第一章: 暴走するブラック開拓スキルと、神獣を堕とした塩むすび
警告! 目標エリアの原生林を全自動で更地にします! 納期まで残り三分、残業代は支給されません!
脳髄を直接ヤスリで削り取る、無機質な電子音。
穂村耕作(ほむらこうさく)は冷たい泥濘(ぬかるみ)に両膝を突き、くたびれた灰色の作務衣(さむえ)の胸元を爪が割れるほど強く掻きむしった。浅く、速い呼吸。肺が上手く空気を吸ってくれない。
目の下にどす黒いクマを刻み込んだ三十八歳の疲弊しきった顔が、腐海に群生する青白い発光キノコの胞子に照らし出される。指先が氷のように冷え切り、奥歯がガチガチと勝手に鳴った。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「やめろ……っ! もう、何かを壊して数字を作るのはごめんなんだ!」
喉の奥から絞り出した悲鳴に、赤い警告灯が容赦なく点滅を繰り返す。
エラー。進捗率ゼロ%。至急、樹齢三千年のご神木を伐採し、工業団地を建設してください。
工業団地。進捗。納期。
前世の東京で、終電を逃したオフィスビルの蛍光灯の下で、何万回と己の魂をすり減らしてきた呪いの言葉。胃の腑から酸っぱい胃液がせり上がり、耕作の視界が真っ赤な怒りで染まった。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「労働基準法違反なんだよ、このクソシステムがァァァッ!」
耕作は泥を蹴って跳ね起き、大工見習い時代に作ったマメが潰れて固くなった右拳を振り上げると、眼前に浮かぶ《超高速・全自動開拓》の半透明ウィンドウを渾身の力で殴りつけた。
ミシッ、と己の拳の骨が軋む鈍い音。裂けた拳の皮から、生温かい血がシステム画面にべっとりと飛び散る。激痛。だが、その痛みが逆に社畜として麻痺していた脳の芯を覚醒させた。
じいちゃんは言ってた。山を敬え、土を撫でろって。自然は支配するもんじゃねえ、お裾分けしてもらうもんだって!
穂村 耕作(ほむら こうさく)「俺が欲しいのはタワマンでも工場でもねえ! 風が通る縁側と、かまどで炊いた白い飯なんだよォッ!」
血塗れの拳をさらにねじ込む。
バチィッ! と赤い火花が激しく爆ぜ、無機質な文字列が狂ったように文字化けを起こしてガラスのように砕け散った。
仕様変更を受理。裏コード《里山共生クラフト》を起動します。
直後。重機が唸るような地響きすら起きない。
ただ、風が吹いた。周囲にそびえ立つ巨木の根が、まるで意思を持った大蛇のようにスルスルと地面を這い、複雑に編み上がっていく。生木は一本たりとも傷つけない。森に落ちていた倒木と枯れ葉、そして苔むした岩だけが超高速で宙を舞い、寸分の狂いもなく組み合わさっていくのだ。
一秒、二秒、三秒。
息を呑む間もなく、そこには黒光りする太い梁(はり)を持った茅葺き屋根の古民家と、山奥の清流を竹樋(たけとい)で引き込んだ小さな棚田が、最初からそこにあったかのように音もなく生成されていた。
湿った土と、古い木材の懐かしい匂い。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「おぉ……土間だ。ひんやりした土間と、泥を塗り固めたかまどがあるぞ……!」
耕作は震える足で敷居を跨ぎ、かまどの前にしゃがみ込んだ。無精髭に覆われた頬が勝手に緩む。そこにはすでに薪が組まれ、黒い羽釜(はがま)が鎮座している。備え付けられていた木のしゃもじを、まるで恋人の手を取るかのように優しく握りしめた、その時である。
ズズズン、と森全体の空気が鉛のように重く沈み込んだ。
呼吸が止まる。虫の声が、一瞬で掻き消えた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「愚かな人間よ! 我が神域に妙な巣を作りおって、骨ごと噛み砕いてくれるわ!」
天上から降ってきたのは、雷鳴のような咆哮。
腐海のどす黒い瘴気を毛皮にまとい、見上げる山のように巨大な全長十五メートルの白狼が、古民家の庭先へドォンと降り立った。衝撃で縁側の障子がビリビリと震える。
