第一章: 肉球の玉座と死刑宣告
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「異議なし! 国家反逆罪により、鬼塚(おにづか)議員を『島流し』の刑に処します!」
潮風でボロボロになった高級スリーピーススーツの襟をピシリと正す。黒髪の青年、神楽坂誠(かぐらざかまこと)は、中指で銀縁眼鏡のブリッジを鋭く押し上げた。
南国の容赦ない太陽が照りつける砂浜。その中央にそびえる巨石の前で、彼の冷徹な声が響き渡る。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「ふざけるな神楽坂ァッ! 焼き魚の献上が、たったの三分遅れただけだぞ! 目を覚ませ諸君! 玉座にふんぞり返っている奴は、ただの図太い野良猫だァッ!」
荒縄で後ろ手に縛り上げられた巨漢、鬼塚権蔵(おにづかごんぞう)が血走った目を見開く。破れた高級シャツから剛毛の生えた分厚い胸板を覗かせ、髭面から白い唾を飛ばして吠え猛った。
周囲を取り囲むのは、ボロ布をまとった百名の男女。かつて日本の政財界を牛耳っていたエリート遭難者たちは、しかし鬼塚の必死の訴えに眉一つ動かさない。
神楽坂は氷の視線で鬼塚を見下ろし、乾いた唇をわずかに歪めた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「……ただの猫? 議事録の訂正を求めますね、鬼塚先生。このお方は我ら遭難者百名を統べる絶対君主、クロマティ陛下ですよ。だいたいあなたのその減刑法案、まだ陛下の『肉球スタンプ』による決裁が下りていませんよ」
神楽坂が恭しく手のひらを差し向けた先。
巨石の玉座の上で、片耳に古傷のある漆黒の巨大猫が、黄金の瞳を細めていた。六・五キロの堂々たる巨躯。首には漂着物で作られた金の首輪が輝き、人間たちを絶対的強者として見下ろしている。クロマティ陛下は下々の小競り合いなどどこ吹く風で、ピンク色の舌を覗かせて大口を開け、盛大な欠伸を一つこぼした。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「ファ……ニャーン(訳:焼き魚を献上せよ)」
瞬間。神楽坂の全身に電流が走った。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「ははーっ! ありがたき幸せーっ!!」
神楽坂は猫の鳴き声を聞いた反射で誰よりも早く砂浜に膝をつき、広場を埋め尽くす百人のエリートたちも一斉にそれに倣って土下座する。灼熱の砂浜へ額を激しく擦りつけ、大粒の感涙にむせび泣いた。元大臣も、元IT社長も、誰もが皆、獣の気まぐれな鳴き声一つに魂を抜かれた狂信者の顔をしている。
そこへ、砂を蹴立てて割り込む華やかな影があった。
一条 麗華(いちじょう れいか)「おーっほっほっほ! 無能な内閣総理下僕(しもべ)は引っ込んでなさいな! わたくしを誰だと思って? 次期・筆頭下僕大臣ですわよ! 陛下、わたくしが自らサンゴ礁の海へ潜り、一滴の海水も浴びずにモリで突いてまいりました特大の伊勢海老を召し上がれ!」
サバイバル風に大胆なスリットを入れた元・高級ブランドドレスを翻し、プラチナブロンドの縦ロールを揺らして一条麗華(いちじょうれいか)が玉座へと歩み寄る。木の葉の皿の上には、まだ髭がピクピクと動く極上の伊勢海老。
神楽坂の眼鏡の奥で、瞳孔がギュッと収縮した。こめかみに青筋が浮き上がる。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「……抜け駆けは許しませんよ、一条嬢。予算委員会を通さない献上品は無効です。そもそも、陛下の肉球から立ち昇るあの香ばしいポップコーン臭を、この島で最も深く理解し愛でているのは私だ。さあさあ陛下、誠(まこと)が真心込めて炙りました、最高級カツオのタタキでちゅよ〜、あーんしてくだちゃいね〜♥」
