第一章: 業火の首級取り
黒煙が凶暴な渦を巻き、赤蓮の爆ぜる重厚な音が耳膜を容赦なく叩き割る。
天を焼き焦がす巨大な炎の猛威の中、本能寺の大殿は崩落の悲鳴を上げていた。
白皙の肌に黒い煤を散らせた明智光秀は、返り血に濡れた濃紺の直垂の裾をゆらりと揺らす。
その三白眼に映るのは、朱に染まりながらも太い柱へ背をもたれかける絶対者の姿。
異国の赤ビロードマントは半ば焦げ落ち、金糸刺繍の甲冑に紅蓮の炎が反射してギラギラと揺らめいている。
四十九歳の覇王、織田信長は、裂けた腹部から溢れ出す赤を隠そうともせず、歪に唇を吊り上げた。
織田信長「来たか、光秀」
喉の奥から吐き出された掠れ声には、恐怖の破片すら欠片も混ざっていない。
光秀は繊細な蒔絵の施された胴丸を軋ませ、静かに長刀を引き抜いた。
刃先から垂れ落ちる朱い雫が、焦げた床板にぽたりと小さな黒い斑点を作る。
天下奪取などという平伏すべき俗念は、ハナから胸の奥にすら存在しない。
ただ、この男が老い衰え、肌がたるみ、その神聖な輝きを汚される前に。
最高に美しく猛烈な姿のまま、その頸椎を断ち切り、永遠に我がものとする。
明智光秀「信長様、貴方の首筋は今、世界で最も甘やかな香りを放っております。どうぞ、私だけのものになってください」
光秀の指先が狂暴なまでの歓喜と熱に震えた。
白く細いうなじに浮かび上がる血管の激しい鼓動が、網膜の裏へと灼熱の印となって焼き付いて離れない。
信長は喉を鳴らして低く笑い、自ら黒髪を高く結い上げた頸を晒した。
織田信長「良いぞ光秀! 予の首を、世界で一番美しく愛でてみせよ! 予の死はお前の魂に刺さったまま、一生抜けぬ棘となるのだ!」
一閃。
刃を一切傷つけずに頸椎だけを一撃で絶ち切る神技が、閃光となって空間を薙いだ。
ドク、と最後の一拍が力強く打たれる。
宙を舞う首級、解き放たれる鮮血の霧。
光秀はその美しき首を、まるで壊れものを扱うかのように両手で優しく受け止めた。
いまだ失われぬ濃密な体熱が、掌を通じて光秀の全身の血を沸騰させる。
光秀は恍惚の吐息を漏らし、静かに閉じた眼瞼、その汗に濡れた額へと唇を重ねた。
明智光秀「信長様……これで、永遠に私だけのものです……」
脳髄を焼き尽くす絶頂の波動が、指先から全身へ伝播する。
猛火が周囲の太柱を叩き割り、天井が崩落する音の中で、光秀は宝物を慈しむようにその首を胸に深く抱きかかえた。
彼は一歩ずつ、紅蓮の暗闇の中へと姿を消した。
第二章: 山崎の泥濘と激重の嫉妬

叩きつけるような土砂降りの雨が、山崎の山道を底なしの泥濘に変えている。
天を覆う重苦しい暗雲の下、立ち込める白霧を強引に切り裂いて疾走する男があった。
泥と他人の返り血にまみれた朱塗りの甲冑を纏う男――羽柴秀吉である。
四十五歳の小柄な身躯はすっかり泥にまみれ、猿を思わせる鋭い顔立ちの中で、濁りのない双眸だけが狂乱の殺気を放っていた。
羽柴秀吉「光秀ぇぇ! お前か……お前が信長様を殺したのかぁぁっ!」
泥水を高く跳ね上げ、秀吉が十文字槍を力任せに構えて肉薄する。
その直前に立ち塞がった光秀は、泥雨に濡れそぼりながらも、特製の漆塗箱を左腕に大切に抱きかかえていた。
右手の長刀を斜めに構え、濡れた前髪の隙間から三白眼で冷ややかに見下ろす。
明智光秀「猿め、騒ぎ立てるな。信長様は今、私の腕の中で静かに眠っておられる。貴様のような品性のない者に触れさせてよいお方ではない」
その侮蔑を込めた冷徹な言葉が、秀吉の胸奥に燻る惨憺たる火種に一気に油を注いだ。
羽柴秀吉「ふざけるな! ワシがどれだけあの人に尽くしてきたと思っている! 泥をすすり、猿と笑われ、命を投げ打ってきたんじゃ!」
羽柴秀吉「なのに……あのお方は最後までお前ばかりを見ていた! お前のその狂った目ばかりを面白がっていたんだ!」
雨水と混ざり合い、秀吉の目から血のような涙が伝い落ちる。
欲しかったのは天下という名の器などではない。
ただ一言、あの男からの心からの承認だった。
しかし、最高の死という至高の愛を賜ったのは、目の前に立つ気取った美貌の男。
「死ねぇぇっ!」
泥を撒き散らし、秀吉の槍が地を這うような勢いで突き出される。
光秀は最小限の動作で刃を叩きつけ、槍先を強引に反らした。
金属同士が擦れ合う高音の悲鳴が、雨の降る竹林に鋭く響き渡る。
明智光秀「見苦しいな、秀吉。貴様の泥臭い忠義など、信長様の美学の足元にも及ぬ」
ふたつの歪んだ執着が泥の中で真っ向から激突し、互いの肉体と精神を削り合う。
だが、刃と刃が重々しく噛み合った瞬間、周囲の暗がりから生臭い殺気が湧き出した。