苔と白銀の剛毛に覆われた圧倒的な巨体。黄金に光る六つの瞳が、絶対捕食者の殺意をぎらつかせて、土間の奥にいるちっぽけな耕作を見下ろしている。
鼓膜を破らんばかりの唸り声と暴力の気配に、耕作の膝がガクガクと勝手に震え出した。
冷や汗が背中を滝のように伝う。ひと噛みで上半身が吹き飛ぶ。逃げなければ死ぬ。
だが。耕作の充血した視線は、涎を垂らす狼の鋭い牙ではなく、土間のかまどに据えられた羽釜へと釘付けになっていた。
パチ、パチと爆ぜる赤い熾火(おきび)。羽釜の隙間から、ぶくぶくと粘り気のある重湯が吹きこぼれ、猛烈な勢いで真っ白な湯気が立ち上っている。甘くて、香ばしい、命の匂い。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「……待ってくれ、神様。殺すなら、この『蒸らし』が終わってからにしてくれないか」
声の震えを奥歯で噛み殺し、耕作は羽釜の前に立ち塞がるように両手を広げた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「な、なんじゃと? この我を前にして、命乞いではなく釜の心配をするのか!?」
白狼の六つの目が、信じられないものを見るように見開かれる。耕作は狼の視線から逃げるように、ふっと目線を落としてかまどの灰を火吹き竹で突いた。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「焦っちゃいかんよ。赤子泣いても蓋とるな、だ。今フタを開けたら、せっかくの米が泣くからな」
耕作の瞳から、長年こびりついていた社畜の濁った疲労がすっと消え、夏休みの小学生のような澄み切った光が宿る。
心の中で十を数える。よし、今だ。
彼は火吹き竹を脇に置き、熱気を帯びた分厚い木の蓋に両手をかけると、一気にパッと持ち上げた。
ぶわっ、と白銀の湯気が土間いっぱいに弾け飛び、視界を真っ白に染め上げる。
湯気が晴れた先に現れたのは、一粒一粒が誇らしげにピンと立ち、真珠や宝石のように艶めく炊きたての銀シャリだった。釜の底からは、微かに焦げた醤油にも似た『おこげ』の芳ばしい香りが立ち昇る。
耕作はごくりと唾を飲み込み、手桶の冷たい湧き水でパシャリと両手を濡らした。小皿に盛られた神域の粗い岩塩を指先にちょんとつけると、しゃもじで掬い上げた火傷しそうな熱々の白米を、己の掌へと乗せる。
熱い。手のひらの皮が真っ赤になる。だが、力を込めすぎてはいけない。
赤子の頬を撫でるように、空気を含ませながら、キュッ、キュッと素早く掌で三角に転がしていく。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「ほら、できたぞ。まずは一番上の、この森の神様の分だ」
耕作は土間から進み出て、唸り声を上げる巨大な狼の鼻先へ、ほかほかと湯気を立てる『塩むすび』を竹の皮に乗せて差し出した。パリッとした黒い焼き海苔が、白い米の腹巻のように巻かれている。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「なんだこれは……白くて、温かくて、胸の奥がくすぐられるような甘い匂いがするぞ。く、喰えるのか? 貴様、我に毒を盛る気か!」
狼が警戒して鼻面に皺を寄せ、一歩後ずさる。耕作は苦笑して肩をすくめ、自分の唇の端についた米粒を舌で舐め取った。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「毒なんか入ってないさ。米と水と塩、全部あんたの森から借りたもんだ。冷めないうちにどうぞ」
その言葉に、白狼の巨大な鼻がヒクヒクと動いた。抗いがたい香りの引力。
やがて、人間ひとり丸呑みできる巨大な顎がゆっくりと開き、恐る恐る、その小さな白い塊を舌の上へと迎え入れた。
パリッ、と軽快な音を立てて炙り海苔が砕ける。
その瞬間。森全体を揺らしていた不穏な雷鳴が、ピタリと止んだ。
