第一章: 時給換算80円の魔王軍幹部
ベルゼ・ビュート「貴様を八つ裂きにして、私はやっと3時間の仮眠を取るのだーっ!」
銀髪が乱れ飛ぶ。毛細血管の浮き出た赤い瞳。ベルゼ・ビュートが身の丈ほどもある大剣を振り下ろした。
対する黒髪の青年、社零の目の下にも、死人めいたどす黒いクマが張り付いている。彼は左手に構えた辞典並みの分厚い六法全書で、唸りを上げる凶刃を真正面から受け止めた。
火花が散る。重い。手首の骨が軋む音を立てた。だが、零の脳髄に突き刺さったのは剣撃の衝撃ではない。
社 零(やしろ れい)「……ちょっと待ってください! 今、3時間の仮眠って言いましたか!?」
零は擦り切れたリクルートスーツと安物の革の胸当てを鳴らし、一歩踏み込む。右手に握った魔導スマホのリングライトが、最大光量で彼女の蒼白な顔を照らし出した。
社 零(やしろ れい)「現在の時刻は深夜2時! つまり貴女、最低でも36時間連続勤務中ですね!? その大剣を振るう労働、残業代は1分単位で出ていますか!?」
ベルゼ・ビュート「ええい、黙れ人間! 魔王様への忠誠があれば睡眠など不要である! ……あっ、待て、そこを突くな、やめろ!」
零の視線が、彼女の漆黒の重厚な鎧の隙間へと突き刺さる。次の瞬間、激しい金属音と共に、大量の栄養ドリンクの空き瓶と胃薬のシート、さらには赤字で『再提出』と殴り書きされた書類の束が、冷たい石畳の上にぶちまけられた。
チャリン、と空き瓶が虚しく転がる。ベルゼの剣先から、急速に殺気が抜け落ちていく。
ベルゼ・ビュート「あ、すみません、その稟議書は明日の朝イチで修正して再提出しますので……! ですから後生です、人事部への通報だけは……!」
大剣を取り落とし、膝をついて書類を拾い集める魔族の幹部。その震える指先には、無数の紙めくりダコとささくれが刻まれている。零は奥歯を強く噛み締めた。
魔王城は福利厚生が完璧な究極のホワイト企業。そこに転職すれば、前職の地獄から抜け出して一生安泰なはずだ。なのに、この過労死寸前の目のクマは何なんだ!? なぜ敵の幹部が、月末の俺と同じ匂いをさせているんだ!
零は足元にひらりと落ちた魔界通貨の給与明細を素早く魔導スマホでスキャンし、接続中の配信コメント欄へとリアルタイム共有した。
視聴者コメント:『月間残業320時間!?』『基本給低すぎワロタ』『みなし残業代のみで深夜手当ゼロ』『日本円換算で時給80円なんだがwww』
画面を流れる無慈悲な文字の羅列。零の喉奥から、ひゅう、と乾いた空気が漏れた。
社 零(やしろ れい)「じ、時給80円……!? その豊満なGカップの胸をサイズの合わない鎧で無理やり圧迫して慢性的な肩こりに耐え、獄炎魔法《ヘル・フレイム》を使った後の器物破損始末書を恐れて、わざわざコスパの悪い物理で殴りかかってくる涙ぐましい中間管理職が、時給80円!?」
ベルゼ・ビュート「うっ……だ、黙れ! 胸のサイズと肩こりは関係ないであろう! か、過労死することこそが、魔王様への最大の忠誠である……!」
ベルゼは羞恥と疲労で顔を真っ赤に染め、震える唇を噛んで視線を逸らした。胃のあたりを無意識に押さえるその仕草が、零の逆鱗を完全に撫でた。
社 零(やしろ れい)「そんなの絶対におかしいですよ! 固有スキル《労基法》・絶対強制執行!」
零が六法全書を天に掲げる。頁が暴風のようにめくれ上がり、青い法力の鎖が空間を裂いて飛び出した。硬質な金属音と共に、鎖がベルゼの剣と両腕をぐるぐる巻きにして強制ロックする。