第三章: 血塗られた血盟陣

「いたぞ! 明智だ! 首を取れば恩賞山分けだぞっ!」
竹林の鬱蒼とした陰から、泥と貧困に飢えた百を超える落武者狩りの一団が躍り出た。
ギラギラとした亡者の目が、光秀の抱える塗箱と秀吉の首に同時に注がれる。
光秀は瞬時に冷徹な目つきとなり、躍り出た一人の胸腔を長刀で正確に穿ち抜いた。
明智光秀「汚らわしい虫どもが……」
だが、無数の竹槍が背後から光秀の無防備な隙を突いて迫る。
鈍色の衝撃。
閃光のごとく割り込んだ秀吉の十文字槍が、刺客の喉笛を豪快に粉砕した。
飛び散る熱い血飛沫が秀吉の顔面を赤く染め上げる。
羽柴秀吉「勘違いするなよ光秀! ワシはお前を助けたんじゃない!」
秀吉は唾混じりの泥を地面に吐き出し、槍を激しくぶん回した。
羽柴秀吉「信長様の首が、こんな小汚い盗人どもの手に渡るのが許せねぇだけだ! あのお方の首を掲げて天下に号令をかけるのは、このワシだ!」
光秀の薄い唇が、どこか嘲笑うような美しく歪んだ弧を描く。
明智光秀「フフ……奇遇ですね、猿殿。私もこの美しき首級を、豚どもに汚されることだけは我慢がなりません」
憎悪し合う背中と背中が、嵐の泥雨の中で不意に合致した。
織田信長という絶対的な太陽への異常な執着。
ただそれ一点のみで硬く結ばれたふたつの狂気が、完璧で血生臭い交響曲を奏で始める。
明智光秀「右です、猿殿!」
羽柴秀吉「言われんでも分かっとるわ、光秀ぇぇ!」
光秀の神速の居合が敵の首を綺麗に飛ばし、秀吉の泥臭く破壊的な槍撃が胴体を力任せに叩き折る。
雨音を塗りつぶす肉の裂ける音と、凄惨な断末魔。
互いを毛嫌いしていたはずの二人の呼吸は恐しいほどに噛み合い、百の包囲網は瞬く間に屍の山へと姿を変えていった。
命を削り合うはずだった二人は、皮肉にも信長が生きていたどの瞬間よりも深く、熱く、魂の底で合一していた。
第四章: 天下の影と果てなき業火
静寂が竹林を静かに包み込む。
激しかった雨はいつしか上がり、黒雲の破れ目から冷たい月光が降り注いでいた。
静まり返った屍の山の中、光秀の膝が折れ、泥の中に大きく崩れ落ちる。
その胸には、激闘の中で刺さった折れた竹槍の先端が深く突き刺さっていた。
鮮血が口から溢れ出し、濃紺の直垂をより一層深い黒へと染め上げていく。
震える手で、光秀は抱えていた漆塗箱の蓋を静かに開けた。
中から現れたのは、一切の腐敗を見せず、完璧な静謐の笑みをたたえた信長の首級。
秀吉は息を呑み、血に濡れた重い槍を力無く地面へ落とした。
光秀は死期を悟った静かな瞳で、信長の首を秀吉へと差し出す。
明智光秀「……持って行きなさい、秀吉。この首を掲げ、貴様が天下を取りなさい」
羽柴秀吉「な……なぜだ、光秀! お前が命がけで手に入れた首だろうが!」
光秀の血に染まった薄い唇が、今までで最も残酷で、最も美しく開かれた。
明智光秀「私は……信長様を殺すことで、永遠にあのお方の特別になりました」
息が急速に途切れかけ、眼球の焦点を揺らしながら、光秀は耳元へ囁くように言葉を吐き出す。
明智光秀「しかし貴様は違う。貴様はこの首を抱き、天下人となり……死ぬまで信長様の幻影に怯えて生きるのです。貴様が築く城も、得る栄華も、すべては信長様の手のひらの上にある……その恐怖という永久の呪いを、貴様に与えます」
永遠の呪縛。
秀吉は全身を激しく痙攣させながら、震える両手で信長の首を受け取った。
その瞬間、首の瞼が微かに開いたような恐ろしい錯覚が走り、秀吉の背骨を氷のような悪寒が駆け抜ける。
信長は死んでいない。
光秀の死により、そして秀吉の天下獲得により、この首は永久に二人を支配し続けるのだ。
羽柴秀吉「光秀……お前、どこまで性根が腐っとるんじゃ……」
秀吉は涙と鼻水を流し、顔をぐちゃぐちゃに歪めて泣き叫ぶように笑う。
その凄惨な光景を確かに確かめると、光秀の三白眼から静かに光が消え、泥の中へと力無く倒れ伏した。
秀吉は信長の首を狂おしいほど強く胸に抱き締め、月明かりの空へ向かって咆哮した。
羽柴秀吉「見とれ信長様ぁぁ! ワシが天下を取ってみせます! お前たちの待つ地獄より、もっと恐ろしい天下をなぁぁっ!」
男の絶叫が夜のしじまへ虚しく溶けていく。
歴史は「山崎の戦い」における光秀の敗北と、秀吉の天下統一を淡々と記す。
だが後世、秀吉が築いた絢爛豪華な大坂城の最奥、光すら届かぬ暗闇の開かずの間に、決して開けられることのない漆塗箱が眠り続けていたことを知る者は、誰一人として存在しない。
その箱の前で、天下人となった男が夜な夜な一人、死人の恐怖に怯えて震えていたことも。