口の中で、ホロリ、とほどける米粒の塊。耕作の絶妙な手加減によって空気を含んだ米が、熱い湯気とともに狼の舌の上で踊る。ひとたび奥歯で噛みしめれば、デンプンが変化した強烈な甘みが津波のように溢れ出し、それを神域のミネラルを含んだ優しい塩気がキリリと引き立てるのだ。
三千年間、血生臭くて冷たい魔獣の生肉と、鉄錆びた泥水しか知らなかった神獣の脳髄を、温かい暴力が真っ直ぐに貫いた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「う、うまぁい……! なんだこの温かさは……噛めば噛むほど甘みが湧いてくる……我が凍てついた魂が、ドロドロに溶けていくぞ……!」
黄金の六つの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、庭の土を濡らす。
次の瞬間、巨大な狼の身体が眩い白銀の光を放ち、風船の空気が抜けるようにシュルシュルと縮んでいった。
白い湯気と光の粒の向こうから現れたのは、床まで届く白銀の長い髪に、ぴょこんと立つ獣の耳とふさふさの尻尾を持つ、粗末な麻の貫頭衣を着た小柄な少女だった。
彼女は古民家の縁側にぺたんとへたり込み、桜色の唇の端に白い米粒を一粒つけたまま、潤んだ黄金の瞳で耕作をじっと睨みつける。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「な、人間! お主、名はなんという!」
穂村 耕作(ほむら こうさく)「穂村耕作、三十八歳。元・限界社畜です」
耕作が頭を下げると、少女は立ち上がって小さな胸を反らし、ビシッと耕作の鼻先を指差した。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「コウサク! 今日より我をこの家の『守り神』として雇うことを許す! 報酬は、毎朝のこの白い塊と、釜の底のカリカリした『おこげ』でよいぞ!」
尊大な言葉を吐きながらも、貫頭衣の裾から覗く白い尻尾が、縁側の床をパタパタとちぎれんばかりに激しく叩いている。
こうして始まった、腹ペコの神様との奇妙な二人暮らし。
だが数ヶ月後の穏やかな昼下がり。森の入り口の方角から、静寂と木々を無慈悲に引き裂く『魔導チェーンソー』の野蛮な轟音が、すぐそこまで迫っていた。
第二章: 納期に狂った開拓者たちと、囲炉裏端のイワナ塩焼き

カコン、と庭先のししおどしが乾いた音を響かせる。
強い日差しが照りつける縁側の下では、チリンと鳴るガラス風鈴の音を聞きながら猫のように丸くなっていたシロが、ピクリと白銀の獣耳を鋭く逆立てた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「コウサク、またあの鉄くさい人間どもじゃ! 森の木々を泣かせておる。昼寝の邪魔じゃし、今すぐ頭から食い殺してこようか?」
小さな牙を剥き出しにして、喉の奥でグルルと低い唸り声を上げるシロ。
囲炉裏端でパチパチと爆ぜる炭火を見つめ、竹串をゆっくりと回していた耕作は、額の汗をタオルで拭いながら立ち上がった。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「待て待て、シロ。庭先で血を見たら、せっかくの昼飯がまずくなるかねぇ」
耕作がなだめようと土間へ降りた、まさにその瞬間だった。
バリバリッ! と手入れしたばかりの古民家の生垣を無残に突き破り、黒い煤(すす)と機械油にまみれた重厚な革鎧の大男が、土煙を上げて庭へ転がり込んでくる。
ギルド長・ガルド「ええい、なぜ木が切れん! 王都への納材期限は明日の朝なんだぞ! このままじゃギルドは破産、違約金が払えず俺たちは全員処刑だァ!」
丸太のように太い腕に、傷だらけの髭面。背中に自分の体ほどもある巨大な魔導チェーンソーを背負った男――ガルドは、鎖のついた懐中時計を血走った目で睨みつけながら、口から白い泡を吹いていた。
彼は泥だらけの顔を上げ、目の前に佇む風流な茅葺き屋根と、作務衣姿の耕作を見るなり、ギョロリと眼球が飛び出そうなほど目を見開いた。