彼女が小さく悲鳴を上げた、まさにその瞬間。ボス部屋の最奥、不気味な沈黙を守っていた巨大モニターが、耳障りな駆動音と共にバチリと点灯した。
第二章: 暴かれた『魔王』の正体と最悪の癒着

ギルドマスター・黒崎(くろさき)「いやあ、まさかうちの底辺配信者と、向こうの現場責任者が労務問題で意気投合するとはねえ! 実に滑稽な絵面だ!」
青白いモニターの光が照らし出したのは、見覚えのある恰幅のいい男。高級なオーダースーツを着込み、金の懐中時計を指先で弄ぶオールバックの男、冒険者ギルドのトップであるギルドマスター・黒崎だ。
社 零(やしろ れい)「黒崎支部長!? なんで貴方が魔王城のモニターに映っているんですか!?」
ベルゼ・ビュート「なっ……魔王様はどこにおられる!? 貴様、なぜ玉座の直通通信機を使っているのだ! 無礼者め!」
ベルゼが鎖を鳴らして吠える。だが、カメラの画角が少しズレたことで映り込んだ玉座の間の隅には、威厳ある調度品ではなく、大量の段ボール箱とシュレッダーダストがゴミ山のように積まれていた。
黒崎は葉巻の煙をふうっと吐き出し、底冷えするほど冷酷な目で画面のこちら側を見下ろす。
ギルドマスター・黒崎(くろさき)「魔王? ああ、あの威厳たっぷりの着ぐるみのことかな。あれはね、私が魔界の腐敗貴族と組んで立ち上げた、ペーパーカンパニーのホログラム映像だよ」
時が止まる。ベルゼの呼吸が、ぴたりと止まった。
ベルゼ・ビュート「だ、ダミー会社……? 着ぐるみ、だと……? う、嘘だ、魔王様は私に『君だけが頼りだ』と……!」
ギルドマスター・黒崎(くろさき)「定型文のボイスボットだよ、それ。人間側の冒険者には『世界救済のやりがい』を、魔族側には『人間界侵略の大義』を与える。おかげで双方が危険手当も労災もゼロで殺し合い、高純度の魔石を勝手に掘り出してくれる、超巨大ブラック下請け工場の完成さ! 夢ややりがいは、お金じゃ買えないだろう?」
黒崎が腹を抱えて笑う。その下卑た笑い声が、ダンジョンの冷たい壁に反響して零の鼓膜を嬲った。指先が氷のように冷たくなる。怒りで視界の端が赤く明滅した。
社 零(やしろ れい)「全部……全部、貴方のマッチポンプだったっていうんですか!? 俺たちが命を削って稼いだ上前を撥ねて、裏で手を組んでいたのか!」
ギルドマスター・黒崎(くろさき)「労働者はただの歯車だ。摩耗して壊れたら、新しい若者を補充して交換すればいい。君たちの流す汗と涙と血が、我が社の最高のコストカットになるんだよ」
ガシャン、と重い音が響いた。ベルゼの膝から完全に力が抜け、冷たい石畳の上へ崩れ落ちたのだ。瞳からハイライトが消え、乾いた唇がわなわなと震える。
ベルゼ・ビュート「私の、300年の忠誠は……部下のミスを被り続け、血反吐を吐きながら処理した徹夜の書類は、すべて……ただの、サービス残業だったのか……?」
ギルドマスター・黒崎(くろさき)「さて、会社の機密を知った不良債権には、帳簿ごと綺麗に消えてもらおうか。強制リストラ・自爆プログラム起動!」
黒崎がデスクの赤いスイッチを無造作に叩く。直後、ダンジョン全体が激しい地鳴りと共に揺れ動いた。
警告:ダンジョン最深部の魔力パイプラインが臨界を突破。天井の崩落を開始します。退避ルートはすべて封鎖されました。
第三章: スキル『労基法』臨界突破と、世界初の労使交渉

