第一章: 欠損した薬指と四つの棺
天野 カナタ「――誰か教えてくれ! なぜ僕の左薬指が、あのガラスケースの中でホルマリン漬けになって浮いているんだ!?」
鼻腔を突く消毒液と鉄錆の悪臭。無造作な黒髪を振り乱し、血の滲んだ白い拘束着と医療用ガウンを纏った天野カナタは、喉の奥を引き攣らせながら叫んだ。
無機質な天井のスピーカーから、鼓膜を逆撫でするノイズが走る。
『箱庭実験開始。この中に一人、全員の記憶を奪い、肉体を切り刻んだ【標本師】がいる。制限時間は30分。犯人を処刑しなければ、毒ガスで全員を処分する』
直後、カナタの腕に冷たい指先が絡みついた。腰まで届く銀色がかった白髪を揺らし、純白の病衣を着た白咲ヒナノだ。潤んだ赤い瞳がカナタを見上げ、小動物のように激しく肩を震わせている。
白咲 ヒナノ「いやぁぁっ! カナタくん、私の胸、誰かに切り開かれて縫われてる……! 怖い、怖いよぉ!」
ヒナノが引き裂かれた病衣の胸元を掻き抱く。そこには、白磁の肌を無惨に引き裂く巨大な十字の縫合跡が這っていた。
黒須 レイジ「近づくな! てめえら全員、俺の首を見ろ! 一周ぐるりと赤い縫い目があるんだぞ、俺は誰かに首を斬り落とされたんだ!」
金髪の短髪に右目の下の泣きぼくろ。血のこびりついた黒い手術着を着た黒須レイジが、血走った三白眼でギラつくメスを構え、荒い息を吐き出す。
天野 カナタ「待てレイジ! 落ち着け、僕たちは名前以外の記憶がない被害者のはずだ!」
カナタは一歩踏み出そうとして、無意識に自らの唇を噛んだ。震える声を無理やり押し殺し、理性的な仮面を貼り付ける。
黒須 レイジ「黙れ! そのガラスケースの薬指、切り口が新しい。つまり犯人は、自分の指を切り落として被害者に成りすましてるってことだろ!」
レイジの怒号が狭い手術室に反響する。カナタはゆっくりと視線を落とし、自分の左薬指の付け根にある痛々しい黒糸の縫合跡を見つめた。
なぜ、痛みを感じない? どころか、ヒナノの左胸の大きな十字の縫合跡を見た瞬間、喉の奥がひりつくほど渇き、下腹部に鉛のような熱が溜まっている……まさか、本当に僕が?
ドクン、と不快な心音が耳の奥で跳ねる。
その時、しがみついていたヒナノの身体から、恐怖の震えがピタリと消えた。
白咲 ヒナノ「ねえカナタくん……私のここ、すごく疼くの。カナタくんの指で、確かめて……?」
耳朶を嬲る、湿り気を帯びた熱っぽい吐息。ヒナノの赤い瞳がトロンと蕩け、カナタの指先を自らの胸の縫い目へと誘導していく。カナタは弾かれるように視線を逸らし、足元の手術台の下に落ちていた血塗れのボイスレコーダーを拾い上げた。滑り落ちそうな指先で、再生ボタンを強く押し込む。
ザザ、と砂嵐の音が鳴り、聞き慣れた男の声が流れ出した。
『――全員を殺して、最高の標本を作る』
息が止まる。全身の血液が逆流する感覚。
天野 カナタ「え……これ、僕の声、なのか……!?」
第二章: 縫い合わされた嘘と倒錯のメス

黒須 レイジ「やっぱりてめえが『標本師』じゃねえか、カナタァ!」
天井の赤い警告灯が狂ったように点滅し、不気味な影を落とす。レイジが獣のような咆哮を上げ、カナタを冷たい手術台へと押し倒した。喉元に突きつけられるメスの刃。氷のように冷たい鋼の感触が、カナタの首筋の皮膚を浅く裂く。
天野 カナタ「違う、思い出せないんだ! 僕が誰を殺したのかも、誰を愛していたのかも!」
上擦る声。カナタは必死に首を捩るが、レイジの腕力は異常なほど強い。
白咲 ヒナノ「きゃああっ! やめてレイジさん、カナタくんを殺すなら私を刺して!」
悲鳴とともに、白い影が二人の間に割って入った。ヒナノだ。彼女はカナタを庇うように覆い被さると、自ら病衣の襟元を乱暴に引き裂き、豊かな胸元を剥き出しにしてレイジのメスへと押し当てた。
プツリ、と黒糸が弾ける音。裂けた傷口から、鮮烈な赤い血がぷくりと滲み出る。
