第一章: 死神と深紅の薔薇
深夜のパリを、湿った粘り気のある霧が厚く包み込んでいる。
石畳は冷たく濡れ、まるで黒い鏡のように、街灯の鈍い燐光を反射していた。
シャルル=アンリ・サンソンは、漆黒のコートの袖を、儀式に臨む神父のような手つきで静かに引き上げる。
後ろで一つに結んだ、闇を溶かし込んだような長い髪が、夜風を孕んで重たく揺れた。
冷徹な切り込みのような三白眼が、闇の奥に傲然と佇む木製の処刑台、ギロチンを冷徹に捉える。
彼は、いかなる時も、肉親の血に触れることすら拒むかのように外さない白い羊皮紙の手袋をはめた手で、大刃の冷たい鋼を優しく撫でた。
昼間に吸った数多の命の、その生々しい血を徹底的に洗い流された鋼は、冷酷な月光を浴びて青白く、怪しいまでに輝いている。
これこそが、身分の高低も、犯した罪の深さも、すべての人間を等しく平等の極みへと導く、至高の芸術だ。
突如、背後の重苦しい暗闇から、カサリと微かな、だが確かに上質な衣擦れの音が鼓膜を叩く。
最高級のシルクで仕立てられた、夜の闇に浮かび上がる純白のドレス。
泥にまみれることも、冷たい夜露に濡れることも厭わず、その少女は霧のベールを引き裂くようにして姿を現した。
燃えるような赤髪が、闇のなかで灯火のように鮮やかに、そして禍々しく浮かび上がる。
射すようなエメラルドグリーンの瞳が、シャルルの影を捉えて、濡れたように妖しく輝いた。
エリザベート・ド・ヴァロワ。王家の血を引く、美しき異端の令嬢が、そこに立っていた。
エリザベート・ド・ヴァロワ「やはり、ここにいたのね。私の、私だけの、冷酷な死神。この鉄の冷たさに抱かれながら、誰を想っていたの?」
彼女の白い首筋が、月明かりの下で異様なほどに細く、透き通るような皮膚の下で青い静脈が脈打つ。
シャルルは、手にしていた大刃を拭う布を静かに置き、感情を完璧に削ぎ落とした眼差しを彼女へと向けた。
シャルル=アンリ・サンソン「立ち去りなさい。ここは死を待つ者と、それを執行する者だけが許される不可侵の聖域だ。お前のような高貴な貴族の令嬢が、泥を這いずり回って来る場所ではない」
エリザベートは、ふわりと挑戦的な、それでいて胸が締め付けられるほどに美しい不敵な笑みを浮かべて、一歩、また一歩と距離を詰める。
彼女の細い指先が、ギロチンの冷たい鋼の刃に、恋人の肌に触れるようにそっと滑らせた。
鋭利な刃先が容赦なく指先を切り裂き、溢れ出た一滴の深紅の血が、鏡面のような刃を滑り落ちていく。
エリザベート・ド・ヴァロワ「ああ、なんて、なんて冷たくて美しい刃なのかしら。シャルル、私はあなたのその手で、あなたのその刃で首を刈り取られるためだけに、この残酷な世界に生まれてきたのよ」
彼女は、自らの血に濡れた指を桜色の唇に押し当て、恍惚とした熱い吐息を漏らしながら、血の鉄錆びた甘さを舌先で味わう。
シャルルの強固な心臓が、微かに、ドクンと不規則な音を立てて跳ね上がった。
彼は、冷たい手袋越しに彼女の細い首筋に触れ、その柔らかな皮膚の下にある、命の灯火を指先で確かめる。
指先から伝わる、あまりにも生ぬるく、激しく波打つような脈動。
シャルル=アンリ・サンソン「私の刃の前に、王侯貴族も、泥水をすする物乞いも、全ての身分は等しく無に帰す。それが私の職務であり、神に与えられた唯一の使命だ。お前とて、例外ではない」
エリザベート・ド・ヴァロワ「いいの、それでいい。私をこの泥まみれの現実から解き放ち、殺してくれるのは、あなたのその美しき冷徹な刃でなくてはならないの。他の汚らわしい誰の手にも、私のこの肌を触れさせないで」
執行人の、白い手袋をはめた指先が、彼女の喉仏を、壊れやすいガラス細工を愛おしむようになぞり落ちていく。
生と死、恐怖と快楽の境界線が、この霧深い暗闇の中で、静かに、そして確かに融け合っていく。
エリザベート・ド・ヴァロワ「ねえシャルル、私の首を落とすその瞬間、あなたはどんな顔をして、私の中に潜む命の終焉を看取ってくれるのかしら」