前半の冷酷な官僚トーンはどこへやら。スーツの胸ポケットから手作りの猫じゃらしと乾燥マタタビを覗かせたまま、神楽坂は顔面をデロデロに溶かし、極限の猫撫で声で皿を差し出した。プライドの欠片もない。
一条が扇情的な唇を釣り上げ、神楽坂の脇腹に鋭い肘打ちを食らわせる。
一条 麗華(いちじょう れいか)「ちょっと、邪魔ですわよメガネ! 陛下の黄金の瞳に、あなたのその気持ち悪いニヤケ面が映り込むだけで不敬罪ですわ! ……ハクションッ! ぐすっ、これは潮風のせいですわ、断じてアレルギーなんかじゃありませんことよ!」
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「お黙りなさい成金令嬢。涙目で鼻を赤くしながら賄賂工作とは見苦しい。私のタタキの焼き加減は、霞が関の官僚機構が総力を挙げて算出した黄金比ですよ」
いがみ合う二人。だが、玉座の絶対君主は残酷だった。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「……フン」
黒猫は伊勢海老もカツオも一瞥すらしない。プイッと傲慢に顔を背けると、しなやかな筋肉を躍動させ、玉座から音もなく飛び降りた。
トコトコと砂浜を歩く。二人の前を完全に素通りし、向かった先は――縄で縛られた鬼塚の、丸太のような太い足元。
クロマティ陛下は喉をゴロゴロと鳴らしながら、鬼塚の泥だらけのすねに、漆黒の頬をスリスリと甘えるように擦りつけたのだ。
時が止まる。
波の音だけが、やけに大きく響いた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「な……っ!? ば、馬鹿な……! 陛下が、あろうことか反乱分子の汗臭い足に、親愛のマーキングを……!?」
神楽坂の手からカツオの皿が滑り落ち、砂にまみれる。膝がガクガクと震え、呼吸が浅くなる。
一条もまた、伊勢海老を抱えたまま石像のように凍りついていた。
足元で猫にスリスリされた鬼塚は、一瞬「うっ、なんという柔らかさ……」と頬を緩めかけたが、ハッと我に返って自らの太ももを拳で殴りつけ、腹の底から邪悪極まりない高笑いを爆発させた。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「フハハハハハ! 見たか神楽坂! これが民意! これぞ天命よ! たかが獣の心一つ掌握できぬ無能な貴様は、今日この場をもって内閣総辞職、完全失脚であーる!」
第二章: スキャンダルと禁断の密造酒

神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「あぁ……っ、ダメだ、指先の震えが止まらない……! 陛下の、あのぷにぷにとした黒い肉球を吸えないと、私の脳髄がどうにかなってしまう……っ!」
深い闇に包まれたジャングルの洞窟。神楽坂の秘密の研究小屋。
湿った冷たい岩肌に転がり、神楽坂は自身のスーツの袖口をギリギリと噛み締めていた。銀縁眼鏡は斜めにズレ落ち、端正な顔立ちは脂汗と涙でぐしゃぐしゃに濡れている。荒く乱れた呼吸が、狭い岩壁に反響して妙に艶めかしい。
昼間の失態により「玉座への接近禁止令」を食らったエリート官僚の、あまりにも哀れな末路だった。
パチ、と乾いた爆ぜる音。
洞窟の入り口に揺れる松明の炎が、丸まり悶える神楽坂の姿を赤く照らし出す。
一条 麗華(いちじょう れいか)「……見苦しいですわね、天下の内閣官房エリート様? 重度の猫吸い欠乏症で、口元からみっともない涎が糸を引いていますわよ」
松明を掲げた一条が、冷ややかな視線を投げかけながらコツコツと歩み寄ってくる。
神楽坂は袖を噛んだまま、血走った目で彼女を下から睨みつけた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「一条嬢……失脚した政敵を嘲笑いに来たのですか? そういうあなたも、渾身の伊勢海老を塵芥(ちりあくた)のように無視された敗北者でしょうに……っ」