黒須 レイジ「なっ……お前、何を……!?」
レイジが呆気に取られて一歩退く。ヒナノは傷口から垂れる血を指先で掬い取り、恍惚と頬を染めながら背後のカナタを振り返った。
白咲 ヒナノ「ああっ……冷たくて、熱い……♥ ねえカナタくん、見て。私の血、綺麗でしょう? 早くその綺麗な指で、私をもう一度縫い合わせてよぉ……!」
天野 カナタ「ヒナノ……お前、痛くないのか……?」
カナタの瞳孔が開く。恐怖で引き攣っていたはずの自分の頬が、今は歓喜に歪みかけていることに気づき、背筋が粟立った。
白咲 ヒナノ「痛いわ。でも、この胸の縫い目が疼くたび、私の中に『愛』が流れ込んでくるの! 私の中の『嘘』を、ぜんぶ暴いて、ぜんぶ貴方のものにして?」
荒い呼吸を繰り返していたレイジが、ふとカナタの左手を見て動きを止めた。メスの先端が、カタカタと小刻みに震え始める。
黒須 レイジ「待て……おい、なんだよこれ。カナタ、お前のその左薬指……縫合跡の皮膚の色が、お前の腕の色と違うぞ……!?」
天野 カナタ「え……?」
カナタは自分の左手を目の前に掲げた。黒糸の境界線を境に、そこから先の薬指だけが、まるで少女のように白く、細く、しなやかだった。
黒須 レイジ「ガラスケースの中の薬指は『カナタの元の指』だ。じゃあ今、お前の左手に縫い付けられてるその白くて細い薬指は、誰の指なんだよ!?」
沈黙が落ちる。その静寂を切り裂いたのは、鈴を転がすようなヒナノの笑い声だった。
白咲 ヒナノ「うふふ……やっと気づいたのね、カナタくん」
ヒナノがうっとりと掲げた左手。その華奢な手のひらには、不釣り合いなほど太く骨ばった『男の左薬指』が、黒い糸で歪に縫い付けられていた。
天野 カナタ「僕たちの身体は……最初から、パーツを交換されて縫い合わされているのか!?」
黒須 レイジ「じゃあ俺の首から下は誰なんだよ!?」
裏返った悲鳴を上げ、レイジが自らの黒いスクラブに指をかけて左右に引き裂いた。露わになった胴体。そこには、白や褐色、毛深い肌や滑らかな肌など、無数の男女の皮膚がパッチワークのように悍ましく縫い合わされていた。
第三章: 解体される救済と狂愛の覚醒

黒須 レイジ「うわあああっ! なんだよこれ、俺の身体じゃねえ! 俺の心臓も、肺も、全部誰かのツギハギなのかよぉっ!」
パリン、と乾いた音を立てて、レイジの肘が当たった中央のガラスケースが砕け散った。強烈なホルマリンの刺激臭が床一面に広がる中、レイジは涙と鼻水を垂れ流しながら膝から崩れ落ちる。
黒須 レイジ「ふざけるな、俺が殺人鬼なわけがないだろ! 俺は被害者だ! お前らを殺して、元の身体を取り戻してやる!」
恐怖が臨界点を超え、狂乱へと変わる。レイジは床を蹴り、デタラメな軌道でメスを振り下ろした。
迷いはなかった。カナタは一歩も退かず、白刃を自らの素手で真っ向から受け止めた。肉の裂ける鈍い音。鮮血が噴き出し、カナタの蒼白な頬を赤く濡らす。しかし、カナタの表情からは一切の恐怖が消え失せていた。
天野 カナタ「ああ……思い出したよ、レイジ。なぜ僕が暗闇でも糸を結べるほど手先が器用なのか。なぜ、ヒナノの傷口を見るとこんなにも愛おしくてたまらなくなるのか」
脳髄を焼き切るような閃き。欠落していた記憶のピースが、血の匂いをトリガーにして次々と噛み合っていく。
黒須 レイジ「カ、カナタ……?」
レイジがメスを引き抜こうともがくが、カナタの指が万力のように刃を挟み込んで離さない。カナタはゆっくりと首を傾げ、氷点下の瞳でレイジを見下ろした。
天野 カナタ「お前が外科医だったなんて『嘘』だ、レイジ。お前は僕たちの実験室に忍び込んだ、ただの臓器ブローカーじゃないか!」
黒須 レイジ「ひっ……!?」
レイジの喉がひゅう、と情けない音を鳴らす。図星を突かれ、三白眼が絶望に大きく見開かれた。
白咲 ヒナノ「よくも私のカナタくんの手を傷つけたわね……!」
