾乃は懐から抜き放った短刀を逆手に構えた。そして躊躇うことなく、自らの誇りであった烏羽色の豊かな黒髪を、根元から一気に切り落とした。
濡れた黒髪が泥水の中に散らばる。血と煤にまみれた白銀の陣羽織を脱ぎ去り、湿った土の上へと躊躇なく投げ捨てた。
葛西 綾乃「葛西の姫など、疾うにあの灰の中で焼き殺された。私はもう、誰に傅かれる人形でもない。貴様と共に泥を喰らい、地獄を這いずり回る一人の女だ」
泥にまみれた綾乃の手が、宗十郎の胸元へ真っ直ぐに差し伸べられる。宗十郎はその手を睨みつけ、そして自らの血に汚れた分厚い掌で、骨がきしむほどの強さで握り返した。
二つの影が、泥濘の地から立ち上がる。
立ち込める朝靄の奥、谷を越えた尾根の向こうから、冷気を裂いて追撃を告げる無慈悲な法螺貝が低く響き渡る。だが、二人の濡れた瞳に宿る光は、すでに何ひとつ揺らいではいなかった。