第一章: 紅蓮の天守と白粉の契り
桔梗(ききょう)「殿、どうか、動かないでくださいませ。今、貴方様の唇に、最期の紅を差しておりますゆえ……」
血と煤に汚れた純白の狩衣を纏う青年が、束ねた黒髪を揺らしながら、ゆっくりと指先を滑らせる。節くれだった硬い薬指の腹が、柔らかな下唇の輪郭をなぞり、ねっとりとした紅を塗り込んでいく。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「……くすぐったいぞ、桔梗(ききょう)よ。外はあのように騒がしいというのに、貴様の指先だけが、氷のように冷たい」
緋色の具足と黄金の烏帽子を身につけた若武者が、喉の奥でくぐもった笑いを漏らし、傲岸に顎を上げた。
階下から響くのは、断末魔の怒号と、柱が爆ぜる轟音。
桔梗(ききょう)「ええ、火の粉が舞い、御簾が焼け落ちてまいります。ですが、この白粉と伽羅の香りさえあれば、野卑な鉄錆の悪臭など、ここまでは届きませぬ」
白装束の青年は、小刻みに震える自身の親指を奥歯で噛み締めるように意識し、無理やり静止させた。慣れない手つきをごまかすように、相手の頬へと掌を密着させる。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「ふっ、余の首を撫でることが許されるのは、この世で貴様だけだ。……して、出来栄えはどうであるか」
桔梗(ききょう)「ああ、殿……っ。鏡写しの私でさえ見惚れるほど、白磁の肌に鮮血のごとき紅が映えて……息が、止まりそうでございます」
切れ長の瞳にどす黒い熱を宿し、白装束の青年は、汗ばむ相手の首筋へと自らの唇を押し当てた。脈打つ頸動脈の鼓動が、唇を通じて直接脳髄を揺さぶる。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「……んっ。これ、まだ首を落とす前であろうが。気が早いぞ、まったく」
緋色の具足の若武者は、わずかに肩を跳ねさせ、濡れた瞳で上目遣いに睨みつけた。その細い指先が、白狩衣の裾をぎゅっと握りしめる。
桔梗(ききょう)「敵の雑兵どもに泥を塗られる前に、私の手で、完璧に完成させねばなりませぬ。さあ……身代わりの儀式を始めましょう」
白銀の短刀が鞘から抜かれ、渦巻く紅蓮の炎を冷たく反射した。
刃の冷気が、二人の間の熱気を切り裂く。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「……来い、桔梗(ききょう)。余のすべてを、貴様のその掌に委ねる」
桔梗(ききょう)「では、お首を……頂戴いたします」
第二章: 首桶の中の密会

畳を黒く染め上げる鮮血の海。その真ん中で、白狩衣の青年が黒塗りの首桶を胸に掻き抱き、浅い呼吸を繰り返していた。
桔梗(ききょう)「ああ、殿……貴方様の死に顔は、この世の何よりも甘美でございます。はぁ、はぁ……急速に冷たくなっていくこの頬が、たまらない……っ♥」
これで誰にも渡さない。誰にも触れさせない。この美しい首は、永遠に余のものだ。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「……本当に、度し難いほど狂っておるな」
首桶の中から、紅を引いたばかりの唇が、かすかに弧を描いた。気管から漏れる最後の空気を震わせた、幻聴のような囁き。
桔梗(ききょう)「……っ! まだ、意識が……」
白装束の青年が息を呑み、首桶の縁を掴む指にギリッと力を込める。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「見事な太刀筋であったぞ。痛みを覚える間もなく、視界の端から闇へ落ちる寸前だ……だが、最後に一つだけ、言っておく」
桔梗(ききょう)「何なりと仰せください。貴方様の声も、その緋色の甲冑も、すべて私が引き継ぎますゆえ」
月影 景虎(つきかげ かげとら)「その純白の狩衣、返り血が飛んで台無しではないか。……これでは、我らが衣装を入れ替えた意味が、なくなるであろう……」
瞳の光が急速に濁り、焦点を失っていく。
桔梗(ききょう)「ふふ、この温かい血こそが、最上の化粧にございます。ほら、もうお喋りはそこまで……ゆっくりと、お目を閉じられませ」
白装束の青年が、血塗れの指先で、首桶の中の白い瞼をそっと撫で下ろす。生命の灯火が完全に消え失せ、ただの精緻な人形へと変わった顔を、青年はむせび泣くような吐息と共に撫で続けた。
その瞬間、分厚い杉の扉が蝶番ごと木っ端微塵に吹き飛んだ。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「月影(つきかげ)景虎(かげとら)はどこだァ! 首一つで一万石、この俺様が貰い受けるぞォ!」
第三章: 猛将の首実検と狂気の舞

返り血と煤で黒く染まった当世具足の巨漢が、身の丈ほどもある大太刀を振り上げて踏み込んでくる。床板がミシミシと悲鳴を上げた。