言い返した瞬間、一条の表情がふっと消えた。
彼女の足が止まる。松明の火の粉が舞い落ちる中、一条の白い頬が急速に朱に染まっていく。
一条 麗華(いちじょう れいか)「はぁ……っ、あぁ……♥ 思い出させないでくださる? あの冷酷な黄金の瞳で、わたくしを路傍のゴミを見るように一瞥し、プイッと無視なさるあの瞬間……っ。背筋を氷の刃で撫で上げられるみたいに、ゾクゾクしてたまらないんですの……!」
一条は松明を岩場に立てかけ、自らの豊かなFカップの胸元を押さえながら、白い二の腕を反対の手でギュッと抱きしめた。
そこには、先日クロマティ陛下に無理やり抱きつこうとして見舞われた、痛々しい三本の赤いミミズ腫れがくっきりと残っている。
一条 麗華(いちじょう れいか)「見て、この誇らしき聖痕を……。爪が食い込んだ場所が、今夜も熱を持ってジンジンと疼いて……♥ あぁ、陛下に踏まれたい、もっと蔑まれたい……っ!」
うっとりと瞳を潤ませ、傷跡を指先でなぞりながら熱い吐息を漏らす令嬢。
神楽坂の口から、噛んでいた袖がポロリと外れた。先ほどまでの禁断症状が嘘のように、急速に体温が冷えていく。
……なるほど。冷たい目で見下されながらふみふみされたい私と同類の、いや、方向性がさらにねじ曲がった重度のドM変態というわけですか。
神楽坂は咳払いを一つして立ち上がり、素早く眼鏡の位置を直してスーツの砂を払った。何事もなかったかのように、いつもの冷徹な官僚の仮面を被り直す。
だが、一条もまた一瞬で恍惚の表情を消し去り、鋭い鷹のような目つきに戻っていた。
一条 麗華(いちじょう れいか)「……とにかく! わたくしたちが拒絶されるのは百歩譲ってご褒美として、あの髭面の下品な鬼塚ごときに陛下が懐くなんて、天地がひっくり返っても許せませんわ! 神楽坂、これを見なさい」
一条がドレスの胸元から、葉っぱに包まれた乾燥した草の束を取り出し、神楽坂の鼻先に突きつけた。
独特の、どこか甘く刺激的な青い匂いが鼻腔をくすぐる。神楽坂の目が細められた。
一条 麗華(いちじょう れいか)「先ほど、鬼塚のテントからこっそり盗み出してきましたの。これ、島の中央部にしか自生しない『野生の強力キャットニップ』ですわよ。あいつ、これをズボンの裾にたっぷりと擦り込んでいたんですわ!」
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「なんだと……!? 違法薬物の密輸による、不正な票の買収……! なるほど、道理で気高き陛下の判断が一時的に狂ったわけですね。許せん……断じて許せませんよ!」
神楽坂はギリッと奥歯を鳴らした。そして、不敵に口角を吊り上げる。
彼は洞窟の奥、隠し金庫のように岩で囲まれたスペースへと歩み寄り、焚き火の上でグツグツと怪しく煮立つガラスフラスコを恭しく取り上げた。
中には、ドロリとした琥珀色の液体が妖しい光を放っている。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「フフ……目には目を、違法薬物には『国家機密の密造酒』を。私が睡眠時間を削り、断崖絶壁に咲く固有種から命懸けで抽出した、純度九十九パーセントの幻覚剤『黄金マタタビエキス』です。……一条嬢、ここは過去の派閥争いを水に流し、一時的な連立政権を組みましょうか。政権奪還の暁には、次期・筆頭下僕大臣のポストを約束しますよ?」
一条 麗華(いちじょう れいか)「おーっほっほ! いいですわ、その悪魔の連立、乗ってあげます! 陛下の肉球と引っ掻き爪は、わたくしたちのものですわ!」
二人が固い握手を交わし、狂気の笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。
ズガァァァンッ!!
