第一章: 落魄の儀と千回目の落下
湿り気を帯びた地下迷宮の冷気が、肺腑の奥を容赦なく凍らせていく。
ガルシア・ヴォルケ「ひゃはは! 感謝しろよレオン! 役立たずの雑魚が、最深部の扉を開くための生贄になれるんだからなぁ!」
鉄臭い唾液の飛沫が頬をかすめる。擦り切れた灰色のローブを砂埃で汚し、色を失った白銀の髪を小刻みに揺らしながら、男は濁りのない右の青い瞳をわずかに細めた。
レオン・アルスノヴァ「……ガルシア、その台詞はもう千二百回目だ。少しは語彙を増やしたらどうだ?」
ガルシア・ヴォルケ「あぁ!? 死に損ないが生意気な口を――!」
乾いた喉から絞り出す嘲笑に、巨漢の全身から立ち上る怒気が跳ね上がる。その荒い息遣いを押しとどめるように、白金の聖導師ローブを纏った娘が前へ出た。揺れるのは琥珀色の豊かな波打つ髪。氷の刃を研ぎ澄ましたようなアーモンド形の碧眼が、冷酷な光を帯びて射抜いてくる。
ミラ・ロズウェル「やめなさい、ガルシア卿。無駄口を利く必要はありません。レオン、貴方の浅薄な知恵はここまでよ。私たちは帝国へ秘宝を持ち帰る。貴方はここで、永久の礎となりなさい」
抑揚のない声音。完璧な氷の聖女の仮面。だが、その白く透き通る指先は、胸元の布地を痛いほどに引き絞っていた。布越しに浮かび上がる硬い輪郭。
レオン・アルスノヴァ「ミラ。お前は本当に綺麗な顔で嘘をつくな。胸元のロケット……俺が十歳の時に贈った護符をまだ握りしめながら、よくそんな目で俺を見下せる」
ミラ・ロズウェル「っ……!? な、何を馬鹿なことを……!」
陶器の肌が一瞬で血の気を失い、微かに開かれた唇から熱い呼気が漏れ出た。動揺を隠すように奥歯を噛みしめる彼女の喉仏が、小さく上下した。
ガルシア・ヴォルケ「ごちゃごちゃぬかすな! 落ちろッ、出来損ないの賢者がァ!」
業を煮やした重装甲冑の男が、石畳を踏み砕いて間合いを詰める。鉄の爪痕が深く刻まれた醜悪な顔面を狂喜に歪ませていた。
ドッと鈍い破裂音が洞窟に反響する。
重厚な軍靴が乾いた胸骨を叩き割り、肺に残っていた空気が一気に吐き出された。浮遊感。足裏から床の感触が消え失せ、身体が無慈悲な暗黒の奈落へと放り出される。
ミラ・ロズウェル「レオン――ッ!」
伸ばされた白い手。届かない指先。張り裂けんばかりの絶叫が遠ざかっていく。
レオン・アルスノヴァ「泣くなよ、ミラ。お前が俺を突き落としたのは、これで千三回目だ。そして……俺が奈落の底で世界の秒針を巻き戻すのも、これが最後だ」
落下気流が頬を切り裂く闇の中、歪な笑みが口元に浮かんだ。
石化と巻き戻りの侵食に耐え抜いてきた左の義眼が、秒針の幾何学模様を浮かべて爆ぜる。
黄金の魔力が網膜を焼き、脳髄に針を刺すような激痛が突き抜けた。
《クロノス・カタストロフ》
カチリ、と硬質な金属音が世界を停止させた。硝子のように空間が砕け散り、奈落の闇が天地を逆転させて逆流する。
第二章: 秒読みの解体者

微かな耳鳴りと共に瞼を開くと、青い燐光を放つ苔の回廊が視界を埋めていた。
鼻腔をくすぐる湿った土と黴の匂い。五分前の過去。胸骨の痛みだけが、幻肢痛のように鈍く神経を苛んでいる。
ガルシア・ヴォルケ「おいおい賢者様よぉ、さっきから黙りこくってどうした? 怖気づいて足が震えてんのか?」
下卑た笑い声が背後から響く。千二百回聞いた、反吐が出るほど聞き飽きた愚者の煽り。
レオン・アルスノヴァ「ガルシア、右足を引け。あと三秒で天井の崩落石がお前の右肩を抉る」
ガルシア・ヴォルケ「はぁ!? 何を寝言――」
轟音と共に頭上から落ちた巨石が、甲冑ごと右肩をぐしゃりと押し潰す。
飛び散る生血。砕けた鉄板が肉に食い込み、肉片が苔の壁を汚す。
ガルシア・ヴォルケ「ぐわぁぁっ!? な、なんでだ!? てめぇ、何をしたァ!」