ギルド長・ガルド「な、なんだここは!? 魔獣がうろつく神々の森の最深部に、なぜこんなボロ家が……! おい貴様、ギルドの許可を得ていない違法開拓者か!? どけ、この家も更地にして木材の足しにしてやる!」
ガルドが排気煙を噴き上げるチェーンソーのグリップを握り直す。
その『期限』『破産』という単語を聞いた瞬間、耕作の背筋がビクッと硬直した。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「の、納期……!? いえ、部長! 弊社の進捗は現在クライアントの仕様変更中でして、明日の朝イチには必ず納品を……っ!」
反射的に直角のお辞儀をしそうになり、耕作はハッと我に返って自分の頬を両手でピシャリと叩いた。
いかんいかん、染み付いた社畜時代のトラウマが。俺はもう辞表を叩きつけたんだった。
耕作は肺の奥まで深く息を吐き出し、震える手でチェーンソーを振り上げようとするガルドの顔を、下からじっと見つめる。
泥に足を取られてふらつく足元。浅く荒い肩の息。そして何より、男の目の下に深く刻まれた、かつて自分が東京のオフィスビルのトイレの鏡で毎日見ていたのと同じ、死相のような真っ黒いクマ。
怒りよりも先に、耕作の胸の奥がチクリと鋭く痛んだ。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「あんた……何日寝てない? 最後に座って、温かい飯を食ったのはいつだ?」
ギルド長・ガルド「飯だと!? そんな暇があるか! 携帯食料の乾パンを噛みながら木を切るんだよ! 納期が、ノルマが後ろから俺を殺しに来るんだ! 休むことは罪だァ!」
ガルドの血を吐くような悲痛な絶叫が、カナカナとひぐらしの鳴く静かな夕暮れの庭に虚しく木霊する。
耕作は視線を逸らし、小さくため息をついた。過去の自分を見ているようで、目頭が熱くなる。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「シロ、絶対に手は出すなよ。……あんた、ガルドさんと言ったね。とりあえず、その背中の重たい鉄の塊を下ろしな。肩が外れるぞ」
ギルド長・ガルド「な、なにをふざけたことを……! 俺は今すぐ木を……!」
ガルドが一歩踏み出そうとした、その時。
ぐぅぅぅっ! と、ガルドの分厚い革鎧の腹から、まるで飢えた魔獣の咆哮のような凄まじい音が鳴り響いた。
ガルドの顔が、髭の奥まで真っ赤に染まる。
耕作は無言で囲炉裏端へ戻ると、白い灰に立ててあった一本の竹串をスッと引き抜いた。
そこには、遠火の炭火でじっくりと一時間かけて黄金色に焼き上げられ、化粧塩を振られたヒレがピンと立ち、薄い皮がパリッと爆ぜてジュウジュウと透明な脂を垂らす『神域イワナの塩焼き』が刺さっている。
さらに、囲炉裏の自在鉤(じざいかぎ)に吊るされた黒い鉄鍋の蓋をずらす。
採れたての肉厚なキノコと香り高い山菜、そして川の冷水で晒したゴボウと豚の脂身が、三年熟成させた自家製味噌の中でグツグツと踊る『極上・里山豚汁』の芳醇な湯気が、夕風に乗って庭先へと一気に流れ出した。
ギルド長・ガルド「こ、これは……なんだ、この暴力的な匂いは……! 鼻の奥がツンとして、勝手にヨダレが止まらん! 貴様、俺の理性を狂わせる魔女の毒でも焚いたか!?」
チェーンソーを取り落とし、ガルドがフラフラと夢遊病者のように囲炉裏へと吸い寄せられてくる。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「毒じゃないさ。ただの、田舎のじいちゃんの味だよ」
縁側で腕を組んでいたシロが、得意げに鼻を鳴らして胸を張った。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「ふふん、そのイワナは我が今朝、冷たい滝壺に潜って秒速で咥えてきた極上品じゃぞ! 人間ごときが食える代物ではないのじゃ、感謝して喰らうがよい……っ!?」
誇らしげに尻尾を揺らしていたシロの言葉が、途中で詰まった。
ガルドが震える手でイワナの竹串を受け取ろうとした、まさにその目の前で、シロの小さな身体が糸の切れた人形のようにガクンと縁側へ崩れ落ちたのだ。