耳をつんざく轟音と共に、洞窟の入り口を塞いでいた岩壁が木っ端微塵に爆破された。
吹き込む猛烈な爆風と土煙。むせ返る二人の前に、巨大な丸太を肩に担いだ鬼塚と、棍棒を手にした人間主権派のならず者議員たちがドカドカとなだれ込んでくる。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「そこまでだ、薄汚い猫吸い変態ども! 貴様らの稚拙な陰謀など、我が公安委員会にはすべてお見通しであーる!」
丸太を地面にドスンと突き立て、鬼塚が仁王立ちで睨みつける。その声量の風圧だけで、洞窟の天井から小石がバラバラと落ちてきた。
神楽坂は舞い散る砂埃を手で払いながら、一歩も引かずにフラスコを背後に隠した。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「……騒々しいですね、鬼塚議員。こんな夜更けに不法侵入とは。しかし、これでハッキリしましたよ。あなたが昼間叫んでいた『人間主権を取り戻す』というスローガン……あれはやはり、大衆を扇動するための真っ赤な嘘、単なる建前ですね?」
核心を突かれた鬼塚だったが、悪びれるどころか、その凶悪な髭面を気色悪いほどの慈愛に満ちた笑顔へと崩した。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「フッ、当然だ! 我輩が目指すのは、気まぐれで傲慢な猫による独裁の打倒! そして、この島を統べるべき真の支配者の擁立……すなわち、昨日東の浜辺に樽に入って漂着した、この『ポチ皇帝』による神聖犬帝国の建国であーる!!」
鬼塚が分厚い胸板の懐に手を突っ込み、恭しく何かを取り出した。
松明の光に照らし出されたのは――ブルブルと小刻みに震える、手のひらサイズの小さなクリーム色のチワワだった。
うるうると潤んだ大きな黒い瞳。チワワは鬼塚のゴツい親指を、小さな舌でペロペロと懸命に舐め回している。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「見よ、この汚れなき忠実な瞳を! 主人の顔を見れば無条件で尻尾を千切れんばかりに振り、ペロペロと顔を舐め回してくる至高の従順さをォッ! ツンデレなどという不確実な要素は政治には不要! 絶対服従の癒やしこそが正義なのだァッ!」
鬼塚はチワワに自身の髭面をジョリジョリと頬ずりし、顔をベロベロに舐められて恍惚の声を上げる。
そのあまりにも衝撃的な光景に、一条がドレスの裾を握りしめて絶叫した。
一条 麗華(いちじょう れいか)「い、犬派ですって!? あなた、この神聖なる猫の楽園を、汗臭い犬の帝国に塗り替える気ですの!?」
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「犬派の政治家など、無秩序の極み……! なんという恐ろしい思想犯だ! 迎え撃ちますよ一条嬢!」
神楽坂が叫ぶより早く、武装した過激派犬派組織の男たちが一斉に飛びかかってきた。多勢に無勢、二人はあっという間に取り押さえられ、冷たい岩肌にねじ伏せられた。
第三章: 本会議場・黄金マタタビの乱

鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「これより、臨時本会議ならびに公開処刑を開始する! 旧体制の残党、神楽坂誠および一条麗華の両名を、国家反逆罪により『陛下の抜け毛ブラッシング係』および『使用済み猫砂の回収係』から、永久追放とする!」
無数の松明が赤々と燃え盛る、深夜の砂浜・中央議事堂。
波打ち際に引きずり出され、再び後ろ手にきつく縛り上げられた神楽坂と一条の前に、鬼塚が覇者として立ちはだかっていた。
すぐ脇の巨石の玉座では、クロマティ陛下が焚かれた大量の違法キャットニップの煙に包まれ、トロンと目を閉じて熟睡している。完全なる無力化。
その残酷すぎる判決に、一条の顔からサッと血の気が引いた。
一条 麗華(いちじょう れいか)「くっ……! わ、わたくしから陛下の抜け毛コレクションを奪うだなんて……! あの抜け毛を丸めて作った特製フェルトボールを嗅ぐことだけが、今のわたくしの生きがいなのに……っ。殺す気ですわ、これでは生きながらにして死ねと言うようなものですわよ!」
砂浜に膝をつき、一条が本気の絶望に打ち震える。
鬼塚は勝ち誇ったように胸を張り、片手でチワワのポチ皇帝をライオンキングのごとく夜空へ高々と掲げた。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「さあ、目を覚ませ諸君! 呼んでも来ない、撫でれば引っ掻く、気まぐれな黒猫に振り回される暗黒時代は終わった! これからは、呼べば一秒で飛んでくる従順な犬の時代なのだ! さあ、新たなポチ皇帝に忠誠を誓えーっ!」