転がり回り、鮮血を撒き散らす肉塊を一瞥もせず、冷徹な視線を背後の聖女へと据える。
レオン・アルスノヴァ「言ったはずだ、三秒後だと。次は――ミラ、お前が隠し持っている短剣の投擲だ。俺の左足を狙っているな?」
ミラ・ロズウェル「っ……!? なんで……貴方、どうして私の手を……!」
聖導師ローブの広い袖口から滑り落ちかけた銀の刃が、硬い床に当たって甲高い音を立てた。ミラの琥珀色の髪が激しく揺れ、血色の失せた唇が小刻みに痙攣する。
レオン・アルスノヴァ「思考じゃない。歴史だ。お前は千回以上、全く同じ呼吸で同じ軌道に短剣を放ってきた。ガルシアが喚き、俺が気を取られた隙に足を奪う。生贄の穴に落ちても不可抗力の事故として処理するためにな」
すべては記録された事実。狂おしいほどの繰り返しの中で刻みつけられた、冷厳な真実の切断。
ミラ・ロズウェル「ち、違う……私は、私は貴方を殺したいわけじゃ……!」
ガルシア・ヴォルケ「化け物めが! 死ねぇぇっ!」
血塗れのガルシアが片腕で大剣を引き抜き、狂乱の叫びと共に地を蹴った。
レオン・アルスノヴァ「大振りすぎる。左膝の古傷、三度目の踏み込みで軸がブレるぞ」
紙一重。半歩身を引いて切っ先をかわし、床板のわずかな継ぎ目を爪先で正確に叩く。カチリと外れた罠の信管。
跳ね上がった石弓の太い鉄杭が、騎士の両膝を容赦なく貫通した。
腱を断ち切られた巨体が、前のめりに石畳へと叩きつけられる。
ガルシア・ヴォルケ「ぎゃああああっ! 俺の足が……俺の足がァァッ!」
のたうち回る男の頭を踏み越え、静かに聖女の元へと歩を進める。
レオン・アルスノヴァ「これでお前はもう走れない。さあミラ、二人きりだ。話の続きをしよう」
第三章: 愛という名の呪縛石

宙に浮かぶ無数の巨大な砂時計が、静まり返った蒼天の間で青白い砂をさらさらと零し続ける。時間の墓場。外界から切り離された絶対の静寂が、二人の吐息だけを際立たせる。
ミラ・ロズウェル「来ないで……! 貴方のその冷たい目……私の知っているレオンじゃない!」
後ずさる足が祭壇の縁に当たり、逃げ場を失った彼女の背中が壁に張り付く。肩が細かく波打ち、乱れた胸元から激しい鼓動が伝わってくる。
レオン・アルスノヴァ「俺をこんな風にしたのは誰だ? 千回、お前の手で奈落に落とされた男の目が、温かいはずがないだろう」
ミラ・ロズウェル「……知ってたのね。私が貴方を追放しようとした理由を」
視線を彷徨わせ、震える両手で自身の肩を抱きしめる少女。その脆弱な仕草の裏にある毒を、容赦なく暴き立てる。
レオン・アルスノヴァ「神託の予言だろう。『レオン・アルスノヴァは遺跡の最奥で世界を壊す怪物へ変貌する』。だからお前は俺を死なせないため、生贄として時間の止まる穴に閉じ込めようとした」
ミラ・ロズウェル「そうよ! 帝国の奴らに殺されるくらいなら、私の手で……永久に眠らせてあげたかった! 誰も貴方を傷つけない、私だけの檻に閉じ込めておきたかったのよ!」
叫びと共に仮面が剥がれ落ちる。剥き出しになったのは、爛れた独占欲と狂気じみた情念。濡れた碧眼が獲物を捕らえる蛇のように細まり、荒い息が白く濁る。
レオン・アルスノヴァ「だが奈落にあったのは停止ではなく巻き戻しだった。俺はお前を助けるために千回死に、お前は俺を守るために千回俺を裏切った。喜劇だな」
ミラ・ロズウェル「お願い、私を殺して! もう貴方にそんな顔をさせたくない……私を殺して、この悪夢を終わらせて!」
身を投げ出すようにすがりついてくる身体を拒絶せず、震える白い項へ無骨な指を滑り込ませる。胸元の黒鉄のロケットごと、細い喉元をギリギリと力任せに引き寄せた。
ドク、ドク、と狂い咲くように脈打つ熱い皮膚の感触が、掌に直接伝わる。
気管を圧迫され、酸素を求める彼女の唇が艶やかに開かれた。瞳の奥底で快楽と絶望が入り混じり、細い腰が震えを帯びて弓なりにしなる。