森の奥から、木々の悲鳴のような黒い瘴気が突如として逆流し、彼女の華奢な肩をドロドロと蝕んでいく。
夕陽に照らされたシロの白い指先が、まるで夏の陽炎(かげろう)のように、向こう側の景色が透けて見え始めていた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「コ、コウサク……寒い……我が力が、消えていく……!」
第三章: 神様の嘘と、命を吹き込む『究極の卵かけご飯』

穂村 耕作(ほむら こうさく)「どういうことだ、シロ! おい、しっかりしろ! なぜ身体が透けてるんだ!?」
耕作は竹串を放り出して土間から裸足で飛び出し、縁側に倒れ込んだシロの華奢な肩を必死に抱き起こした。
いつもなら抱き上げた瞬間に伝わるはずの、日向の布団のような温もりと重みがない。まるで綿毛を抱いているかのように軽く、氷のように冷たい。
シロは苦しげに黄金の瞳を細め、ピクリと痙攣する白銀の獣耳を寂しげに伏せた。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「……古の掟じゃよ、コウサク。『森の神が人間の作った火を通したものを食い、人間に情を持てば、その神格が穢れて消滅する』とな」
彼女は輪郭がぼやけ始めた自分の小さな掌を持ち上げ、耕作の無精髭が生えた頬にそっと触れた。すり抜けてしまいそうなほど希薄な感触。
シロは鼻をひくつかせ、耕作の指先から漂う、大好きな岩塩と炊きたての米の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「じゃが、不思議と後悔はしておらんよ。お主の握った熱い塩むすびも、しょっぱいぬか漬けも、三千年の凍えるような孤独を忘れるほど、本当に旨かったからのぅ……」
今にも風に乗って消えてしまいそうな、穏やかで残酷な微笑み。
耕作の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。唇を血が滲むほど強く噛み締める。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「ふざけるな! そんな納得したような顔をするな! 温かい飯を腹いっぱい食って死ぬ神様がいてたまるか!」
耕作は喉が裂けんばかりに叫び、シロを抱きしめたまま、ガルドのチェーンソーが切り倒しかけていた生垣の向こう――樹齢数百年の巨木の痛々しい傷口を睨みつけた。
抉れた幹の断面から、ドロドロとした緑色の光の粒――森の生命力が血のように漏れ出し、それが黒い瘴気に変わってシロの衰弱と完全に呼応している。
点と点が、耕作の脳内で一本の線に繋がった。
そういうことか! 飯を食って穢れただと? 神話なんて、最初から森を奪う人間側が作った勝手な言い訳じゃねえか!
穂村 耕作(ほむら こうさく)「シロ、嘘をつくな! お前が消えかけてるのは俺の飯のせいじゃない! 人間が森を『一方的に奪って金にする対象』として扱い、お前が一人でその傷と毒を全部背負って浄化してたからだ!」
図星を突かれたシロが、ハッと息を呑んで視線を逸らす。
耕作は片手で空中にスキルウィンドウを乱暴に呼び出し、画面の隅で赤く点滅し続けていた『伐採・搾取モード』のアイコンを、自分の親指の爪が剥がれるほどの力で抉るように押し潰した。
マスターの強い意志と権限を確認。旧システムを完全パージし、《里山循環・共生モード》を最大出力で解放します。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「開拓っていうのはな、森を更地にしてコンクリートで固めることじゃねえ! 木を植え、水の通り道を整え、森の恵みをありがたく頂いて、出たゴミはまた土に還すことだ! そこで突っ立ってるガルドさん、あんたも手伝え!」
怒鳴りつけられたガルドは、ビクッと肩を震わせて我に返った。
ギルド長・ガルド「お、おう! 難しい理屈はよくわからんが、この匂いのする豚汁とイワナを後で食わせてくれるなら、悪魔にだって魂を売るぜ!」