轟音。巨大な岩塊が天井から次々と剥がれ落ち、地面を砕く。むせ返るような焦げ臭い煙と粉塵が瞬く間に充満し、呼吸を奪う。
ベルゼ・ビュート「もう終わりだ……どうせ私は、誰にも労われないまま錆びていく、使い捨ての歯車……このまま石の下敷きになれば、もう書類を書かなくて済むのだな……」
虚ろな瞳からポロポロと大粒の涙を零し、死を受け入れて目を閉じるベルゼ。
パァン! と乾いた音が響いた。
零が、左手に握りしめたタイムカードと新規雇用契約書の束で、彼女の白い頬を思い切り引っぱたいたのだ。
社 零(やしろ れい)「ベルゼさん! もう休んでいいんですよ! 貴女は十分すぎるほど、誰よりも立派に働きました!」
ベルゼ・ビュート「えっ……? い、今……なんと? 休んでいいと、言ったか……?」
弾かれたように顔を上げるベルゼ。青い法力の鎖はいつの間にか砕け散っていた。零は降り注ぐ落石の風圧にスーツをなびかせながら、彼女の前に片膝をつき、その赤い瞳を真っ直ぐに見据える。
社 零(やしろ れい)「適切な労働環境とは、命を削る場所じゃありません! 明日もまた働きたいと思える場所のことです! 俺が今、この場でホワイト企業を立ち上げましょう! ベルゼ・ビュートさん、貴女を完全週休二日・残業代全額支給・福利厚生完備の幹部社員としてヘッドハンティングします!」
零は懐から取り出した自分の稟議書と、彼女が床にぶちまけた書類の束を重ね合わせ、懐のシャチハタを取り出した。そして、迷いなく真っ赤な『承認』のハンコを乱暴なまでの力で押しつけ、彼女の目の前に突き出した。
ベルゼ・ビュート「あ、ああっ……! い、一切の差し戻しも、赤字の修正もなしで、一発で承認印を……! わ、私に、有給休暇をくれるのか……!?♥」
朱肉の鮮やかな赤が、ベルゼの瞳に焼き付く。彼女の頬がみるみるうちに火照ったように朱に染まり、決壊したダムのように涙腺が一気に崩壊した。熱い吐息が零れ、華奢な肩が小刻みに痙攣する。
そのあまりにも無防備で、色気すら漂わせる安堵の涙。それを至近距離で見つめる零の背筋にも、脳髄を直接焼くような熱い電流が駆け抜けた。呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。
これだ……! 限界まで疲れ切った社畜が、圧倒的な肯定と有給を与えられて見せる、この無防備な安堵の涙! この瞬間を見るためだけに生きてきたと言っても過言じゃない! たまらない!
ベルゼは袖で乱暴に涙を拭うと、落ちていた大剣の柄を力強く握り直し、立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの狂気ではない、確かな生命の炎が宿っている。
ベルゼ・ビュート「乗ったぞ、社零! 私の新しい雇用主よ! 私の300年の実務経験、すべて貴様に捧げよう!」
二人は粉塵の中で固く、血が滲むほど強く手を握り合い、崩落する天井の向こうで高笑いを続けるモニターへ向き直った。
社 零(やしろ れい)「くらえ黒崎! これより労働争議を開始する! スキル臨界突破《労基法・第36条(サブロク協定の鉄槌)》!」
ベルゼ・ビュート「300年分の未払い精算である! 遅延損害金も上乗せして受け取れ! 獄炎魔法《未払い賃金請求フレア》!」
同時接続数100万人突破! 全世界の社畜視聴者からの特別ボーナス(スパチャ)が承認され、物理的な魔力へと変換されます!