桔梗(ききょう)「……騒々しいお方だ。これぞ我が主君、月影(つきかげ)景虎(かげとら)が首級にございます」
白狩衣の青年はゆっくりと立ち上がり、震えることのない両手で、黒塗りの首桶を恭しく差し出した。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「あァ? すでに自害しただと……? 小賢しい真似を、見せろ!」
顔面に深い刀傷を持つ猛将が、泥靴で首桶の蓋を乱暴に蹴り飛ばし、中を覗き込む。
直後、巨漢が汚物を踏んだかのように顔を歪め、一歩後ろへ飛び退いた。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「なっ……なんだこの首は! 戦場で白粉なんぞ塗りたくって、気味の悪い……っ! いや、待てよ」
猛将の血走った視線が、首桶の中の艶めかしい生首と、目の前に立つ白装束の青年の顔を、交互に激しく行き来した。寸分違わぬ鼻筋。同じ形の切れ長の目。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「貴様……その首と全く同じツラじゃねえか! 影武者の首を差し出して逃げようって魂胆か、貴様が本物の景虎だなァ!」
桔梗(ききょう)「……ふふ、あははははっ! 美しいもクソもない、ただの肉塊とおっしゃる無粋な貴方様に、我らの何が分かりましょうか!」
白装束の青年は、喉が裂けんばかりに哄笑しながら、懐の短刀で自らの胸元を深く掻き切った。鎖骨の下から鮮血を噴き散らし、そのまま猛将の間合いへと一直線に駆け出す。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「チィッ、気色悪い狂人めが! 死にやがれェ!」
反射的に振り下ろされた大太刀の白刃へ、青年は防御すら取らず、自ら胸を突き出して飛び込んだ。
鎖骨から肋骨へと刃が食い込み、肉と骨が断ち切られる鈍い音が響く。肺から熱い血の塊がせり上がった。
桔梗(ききょう)「がっ、は……っ。ああ、これで、ようやく……二つの首が、揃う……」
第四章: 反転する鏡像、永遠の落城
焼け落ちた巨大な梁が火花を散らして崩落する中、巨漢の武将は、痙攣する白装束の死体から血塗れの刀を乱暴に引き抜いた。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「……ケッ、どいつもこいつもイカれてやがる。結局、どっちが城主の景虎なんだ?」
猛将は舌打ちを一つ残し、白装束の死体の襟首を掴んで引きずると、無造作に首を斬り落とし、先ほどの首桶の横に並べて置いた。
鬼塚 弾正(おにづか だんじょう)「おい、待てよ……。この白装束の男、斬り落としたばかりの手のひらに、分厚い槍ダコがあるぞ。それに比べて、首桶の方の死体……緋色の甲冑を着てやがるが、化粧職人のみてえに指先が白くて綺麗じゃねえか」
猛将の呟きは、紅蓮の炎が爆ぜる轟音にかき消された。
揺らめく陽炎の向こう側で、先刻の記憶が、鏡の表裏のように反転する。
――まだ敵兵が本丸へ踏み込む前、香の煙が立ち込める天守閣の奥の間。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「桔梗(ききょう)よ、余の緋色の甲冑を着ろ。そして余には、貴様のその白狩衣を寄越せ」
桔梗(ききょう)「と、殿……? 何を仰せですか、影武者として身代わりになり、ここで死ぬのはこの桔梗(ききょう)の役目にございます!」
月影 景虎(つきかげ かげとら)「黙れ。貴様を生き残らせれば、いずれ敵に捕らえられ、その余と同じ美しい顔に泥を塗られて、醜く拷問を受ける。そんな無粋な真似、余が許すはずがないであろう」
若武者は、震える影武者の顎を強引に掴み上げ、抗うことを許さない絶対者の瞳で射抜いた。
桔梗(ききょう)「そんな……っ。最期の瞬間まで、この私が、殿の死に顔を美しく化粧するはずでしたのに……っ」
畳に崩れ落ち、白い指先で床を掻きむしる青年の背へ、若武者は自らの緋色の陣羽織をふわりと掛けた。
月影 景虎(つきかげ かげとら)「案ずるな。余が『桔梗(ききょう)』となり、貴様のその丁寧な口調も、死化粧の技もすべて模倣してやろう。貴様は城主『月影(つきかげ)景虎(かげとら)』として、余の手で、この世で最も美しく首を落とされるのだ」
回想が途切れ、完全に崩壊していく本丸の炎の中に、二つの生首が転がる。
猛将がどちらの首も持ち去ろうと手を伸ばした瞬間、天井の巨大な棟木が轟音と共に落下し、すべてを紅蓮の業火と瓦礫の底へと飲み込んだ。
黒煙が渦巻く灼熱の地獄で、二つの首の唇が、同時に満足げな弧を描いたまま灰へと変わっていく。
ああ、桔梗(ききょう)よ……余が貴様として泥を被り死ぬことで、貴様は永遠に、余という無傷の城主になるのだ。