チワワが夜風に吹かれて「クゥ〜ン」と可愛らしく鳴き、小さな尻尾をプリプリと振る。
そのあまりの健気さ、わかりやすい愛らしさに、松明を囲む百人の遭難者たちの間に、明らかな動揺のざわめきが広がった。
「おい、あれはあれで……めちゃくちゃ可愛いぞ……」「引っ掻かれないって、すごくないか……?」「俺、実家で昔犬を飼ってたんだ……」
信仰が揺らぐ。猫皇国の根幹が、チワワの潤んだ瞳によって根底から覆されようとしていた。
一条が絶望のあまり唇を噛み切るほど強く引き結ぶ。
だが、その隣で。
ずっと俯いていた神楽坂の肩が、ククッ、と小さく震え始めた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「……ふふ。ククク……あーっはっはっは!」
突如として響き渡った高笑いに、鬼塚が眉をひそめて振り返る。
眼鏡がズレ落ちたままの顔を上げた神楽坂。その瞳には、エリート官僚の理性など微塵も残っていない、底なしの狂気と執念の炎が宿っていた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「鬼塚議員……あなた、国会の予算委員会における『強行採決』の恐ろしさを、少しばかり舐めていらっしゃるようですね。官僚という生き物はね、追い詰められた時ほど、最も汚く、最も致命的な奇策を懐に忍ばせているものですよ」
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「なにを負け惜しみを! 貴様のあの怪しい密造酒のフラスコなら、洞窟でとっくに叩き割ってやったわ!」
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「ええ、あれはダミーの予備予算です。……本予算は、最初から私の『ここ』に計上してありますよ!」
神楽坂は獰猛に口角を裂き、ずっと奥歯の裏に隠し持っていた極小の『高濃度・黄金マタタビカプセル』を――ガリッ! と音を立てて力任せに噛み砕いた。
ガラスの破片が口内を切り裂き、血の味と混ざり合って、純度九十九パーセントの黄金マタタビエキスが舌の上で爆発的に気化する。
脳天を直接ハンマーで殴られたような劇薬の衝撃。神楽坂は目を血走らせ、縛られた上半身を限界まで反らすと、玉座の方角へ向かって肺の中の空気をすべて吐き出した!
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「くらえ、内閣官房機密費全額投入ッ! 《黄金マタタビ・アロマブレス》ッ!!」
ブワァッ!!
神楽坂の口から吐き出された濃縮された琥珀色の霧が、湿った夜風に乗って一直線に駆け抜け、玉座で眠る黒猫の鼻腔をダイレクトに直撃した。
一秒の静寂。
次の瞬間。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「……カッ!!」
眠り込んでいたクロマティ陛下の両目が、極限までカッと見開かれた。
黄金の瞳孔が、一瞬にして針のように細く収縮し、そして次の瞬間には黒目いっぱいにまでギンギンに拡大する。
ブワッ、と全身の黒い剛毛がハリネズミのように逆立ち、体格が二倍に膨れ上がったかのように錯覚させた。キャットニップの微温的な眠気など、超高純度のマタタビの暴力の前には一瞬で蒸発していた。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「シャアアアアアアアアッ!!」
ビリビリと大気を震わせる、まさに百獣の王の咆哮。一睨みで百人の遭難者をひれ伏させる覇王色の威圧が、夜の砂浜に炸裂した。
その圧倒的な覇気と殺気の波動を正面から浴びた、鬼塚の手の中のチワワが、「キャンッ!」と短い悲鳴を上げて白目を剥き、そのまま泡を吹いて完全に気絶した。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「な、な、なんだこの化け物じみた威圧感は!? ポ、ポチ皇帝ーっ!? しっかりしろポチ皇帝ーっ!」
鬼塚がパニックに陥った、そのコンマ一秒後。
玉座から黒い影が消えた。
いいや、速すぎて人間の動体視力が追いつかなかっただけだ。
クロマティ陛下は文字通りの『黒い稲妻』となって夜空を跳躍し、鬼塚の無防備な髭面のど真ん中に着地するや否や――目にも止まらぬ超高速の連続猫パンチを、嵐のように叩き込んだ!