いつの間にか背後に回り込んでいたヒナノが、レイジの首を一周する縫合糸に細い指を引っ掛け、思い切り引き絞った。ギリギリと肉に糸が食い込み、どす黒い血が滲む。
黒須 レイジ「がっ、あ、やめろ、首が、首が取れちまう……!」
天野 カナタ「取れないよ、レイジ。僕が最高の技術で縫合したんだから」
カナタは流れるような手つきでレイジの手首を捻り上げ、メスを奪い取った。刃に映る自分の顔が、酷く歪で、酷く美しい微笑みを浮かべている。
天野 カナタ「僕たちは被害者なんかじゃない。不治の病で死にかけていたヒナノを救うため、お前の健康な臓器を奪い、僕たちの肉体をひとつに縫い合わせたんだ!」
手足をバタつかせていたレイジの股間がじっとりと濡れ、アンモニアの臭いが漂う。そのまま白目を剥いて気絶したレイジの身体を、カナタはゴミ袋でも扱うように蹴り転がして処刑台へと押し乗せ、壁の処刑スイッチを叩いた。
だが。重厚な鉄扉のロックは、ピクリとも動かない。
第四章: 四番目の標本
天野 カナタ「どういうことだ……? レイジを処刑台に乗せたのに、なぜ扉が開かない!?」
カナタが眉をひそめた瞬間、シューという毒ガスの噴出音がピタリと止んだ。天井のスピーカーから、ノイズ混じりの甘く澄んだ声――録音されたヒナノの声が、部屋中に優しく響き渡る。
『カナタくん、ごめんね。もし私たちが記憶を失っても、もう一度最初から恋に落ちて、ひとつになれるように、私が記憶消去ガスを撒いたの』
天野 カナタ「ヒナノ……お前が、全員を記憶喪失にしたのか?」
振り返るカナタの前で、ヒナノは悪戯がバレた子供のように、血塗れの指先を唇に当てて微笑んだ。
白咲 ヒナノ「ええ。だってカナタくん、手術が終わったあと、罪悪感で死のうとしたでしょう? だから全部忘れさせて、もう一度私を解剖してほしかったの……!」
狂っている。だが、その底知れない執着が、カナタの乾ききった魂に甘美な毒となって染み込んでいく。
ヒナノが自分の左胸の縫合糸を指でつまみ、プツリ、と音を立てて引き抜いた。パックリと開いた傷口から、熱い鮮血が止めどなく溢れ出し、白い病衣を真紅に染め上げていく。
白咲 ヒナノ「さあカナタくん、毒ガスなんて最初から嘘よ。何回でも記憶を消して、永遠に私を切り刻んで、縫い合わせて……もっと抉って♥」
ヒナノが手術台の上に仰向けに寝転び、誘うように両腕を広げる。カナタは喉を鳴らし、震える手でヒナノの開いた傷口に触れた。指先が熱い肉に沈み込む。そのまま顔を埋め、溢れ出る鉄の味を舌先で貪るように舐め取った。視界がチカチカと明滅し、脳の奥が痺れるような快楽に支配される。
天野 カナタ「ああ……最高だよ、ヒナノ。僕の指も、お前の心臓も、全部ひとつに縫い合わせてやる……!」
手術台の上で血と吐息を絡ませ、獣のように抱き合う二人。その足元で、意識を取り戻したレイジが痙攣しながら身を起こした。彼の視線が、手術台の裏側に貼り付けられた血塗れのカルテを捉える。
黒須 レイジ「ま、待てよ……おい! 『被験者:記憶喪失の4人』って書いてあるカルテ……じゃあ、4人目はどこにいるんだよ!?」
レイジの悲鳴が響く。カナタとヒナノは血塗れの唇を深く重ねたまま、ゆっくりと首だけを動かし、部屋の中央――砕け散ったガラスケースの『まだ割れていない下段の水槽』を見つめた。
白咲 ヒナノ「何言ってるの、レイジさん。4人目の標本なら、最初からずっと『そこ』で、首だけの状態で私たちのショーを観ているじゃない」
ヒナノがクスクスと笑いながら、水槽のガラスを赤い指先でコン、と叩いた。
緑色に濁ったホルマリン液の向こう側。声帯を奪われ、管を繋がれたまま気泡を吐き出す『4人目のあなた』の視界が恐怖に歪む。水槽の蓋が開け放たれ、覗き込んできたカナタの冷たい指先が、あなたの剥き出しの眼球へと鋭い縫合針を突き立てた。