彼女は、シャルルの指先を愛おしげに頬で擦り寄せ、不敵な、そして底知れぬ狂気を孕んだ笑みを残したまま、静かに霧の彼方へと消え去った。
次にまみえる場所は、あの血塗られた断頭台の上。
その狂おしいほどの確信だけが、肌を刺す冷たい夜気の中に、重く冷たく残された。
第二章: 狂気の告発と自白の罠

革命政府の地下尋問室は、冷たい湿気と、人間の脂、そして幾度となく流された鉄の錆びた臭いで満ちている。
壁の燭台に揺れる松明が、不気味な影をレンガの壁に引き延ばし、まるで蠢く亡者のように揺らしていた。
シャルルは、自らの存在感を空気と同化させるように、部屋の最も暗い隅に身を潜めて伫んでいる。
中央の冷たい椅子には、かつての純白のドレスを、見る影もなく泥と煤、そして乾いた血で汚したエリザベートが固く縛り付けられていた。
彼女の前に立ち、見下ろしているのは、革命の最高権力者、マクシミリアン・ロベスピエール。
一糸乱れぬパウダーウィッグを完璧に被り、青いフロックコートを寸分の狂いもなく着こなしている。
薄い丸眼鏡の奥にある瞳は、まるで冷血な毒蛇のように、目の前の獲物を冷酷に値踏みしていた。
マクシミリアン・ロベスピエール「彼女は神聖なる我が革命を、人民の意志を愚弄し、侮辱した。シャルル、執行人としての忠誠を示せ。お前がいつも通り、この国家の反逆者の首を美しく落とすのだ」
ロベスピエールは、彼女の有罪を、死刑を決定づける冷酷な告発状を、シャルルの目の前へと容赦なく突きつける。
シャルルは、冷たい手袋の中で、爪が手のひらの皮膚に食い込み、血が滲むほどに拳を強く、強く握りしめた。
彼女をこの狂乱から救い出す手立て、逃亡の計画など、いくらでも裏で用意できたはずだ。なぜ、これほど自暴自棄な真似をした。
しかし、エリザベートは、彼の内面を引き裂くような苦悩を見透かすように、真っ向からそのエメラルドグリーンの瞳を合わせた。
その瞳には、死への恐怖、尋問への怯えなど、微塵も存在していない。
エリザベート・ド・ヴァロワ「そうよ、私はお前たちの安っぽい革命とやらを心底憎んでいる。だから、早く私をあの美しい、シャルルの待つ断頭台へ送ってちょうだい」
彼女の挑発的な、それでいて歌うような美しい言葉は、地下尋問室の重苦しく淀んだ空気を一瞬で切り裂いた。
シャルルは、その瞬間、彼女の瞳の奥にある真意を、その狂おしいまでの執着を完全に悟る。
自らの輝かしい命を、愛する者の手で完璧な芸術として完成させるための、命懸けの罠。
彼女は、他でもないシャルルの手によって自らの命を刈り取らせるために、あえてこの死の深淵へ、自ら飛び込んだのだ。
ロベスピエールは、尋問室の重苦しい空気の中に漂う、二人の間に通い合う異常な熱量、言葉なき対話を見逃さない。
その薄い、血の気の失せた唇が、冷酷な歪みを描いて吊り上がる。
マクシミリアン・ロベスピエール「革命の正義の前に、個人的な感傷、そのようなくだらない不純物は一切不要だ。すべては祖国の平穏と、絶対的な正義のために」
彼は、静かにシャルルの耳元へと顔を寄せ、骨まで凍りつかせるような低音で、蛇のように囁いた。
マクシミリアン・ロベスピエール「もしお前がこの処刑を躊躇い、あるいは仕損じるなら、サンスン家の一族郎党全員を、即座に反逆者としてあの断頭台へ送る」
シャルルの指先が、微かに、しかし激しく、裏切られた中立への絶望に震える。
いかなる権力者に対しても完璧な中立を誇り、黙々と刃を落としてきた執行人の誇りが、今、最も過酷な天秤にかけられていた。
シャルル=アンリ・サンソン「私の刃の前に、全ての身分は等しく無に帰す。それがサンスンの名を持つ者の、絶対の職務だ。誰であれ、例外はない」
シャルルは、突きつけられた死刑執行命令書を、手袋をはめた手で、一切の躊躇を殺して受け取った。
お前の望むその狂気を、私のこの手で、世界で最も美しく、最も完璧な形で完成させてみせよう。
執行人としての冷徹な美意識が、彼女の命を捧げることで、完全なる狂気へと昇華する瞬間だった。