ガルドは地面のお盆に置かれた木のお椀を、泥だらけの分厚い両手で恐る恐る包み込んだ。指先にじんわりと伝わる、久しぶりの『温かい料理』の温度。それだけで、大男の視界が涙で滲む。
彼は震える唇をお椀の縁につけ、湯気の立つ豚汁をズズッと一口啜った。
ごくり。
シャキシャキとしたゴボウの土の香りと、ホロホロに煮込まれた豚肉の甘い脂が溶け込んだ優しい味噌の汁が、徹夜と乾パンで荒れ果てていた胃袋を、母親の手のように優しく撫で下ろしていく。
ギルド長・ガルド「う、うめぇぇぇっ! なんだこれ、甘い! 温かい! 死んだお袋の味がするぅぅぅっ!」
四十五歳の筋骨隆々の大男が、子供のようにボロボロと号泣しながら一気に豚汁を飲み干し、地面を踏みしめて《重機召喚》のスキルを発動させた。
現れた魔導ショベルが唸りを上げる。だが、木を倒すためではない。ガルドは職人技のレバー捌きで、森の呼吸を妨げていた倒木と瓦礫を超高速で整理し、風通しと日当たりを阻む枯れ枝だけを正確に間引き始めたのだ。
耕作の《里山共生クラフト》がそれと完全に連動し、緑色の光の波紋が広がる。重機のキャタピラで抉れた森の地面が、一瞬でミミズや微生物が息づくふかふかの肥沃な腐葉土へと書き換わっていく。
傷ついた巨木から漏れていた緑の光がピタリと止まり、逆に大地から新しい生命力が吸い上げられていく。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「よし、外側の土壌は繋がった! あとはお前自身の内側の命の火だ、シロ!」
耕作は縁側にシロを寝かせると、裏庭の鶏舎へと全力疾走し、森の霊鳥が今朝産んだばかりの、まだお尻の温もりが残る黄金色の卵を一つひったくってきた。
土間へ飛び込み、羽釜の底から、一番熱くて甘みが詰まった炊きたての白米を丼に山盛りによそう。
箸で白い飯の真ん中に小さな火口のような『くぼみ』を作り、コンコンと殻を割って、ぷるんと盛り上がった濃厚なオレンジ色の卵黄をそこへ落とした。
仕上げに、かまどの熱で少し温めた三年熟成の自家製醤油を、タラリとひと回し。焦げた醤油と熱い米の香りが、爆発するように立ち昇る。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「食え、シロ! これが社畜の夜食にして俺の魂の結晶、『究極の卵かけご飯』だ! 旨い飯はな、神だろうが人間だろうが、すべての命を繋ぐんだよ!」
黄金色に輝く丼が鼻先に突きつけられ、シロの黄金の瞳が吸い込まれるように見開かれた。
彼女は透けかけた両手で熱い丼を抱え込み、導かれるまま、震える桜色の唇で黄金の米粒を一気に頬張る。
ハフッ、と熱い湯気が口の中で弾ける。
熱々の白米の余熱によって、生卵の白身がわずかに白く濁り、とろりと半熟状に変化して米一粒一粒をコーティングしていく。舌の上で潰れた卵黄の、ねっとりと絡みつくような濃厚なコク。そこへ、鼻腔を真っ直ぐに突き抜ける熟成醤油の芳醇な塩気と香ばしさが重なり合った。
噛む必要すらない。熱と旨味の塊が、そのまま魂の奥底へと滑り落ちていく。
ゴクン、とシロの白く細い喉が官能的に鳴り、それを見守る耕作の背筋にまでゾクゾクとした歓喜の粟立ちが走った。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「あ、あぁぁ……っ! な、なんじゃこれは……熱くて、とろとろで、お主の優しい匂いが口いっぱいに広がって……っ!」
熱い吐息がシロの唇から漏れ、縁側の空気が一気に甘く湿り気を帯びる。
♥シロの白い頬が林檎のように真っ赤な朱に染まり、快楽の奔流に耐えるように白銀の獣耳の付け根がビクビクと激しく跳ねた。[/Heart]
胃の腑に落ちた熱い卵かけご飯が、冷え切っていた神獣の核(コア)に猛烈な火を灯す。指先の隅々まで、ドロドロとした甘い熱が駆け巡り、視界がチカチカと明滅した。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「う、うまぁぁぁいっ!! こんなもの、我慢できるわけがないじゃろうがぁっ!」