スマホの画面から溢れ出した黄金の光の奔流と、ベルゼの放つ灼熱の獄炎が螺旋を描いて絡み合う。天を衝くほどの巨大なエネルギーの塊が、降り注ぐ落石を蒸発させながら一直線に突き進み、自爆装置と巨大モニターを跡形もなく粉々に吹き飛ばした。
第四章: ダンジョン逆走! ホワイト魔王城建設計画
ギルドマスター・黒崎(くろさき)「ひぃぃっ! な、なぜ通信が切れない!? 違法労働の証拠映像と裏帳簿データが全世界に拡散されているだと!? やめろ、株価がストップ安だ! 労基署の特別強制捜査班がドアを破ってーっ!」
砕け散るモニターの残骸から、黒崎の無様な断末魔がノイズ混じりに響き渡り、そしてプツリと途絶えた。
崩落が止まり、風の音だけが吹き抜けるダンジョンに、ようやく本当の静寂が戻る。
それから数時間後。
地上へと続く第1階層の大階段。差し込む朝日を背に受けながら、零とベルゼは並んでゆっくりと階段を登っていた。
二人の背後には、長蛇の列ができている。カシャン、チーン! という小気味よいタイムカードの打刻音に歓喜の涙を流すゴブリンや、有給申請書の書き方を熱心に教え合うドラゴンたちが、整然と大行列を作っていた。
ベルゼは手元のバインダーに目を落とし、眼鏡をかけた秘書のような凛とした声で報告する。
ベルゼ・ビュート「社社長! 第3階層のオーク警備部隊から、来月の育児休業の申請が正式に上がっております! 代替要員のシフト調整も完了しておりますが、いかがいたしますか!」
社 零(やしろ れい)「即時承認してください、ベルゼ専務! 祝い金も規定の倍額出しましょう! これより我々は地上へ乗り込み、暴落した旧ギルド本部を二束三文で買収して、『株式会社ホワイト魔王城』の看板を掲げます!」
視聴者コメント:『最高のホワイト社長誕生だ!』『涙が止まらない!』『履歴書送りました!』『社長、一生ついていきます!』
コメント欄は惜しみない称賛と熱狂の渦に包まれている。ベルゼはふっと頬を緩め、隣を歩く零の横顔を、慈愛に満ちた眼差しで見つめた。
ベルゼ・ビュート「ありがとう、零。貴様に出会えて本当によかった。貴様のおかげで、私も今日から、やっと泥のようにゆっくり眠れるのだな……」
その言葉に、零は微笑みで応える――ことはしなかった。
彼は無言のまま、魔導スマホの『配信終了』ボタンを親指で強くタップした。画面が完全に暗転し、マイクがオフになったのを冷徹な目つきで確認する。
スッ、と表情から一切の熱が消え失せた。零は中指で伊達眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、不思議そうに小首を傾げるベルゼの肩を、ポン、と軽く叩いた。
社 零(やしろ れい)「ええ、もちろんですベルゼ専務。一般社員であるモンスターたちは、全員17時ぴったりに定時退社させます。労基法は絶対ですから」
ベルゼ・ビュート「ん? い、一般社員は、だと? 妙な言い方をするな。私も帰って寝るのであるが……」
零の唇が、三日月のように深く、歪に裂けた。目の下の濃いクマが、朝日の中で不気味な影を落とす。
社 零(やしろ れい)「労働基準法第41条により、経営者と一体的な立場にある『管理監督者(役員)』である専務には、残業代も、休日手当も、労働時間の制限も、一切適用されませんからね!」
ベルゼの思考がフリーズする。零は彼女の耳元に顔を近づけ、悪魔のささやきよりも甘美な声で告げた。
俺がホワイト企業を起業したかった本当の理由。それは、奴隷のように働かされる側から抜け出し、労基法を完璧に順守した上で、合法的に役員を限界まで働かせる『経営者側』に回るためだ! 法律の抜け穴こそが、最強の魔法なんだよ!
社 零(やしろ れい)「さあ、法務局への登記に、ギルド買収の契約書作成、新規採用の面接準備で、今日から最低でも3日徹夜ですよ、ベルゼ専務! ああ、安心してください。役員への特別福利厚生として、タウリン3000ミリグラム配合の栄養ドリンクを1ケース、経費で支給しますから!」
ドン、と零の足元に置かれる段ボール箱。中から聞こえる、聞き慣れた茶色い小瓶の触れ合う音。
ベルゼの顔から、急速にすべての血の気が引いていった。
ベルゼ・ビュート「えっ……? カンリ、カントクシャ……!? 定時がない!? 残業代も出ない!? い、いやあああああああっ! 魔王様より悪魔がいるううううっ!」
希望に満ちた朝の光が降り注ぐ大階段に、合法的に逃げ場を失った新任専務の血を吐くような絶叫が、いつまでも、いつまでも虚しく木霊していた。