ミラ・ロズウェル「あ……っ、レオン……苦しい……でも、もっと……貴方の手で……壊して……」
耳元に吹きかかる吐息は甘く、毒のように熱い。爪が灰色のローブに深く食い込み、男の体温を貪るように引き寄せてくる。
レオン・アルスノヴァ「断る。お前を殺せば千回の死が無意味になる。お前が望んだんだろう、俺と永遠にここにいることを」
指の力を緩めず、冷徹な青い瞳でその歪んだ恍惚を見下ろす。逃げ場などどこにも与えない。
ミラ・ロズウェル「何を、する気なの……?」
首を絞められたまま、潤んだ瞳で掠れた声を絞り出すミラ。その額に、左の義眼を突きつけた。
レオン・アルスノヴァ「遺跡の核を砕く。時間の縛りを解くと同時に、この空間を埋め立てる」
義眼の奥で歯車が逆回転を始める。血管が千切れるような圧力が頭蓋を内側から叩きつけた。
左目の幾何学紋様から金色の魔力が溢れ出し、天蓋を満たす無数の歯車が甲高い悲鳴を上げて砕け散った。
天井が割れ、光が雪崩れ込む。崩壊の轟音が、千回の牢獄を完全に押し流していく。
第四章: 砂時計が砕ける音
熱風が砂丘の鋭い峰を容赦なく削り取っていく。視界一面を覆い尽くす赤黒い夕景。巨大な落日が地平線を血のように染め抜いていた。
ミラ・ロズウェル「……嘘。私たち、外に……出られたの?」
吹き荒れる砂埃に顔を覆いながら、膝をつくミラ。そのローブは無残に裂け、神聖さを失ったただの布切れと化している。
レオン・アルスノヴァ「ああ。ループは終わった。ガルシアも帝国軍も、瓦礫の下で永遠に眠っている。お前を縛る神託も、奈落ももうない」
立ち込める土煙の向こうで、遺跡の入り口は完全に塞がれていた。二度と開くことのない石の墓標。
ミラ・ロズウェル「でも……貴方の左目……」
立ち上がった彼女の震える指先が、男の左頬へと触れそうになり、躊躇いがちに宙で止まる。
幾何学の秒針を失った金の義眼は、光を吸い込むだけの濁った硝子玉となって動かない。二度と、時間を巻き戻す奇跡を起こすことはない。
レオン・アルスノヴァ「もう巻き戻せない。……痛むか? 俺が首を絞めた痕」
問われたミラは、首筋に残る鮮烈な赤紫の指痕をそっと自らの指で撫でた。痛みを慈しむように、艶やかな唇を微かに綻ばせる。背筋を駆け抜ける悪寒に似た熱を噛み締めながら、熱っぽい視線を男へと絡め取る。
ミラ・ロズウェル「ううん……温かいわ。これが、現実なのね」
レオン・アルスノヴァ「俺はお前を許さない。千回裏切られた記憶は消えない。一生、お前を憎み続ける」
それは宣告であり、絶対の縛り首。だが、その呪詛を耳にした聖女の顔には、この世の誰よりも歪で幸福な笑みが咲き誇っていた。
ミラ・ロズウェル「ええ。それでいい……ううん、それがいいわ。憎んで、一生私を監視して。私の罪を、貴方のその壊れた目でずっと見つめ続けて」
吐息の近さに肌が粟立つ。お互いの狂気と執着を分け合い、決して救われない奈落を地上へと引きずり出した共犯者たち。
レオン・アルスノヴァ「悪趣味な聖女だな」
冷たく言い放ちながらも、その視線は決して逸らさない。
ミラ・ロズウェル「貴方こそ。最悪で、世界で一番大好きな賢者様よ」
差し出された砂塗れの右手を、細い指先が痛いほどの力で絡め取り、二度と離さないとばかりに強く爪を立てる。血が滲むほどの抱擁。
レオン・アルスノヴァ「行くぞ。夕日が沈む。次の三分後に何が起きるか、俺にはもう分からない」
未知の恐怖。予見できない暗闇。だが、男の唇には嘲笑ではない、微かな生の実感が宿っていた。
ミラ・ロズウェル「ふふ……ええ。私と一緒に、初めての明日を見に行きましょう」
乾いた砂嵐が二人の足跡を瞬く間に均し、どこまでも続く黄昏の砂海へと、寄り添う二つの黒い影が静かに溶け込んでいった。