第三章: 断頭台の上のワルツ

燃えるような、狂気的な夕日が、パリの革命広場を、まるで溢れ出た新鮮な血のような赤色に染め上げている。
「国家の反逆者を殺せ!」「泥棒貴族の首をはねろ!」と叫ぶ興奮した群衆の罵声が、地鳴りのように地を震わせて響き渡っていた。
壇上に天を突くようにそびえ立つギロチンの下、純白のドレスを誇り高くまとったエリザベートが立つ。
彼女の足取りは、処刑台への階段を上っているとは思えないほど、まるで宮廷舞踏会のフロアを優雅に進むように軽やかだった。
執行を最前列の特等席で見つめるロベスピエールの細められた瞳は、残酷な愉悦と、絶対的な支配欲に満ちている。
シャルルは、不気味に沈黙するギロチンの傍らで、あの、重厚な鋼の大刃を吊り上げる極太のロープを、血が止まるほどに握りしめていた。
彼の冷徹な三白眼は、今や広場を埋め尽くす何万もの群衆の喧騒、世界のすべての雑音を完全に遮断している。
エリザベートが、冷たいギロチンの木の板に、愛するベッドに身を沈めるように、ゆっくりと、静かにその身を横たえた。
彼女の遮るもののない白い首筋が、夕日の赤い落光を浴びて、神々しいほど、そして異様なほど美しく、滑らかに輝く。
シャルルは、首を固定する器具を静かに下ろし、彼女の顔のすぐ傍らへ近づき、その耳元にそっと唇を寄せた。
シャルル=アンリ・サンソン「最も苦痛なく、最も美しく、お前のその尊き命の、すべてを私が刈り取ろう。永遠に」
エリザベート・ド・ヴァロワ「ええ、シャルル。私を、あなたの刃で、あなたのものにして……。早く、私の中に、あなたを刻んで……」
彼女は、狂おしいほどの悦びに満ちた表情のまま、満足そうにゆっくりと、深い安らぎの中でそのエメラルドグリーンの瞳を閉じた。
その刹那、シャルルの指先が、一切の躊躇を捨て去り、命を繋ぎ止めていたロープを放す。
自重に引かれた冷徹な大刃が、空気を切り裂き、鋭い摩擦音を立てながら垂直に滑落した。
鋼の閃光。
一切の抵抗、肉の繊維の摩擦すら感じさせず、磨き抜かれた刃は彼女の細く、美しい首を滑らかに、完璧に通り抜ける。
ドサリ、と、残酷なまでに柔らかな肉体が静止する音が、処刑台の上に響いた。
切り裂かれた頸動脈から、宙を舞って噴き出す鮮烈な赤い血飛沫が、沈みゆく夕日を浴びて、まるで満開の深紅の薔薇の花弁のように、パリの空へ華麗に散っていく。
籠の中に落ちたその死に顔は、まるで深い眠りについた姫君のように穏やかで、この世のあらゆる芸術品よりも、圧倒的に美しかった。
ロベスピエールは、その、あまりにも美しく完璧すぎる処刑の光景に、言葉を失い、喉を鳴らしたまま、ただ硬直している。
しかし、その美の極致の直後、広場の入り口から、怒涛の如き地鳴りと、これまでとは質の違う怒号の嵐が押し寄せた。
「独裁者ロベスピエールを逮捕せよ! 恐怖政治の怪物を、今すぐあの断頭台へ送り込め!」
歴史の歯車が回り、テルミドールのクーデターが、広場を一瞬にして凄惨な混沌の渦へと叩き落とす。
武装した近衛兵たちが次々と壇上へ押し寄せ、血の気の引いたロベスピエールを取り押さえ、引きずり下ろしていった。
しかし、激変する世界の崩壊の音すら、今のシャルル=アンリ・サンソンの耳には、一滴も届かない。
彼は、怒り狂う群衆の視線から遮るように、籠の中から、まだぬくもりの残るエリザベートの美しき首を、両手で静かに、壊れ物を扱うように抱き上げた。
絶え間なく溢れ出る生温かい血が、彼の漆黒のコートを、そして神聖なる白い手袋を、取り返しのつかない深紅へと染め上げていく。
彼は、その血濡れた美しい額に、そっと自らの額を寄せ、その冷えゆく肌に熱い息を吹きかけるようにして囁く。
シャルル=アンリ・サンソン「これで、お前は誰も触れられぬ、永遠の私のものだ。誰も、この絆を引き裂くことはできない」
狂乱と叫び声に満ちたパリの広場の中で、世界に取り残された二人だけの静寂が、冷たい血の香りと共に、永遠の完成を迎えた。