直後。ドォン! とシロの小さな体内から、目が眩むほど眩い翠緑(すいりょく)の光の柱が爆発し、茜色に染まる夕暮れの天を真っ直ぐに突き抜けた。
凄まじい突風が吹き荒れ、古民家の風鈴が狂ったように鳴り響く。
光の波紋が森全体へと広がり、チェーンソーで傷ついていた巨木が一斉に瑞々しい新芽と枝を伸ばし、腐海の発光キノコたちが祝祭のファンファーレのように甘い虹色の胞子を空へと舞い散らせた。
陽炎のように透けていたシロの四肢は、完全に確かな重みと実体を取り戻し、その白銀の毛並みと長い髪は、以前よりも艶やかにシルクのような輝きを増している。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「な、なんということじゃ……! 人間が森を慈しみ、その恵みを『いただきます』と感謝して食らう気配こそが、我ら森の神の最高の力の源じゃったとは……!」
一粒残らず空っぽになった丼を胸に抱え、口の周りを黄色くしたまま、満足げにペロリと舌なめずりをするシロ。
その隣で、空になった豚汁のお椀と、骨だけになったイワナの竹串を握りしめて呆然と立ち尽くしていたガルドが、突如としてドサッと音を立てて地面に五体投地の土下座をした。
第四章: ひぐらしの鳴く縁側と、終わらない夏休み
ギルド長・ガルド「頼む、コウサク殿! いや、師匠と呼ばせてくれ! 俺を……俺たちの開拓ギルドを、あんたの弟子にしてくれぇぇっ!」
腐葉土の地面に泥だらけの額をゴリゴリと擦りつけ、ガルドが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で絶叫した。
ギルド長・ガルド「もう納期に追われて、胃に穴を開けながら森の木を切り倒すのはたくさんだ! 俺にも、こんなふうに食ったやつの心が芯から温まる米の作り方と、あの涙が出る『豚汁』の作り方を一から教えてくれ!」
ガルドは背中の魔導チェーンソーのベルトを引きちぎって脇へ放り投げ、自分を縛り付けていた鎖付きの懐中時計を地面に置くと、自らの分厚い革ブーツの踵でバキィッと粉々に踏み潰した。
時間を刻む針が止まり、男の顔から憑き物が落ちたように黒いクマが薄れていく。
耕作は困ったように無精髭をボリボリと掻き、シロと顔を見合わせると、やがて目尻の深いシワをさらに深くして苦笑した。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「弟子なんて、そんな大層なもんじゃないさ。俺はただの元サラリーマンだしな。でもまあ……田んぼの草むしりと、かまどの薪割りを毎日手伝ってくれるなら、温かい朝飯くらいは腹いっぱい食わせてやるよ」
ギルド長・ガルド「あ、ありがてぇ……! 王都の肥え太った貴族どもには『森の主の怒りで開拓は不可能、全員全滅した』と嘘の報告書を送って、うちのブラックギルドは今日で計画倒産だ! 今日から俺は、誇り高き里山農家だァ!」
ガルドは四十過ぎの巨体を子供のように弾ませながら立ち上がり、森の入り口で待機している部下たちを呼ぶために、夕闇の迫る林道へと風のように走っていった。
嵐のような騒動が去り、古民家の庭には再び、カコンと鳴るししおどしの音と、涼しげな秋の虫の声だけが響く静寂が戻ってくる。
それから、どれくらい縁側で微睡(まどろ)んでいただろうか。
東の空がゆっくりと白み始め、白い朝霧の立ち込める棚田の向こうから、稲穂を黄金色に染める柔らかな朝の陽光が差し込んでくる。
耕作はきしむ縁側に深く腰を下ろし、隣でぽんぽんと太鼓のように膨れたお腹を満足げにさすっているシロの白銀の頭を、大きな掌でそっと撫でた。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「……なぁ、シロ。俺、本当はずっと怖かったんだ。東京の会社を逃げるように辞めて、こんな異世界の森の奥で一人で飯を作って……俺は社会の歯車から外れた、誰からも必要とされてないダメな人間なんじゃないかって」