パシパシパシパシパシパシパシッ!!
重く鋭い打撃音が機関銃のように鳴り響き、鋭利な鉤爪が鬼塚の顔を容赦なく耕していく。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「グアアアアアッ!? か、顔が! 次の選挙ポスターに使う予定だった、我が政治生命の顔面がァァッ! やめ、おやめくだされ陛下ァァッ!」
血しぶきと涙を撒き散らしながら、巨漢の鬼塚が砂浜へ仰向けにぶっ倒れ、ピクピクと痙攣する。
一撃で反乱軍の首領を葬り去ったクロマティ陛下は、鬼塚の腹の上を踏み台にして、ゆらりと砂浜に降り立った。
口元からは白い泡をわずかに覗かせ、黄金の瞳は完全に焦点が合っていない。極度の興奮状態。
そのギラついた狂気の双眸が、ゆっくりと――マタタビの発生源である、神楽坂の口元へと向けられた。
一条が縛られたまま、文字通り顔を真っ青にして叫ぶ。
一条 麗華(いちじょう れいか)「か、神楽坂! ちょっと、マタタビが効きすぎて、陛下が完全に暴走状態に入っていますわよ! あの目、完全に人間を八つ裂きにする野生のヒョウの目ですわ!」
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「グルルルル……ッ、ニャアアアアッ!!」
低い唸り声。砂を蹴る後ろ足に、恐るべき筋力が溜め込まれる。
そして、牙を剥き出しにした六・五キロの黒い弾丸が、身動きの取れない神楽坂の喉元めがけて、真っ直ぐに飛びかかった!
誰もが神楽坂の死を確信した、その絶体絶命の瞬間。
神楽坂は首を振って銀縁眼鏡を放り投げ、自らの『最も無防備な部位』――剥き出しの頸動脈と胸元を、ためらいなく暴君の牙の前へと差し出したのだ!
第四章: 独裁者のゴロゴロ音
迫り来る漆黒の牙。死の咆哮。
だが、無防備な喉元を晒した神楽坂の脳内は、かつてないほどに澄み渡り、冷徹な計算を完了させていた。
……暴走? 結構じゃないですか。自らの急所を餌にして懐へ誘い込み、荒ぶる内閣の支持率をゼロ距離でねじ伏せてこそ、真の総理下僕(しもべ)! 私の政権は、絶対に総辞職などしませんよ!
神楽坂は喉元に食らいつこうと迫った黒猫の至近距離で咄嗟に体をひねり、背後の尖った岩の角へ、手首を縛る荒縄を渾身の力で叩きつけた。
ブチッ! と麻縄が千切れ飛ぶ。皮膚が擦り切れ、鮮血が飛び散るが、痛みなど脳が認識しない。
解放された神楽坂の両手が、閃光のごとく宙を舞った!
右手の五指を、飛びかかってきたクロマティ陛下の顎の下へと滑るように潜り込ませる。同時に、左手を回転させて、黒猫のピンと立った尻尾の付け根――最大の弱点である仙骨の真上を、ミリ単位の狂いもなく正確に捉えた。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「これぞ霞が関仕込み! 一日一万枚の公文書を処理する超高速の指さばき・《極楽・尻尾の付け根トントン&顎下タッピング》の複合技ッ!!」
シュバババババババッ!!
残像が見えるほどの超絶技巧。神楽坂の鍛え抜かれたエリート官僚の指先が、左手で尻尾の付け根をリズミカルにトントンと叩きながら、右手で顎下の柔らかい毛並みを絶妙な圧力でカリカリとタッピングする!
それは、どれほど凶暴化した猫であっても絶対に抗えない、威厳をゼロにする快楽の強制スイッチ。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「ニャッ……!? にゃ、にゃあぁん……っ(訳:そこは反則であるぞ……)♥ ゴロゴロゴロゴロ……」
空中で、黒猫の全身から殺気が霧散した。
ピンと張り詰めていた筋肉が、まるで熱したバターのようにドロリと弛緩する。黄金の瞳がトロンと細まり、剥き出しだった牙が引っ込んで、ピンク色の舌がだらしなくペロリと出た。
ドサリ。
腰を抜かした六・五キロの巨体が、砂浜に座り込んだ神楽坂の膝の上へと無防備に落下する。そのままゴロンと転がって、真っ黒でフサフサの腹毛を夜空へ向けて完全に晒け出し、とろけ切った。
伝説の『ヘソ天』。絶対君主が、完全に理性を溶かして降伏した瞬間だった。
神楽坂の呼吸が止まる。♥ドクン、と心臓が耳元で大きく跳ねた。[/Heart]
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「……っ、今です! 国家予算のすべてを、この一瞬に執行します! すぅぅぅーーーーーっ!! これです、このお日様と獣が混ざった至高の香りィィ!!」
神楽坂はその隙を見逃さず、ヘソ天になった黒猫の温かい腹に顔を埋め、限界突破の猫吸いを敢行した。
鼻腔をくすぐる極上の毛並みと、ぷにぷにの肉球から漂う香ばしいポップコーンの匂い。顔全体に伝わる、ゴロゴロという重低音の振動。神楽坂は肺が破れるほどに深く息を吸い込み、禁断症状から解放された歓喜に全身を痙攣させた。
やがて東の空が白み始め、昇り始めた黄金色の朝日が、玉座の前で黒猫を抱く神楽坂の姿を神々しく照らし出していく。
そのあまりにも神聖で、あまりにも変態的な光景に、周囲の遭難者たちから感嘆の溜息が漏れた。
一条が縄を振り解き、ドレスの裾を乱して四つん這いで這い寄ってくる。
一条 麗華(いちじょう れいか)「あぁん、ずるいですわ神楽坂! 独り占めは憲法違反ですわよ! わたくしにも吸わせなさい! いいえ、その無防備な後ろ足の爪で、わたくしの顔を思いっきり引っ掻いてちょうだい!」
さらには、顔面を引っ掻き傷だらけにした鬼塚までもが、目を覚ましたチワワを懐にしまい込み、ボロボロと涙を流しながら神楽坂の膝元へとひれ伏した。
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「な、なんというモフモフ……! あれほど凶暴だった猛獣が、一瞬にしてただの甘えん坊の毛玉に変わるとは……っ。犬のストレートな従順さには決して出せない、この高低差ありすぎのツンデレの極致……! くっ、悔しいが……我輩も改心した! その神々しいお腹を一度でいいから撫で回したい……っ!」
鬼塚の太い指が、恐る恐る黒猫の肉球に触れる。ぷにっ。その瞬間、鬼塚の全身に雷が落ち、彼は砂浜に突っ伏して号泣した。人間主権派リーダーの、完全なる改宗である。
島全体が、一匹の黒猫を中心に、かつてない絶対的な融和と多幸感に包まれていた。
――まさに、その時だった。
ボウッ、ボオオオオオッ!!