誰にも言えなかった、胸の奥の黒い澱(おり)。膝の上で握りしめた自分の拳を見つめる耕作に、シロは呆れたように鼻を鳴らした。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「ふふん、何を今さら言うかと思えば。お主は飯を作る腕は天下一品じゃが、自分の価値に関しては相変わらず愚かじゃのぅ、コウサク」
シロは猫のようにゴロゴロと喉を鳴らしながら体勢を変え、耕作の作務衣の膝の上に、コテンと自分の頭を乗せた。
白銀の長い髪が朝風にさらりと流れ、透き通るような黄金の瞳が、下からまっすぐに耕作の目を見上げる。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「いいか、よく聞け。お主が掌で握るあの温かいむすびがなければ、この三千年の森も、あの鉄くさくて泣いておった人間も、そしてこの誇り高き我も、とっくの昔に心が枯れ果てて死んでおったわ。お主が毎朝かまどの火を焚き、白い飯を炊くあの甘い匂いこそが、今のこの森の『鼓動』なのじゃ」
小さな手が伸びてきて、耕作のゴツゴツとした職人マメのある指先を、ぎゅっと握りしめる。確かな体温。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「……そっか。俺、ここにいていいんだな。誰かのために、飯を炊いていいんだな」
耕作の目から、こらえきれなくなった一筋の温かい雫がポロリとこぼれ落ち、古い縁側の乾いた木の床に丸い染みを作った。
十数年間、彼の心臓を錆びた鎖のように縛り付けていた『社畜の呪い』が、棚田を渡る朝の涼しい風とともに、綺麗さっぱり溶けて消えていく。胸の奥が、かまどの熾火のようにじんわりと温かい。
しんみりとした空気を破るように、シロがガバッと上半身を起こし、よだれを拭いながら耕作の胸ぐらを掴んだ。
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「さあ、いつまで泣いておる! そろそろ朝餉(あさげ)の支度じゃ! 今朝はお主が昨日藁(わら)に包んで仕込んでおった、あの糸を引く『納豆』と『焼き海苔』とやらを所望するぞ! あと卵も二個じゃ!」
穂村 耕作(ほむら こうさく)「はいはい、うちの神様は朝から注文が多いねぇ。……ん? おい、ちょっと待てよ」
涙を袖で拭って立ち上がろうとした耕作の足裏に、地面の異様な振動が伝わってきた。
森の入り口の方角から、ドタドタドタッ! と大地を揺らす無数の足音と、野太い男たちの歓声が津波のように迫ってくる。
白い朝霧を突き破って古民家の庭に現れたのは、なんとガルドが引き連れてきた元・開拓ギルドの筋骨隆々の荒くれ者たち――総勢二百名。
全員が武器の代わりに農作業用のスコップと、洗いたての空のお椀を両手に持ち、徹夜明けの血走った目で古民家の土間のかまどを熱い視線で見つめている。
先頭を走るガルドが、爽やかな朝日に向かって白い歯を光らせた。
ギルド長・ガルド「師匠! うちのギルドの部下を全員連れてきたぜ! さあ、腹ペコ農家二百人分の朝飯の『納期』は、今からあと十五分だァ!」
ピロリン、と耕作の耳元で聞き覚えのある軽快なシステム音が鳴り響く。
新規緊急クエスト発生:腹ペコ開拓団二百名の朝食ケータリング。制限時間:十五分。報酬:広大な開墾済み棚田と、最高の笑顔。
耕作の顔が、一瞬で引きつった。
穂村 耕作(ほむら こうさく)「結局朝イチからデスマーチじゃねえかァァァッ! シロ、遊んでないでかまどの火力を最大にしろ! お前ら、まずは川で手を洗って並ぶんじゃねえ、自分の分の薪を割れ! 米が泣く前に全部炊き上げるぞォッ!」
オオミカミ・シロ(白銀の腐海狼)「うむ、任せろコウサク! おこげは全部我の分じゃからなァ!」
パチリ、と囲炉裏とかまどの炭が威勢よく爆ぜ、真っ赤な火の粉が舞い上がった。
樹齢三千年のご神木が見守る巨大な神々の森の片隅で。
炊きたての白米の甘い湯気と、香ばしい味噌汁の匂い、そして世界で一番幸せな元・限界社畜の賑やかな悲鳴が、どこまでも澄み渡る朝の青空へと高く、高く立ち上っていた。