重々しい汽笛の音が、穏やかな朝の海を切り裂いた。
ハッとして全員が水平線を見る。朝日に輝く海の向こうから、海上保安庁の大型巡視船が白波を蹴立てて接近してくるではないか。
船体に備え付けられたスピーカーから、ノイズ混じりの大音量が砂浜へと響き渡る。
『おーい! 救助に来たぞー! 遭難した豪華客船の生存者を発見した! 全員無事か! 今すぐ救助ボートを送る、その場で待機せよ!』
助かった。文明社会への帰還。
百人の遭難者たちがパッと顔を輝かせ、歓声を上げて手を振りかけた――その瞬間。
黒猫の腹から顔を上げた神楽坂と、その隣の一条が、ピタリと動きを止めた。
二人はゆっくりと顔を見合わせる。
神楽坂の口元に、氷のように冷酷で、そしてどこまでも狂気に満ちた笑みが浮かんだ。一条も、まったく同じ傲岸不遜な笑みを浮かべていた。
……日本に帰る? あの愚かな人間たちの権力闘争と、満員電車と、ペット飼育不可の高級マンションが待つ、あの灰色の地獄へ? 真の支配者である陛下の玉座を捨てて?
神楽坂は、膝の上でまだ「ゴロゴロ……」と幸せそうに喉を鳴らすクロマティ陛下を片腕で恭しく抱き上げると、足元に転がっていた漂着物のメガホンを拾い上げた。一条も横からそのメガホンに手を添える。
二人は救助船に向かってメガホンを構え、息を合わせて絶叫した。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「内閣総理下僕の名において通達する! 我が国は鎖国中だ、直ちに引き返せ!!」
一条 麗華(いちじょう れいか)「そうですわ! 日本に帰れば、陛下はただの『保護猫』として扱われてしまいますもの! わたくしたちから至高のツンデレを奪う気!? 引き返しなさい、この無礼者ーっ!!」
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「そうだそうだーっ! 税金も選挙もない、ただ猫と犬を愛でるだけのこの楽園を、誰が手放すものかァッ! 帰れ! 帰れーっ!!」
三人のリーダーの魂の咆哮に、百人の元エリートたちが一斉に「ハッ!」と我に返った。
そうだ、帰ればまた、胃に穴が空くようなストレス社会。ここにいれば、毎日魚を獲って、クロマティ陛下の肉球スタンプを順番に拝むだけの、究極の猫絶対君主制ライフ。
迷う理由など、一ミリもなかった。
百人の遭難者たちは一斉に手作りのモリや丸太を構え、救助船に向かって「ウオオオオオッ!」「鎖国だ! 帰れーっ!」と蛮族さながらの威嚇の雄叫びを張り上げた。
海上保安庁の大型船が、あまりの狂気的な光景にピタリと停止する。やがて『……えー、生存者は全員、重度の集団ヒステリー状態にある模様。一旦撤退し、専門医を要請する』という困惑しきった無線音声を残し、白い巨船はゆっくりとUターンして水平線の彼方へと去っていった。
文明との完全なる決別。猫に支配された狂人たちの楽園は、こうして守られたのだ。
静けさを取り戻した砂浜で、神楽坂の腕の中に抱かれたクロマティ陛下が、朝日を浴びて黄金の瞳を細め、威厳たっぷりに鳴いた。
クロマティ陛下(くろまてぃへいか)「ニャー(訳:腹が減った)」
神楽坂の冷酷な官僚の顔が、一瞬にしてデロデロの赤ちゃん言葉へと崩壊する。
神楽坂 誠(かぐらざか まこと)「はっ! ただいま、朝食の特上焼きハタと伊勢海老のお造りをご用意いたしますでちゅよ〜! 一条大臣、鬼塚議員、ならびに下僕総員! 陛下の朝ごはんのため、直ちに漁へ出撃せよ!」
一条 麗華(いちじょう れいか)「おーっほっほ! 一番巨大なハタを突いて、陛下に踏んでいただきますわよーっ!」
鬼塚 権蔵(おにづか ごんぞう)「イエッサー、マイ・エンペラー!!」
破れた高級スーツとドレスを潮風になびかせ、百人の下僕たちは過去最高の歓喜の雄叫びを上げると、朝日がキラキラと輝く大海原へと、一斉に水しぶきを上げて飛び込んでいった。
― 完 ―