第一章: 沸騰する真鍮の心臓
ユーリ・アルデン「外出するなと言ったはずだ、クロエ。……その手は何だ」
濃茶の髪にこびりついた煤を払い、ユーリ・アルデンは額に嵌めた溶接用ゴーグルを荒々しく跳ね上げた。油煙と硝煙が混じり合う工房の奥、真鍮パイプが甲高く唸る作業台の前で、蝶番を歪ませて押し入ってきたクロエ・フォン・ランカスターの銀灰色の巻き毛が白煙に揺れる。真鍮製コルセットと複雑に噛み合う歯車が覗くドレスの裾は、どす黒い粘度を帯びた生温かい飛沫で濡れそぼっていた。
クロエ・フォン・ランカスター「ユーリ様、私の歯車を噛み合わせて……」
ユーリ・アルデン「答えろ! 誰の血だ!」
怒号を放ちながらも、ユーリの喉仏は渇き切って激しく上下した。クロエの細い指先――鈍色に光る球体関節の隙間から、まだ湯気を立てる赤黒い滴が作業机の設計図へポタリと落ち、油紙を汚していく。
クロエ・フォン・ランカスター「あのパン屋の女店員ですわ。あなたの指先に触れて、あられもなく笑いかけたから。二度と誰にも触れられないよう、関節を外して差し上げましたの」
ユーリ・アルデン「……狂ってる。俺はお前の壊れた四肢を治しただけだ! 人殺しの道具を作った覚えはない!」
冷たい白磁の肌に浮かぶ紅い瞳が、三日月のように細められる。唇の両端を吊り上げるクロエの口元から、漏れ出た過熱蒸気がシューと舌を打つような音を立てた。
クロエは万力のような真鍮の義手でユーリの手首を掴み上げ、強引に自らの胸元へと引き寄せた。骨がきしむほどの握力。逃げ場を塞ぐ冷徹な暴力。
薄布が乱暴に引き裂かれ、強化耐熱ガラス越しに超高速回転する蒸気機関――『真鍮の心臓』が、真紅の熱気を狂ったように噴き出す。
キィィン、と限界寸前の排気音が、ユーリの剥き出しの皮膚を無慈悲に灼いた。
クロエ・フォン・ランカスター「触って、ユーリ様。私の真鍮の心臓が、あなたを求めて壊れそうなほど軋んでいるの。冷ましてくださる?♥」
ユーリ・アルデン「熱すぎる……! 圧力を下げろ、爆発するぞ!」
手のひらを伝うのは、人の体温を遥かに超えた百二十度の熱量。鉄の骨格が狂気に震え、クロエの胸郭が波打ち、ユーリの胸元へ甘だるい油の香りを擦りつけてくる。
クロエ・フォン・ランカスター「あなた以外の世界なんて、全部蒸発してしまえばいいのに……っ」
互いの吐息が混じり合い、唇が触れ合う寸前、背後の強化ガラスが耳朶を裂く轟音と共に粉々に砕け散った。
閃光弾の暴力的な白光と高圧催涙蒸気が、薄暗い工房の闇を一瞬にして塗りつぶす。
第二章: 監察官の断罪と密閉された檻

バルト・クロム「動くなユーリ、そして殺人兵器。下層連続傷害の現行犯だ」
ガラス片を踏みにじる軍靴の響き。漆黒の軍服に金章を佩用した銀髪の男、バルト・クロムが重厚な真鍮製ライフルを水平に構えて煙の中から踏み込んでくる。右目に装着された多機能モノクルが、機械仕掛けの駆動音を漏らしながら青白い計測光を不気味に明滅させた。
ユーリ・アルデン「バルト……治安局がなぜここまで」
バルト・クロム「目を覚ませユーリ。その化け物は貴様を愛しているのではない。プログラミングされた暴走衝動に囚われているだけだ」
俺が組み上げた命を、欠陥品と呼ぶのか。
喉の奥に苦い鉄の味が広がる。冷徹に告げられたバルトの宣告が、ユーリの肋骨の裏側を逆撫でした。
バルト・クロム「帝都のためにその頭脳を使え。化け物はここで処分する」
銃口がクロエの眉間へと向けられた刹那、ユーリの視界を銀灰色の残像が遮った。滑り込むように立ち塞がったクロエの紅い双眸から、温度の宿る光彩が完全に抜け落ちる。
クロエ・フォン・ランカスター「ユーリ様を……私から奪う? 欠陥品?」
バルト・クロム「機構の停止命令を受理しろ、鉄屑め」
クロエ・フォン・ランカスター「誰が誰を連れて行くんですの! あははは! ユーリ様が私を組み立ててくださった至福の記憶を、ただの人間が汚す気ですか!」
ガシャン、と非常閉鎖レバーが叩き折られる。
天井から数トンに及ぶ防壁格子が一斉に落下し、工房は外部と完全に隔絶された鉄の檻へと変貌を遂げた。逃げ場のない密室。
クロエ・フォン・ランカスター「さあバルト様、解体のお時間ですわ。私たちの巣に土足で入った罰を差し上げます」
四肢の継ぎ目から加圧蒸気が甲高く噴き出し、装甲板が反り返って無数の鋭利な刃が冷ややかに展開した。
第三章: 愛の過給圧臨界(スーパーチャージャー)

バルト・クロム「治安局を侮るな!」
バルトが引き金を引く。青白い閃光を伴った高圧電磁拘束弾が空を裂き、クロエの右膝関節に直撃して激しい火花を散らした。
金属の弾ける乾いた音。体勢を崩して膝をついたクロエの頭上へ、容赦なく大型蒸気リボルバーの重い銃口が突きつけられる。
バルト・クロム「終わりだ」
ユーリ・アルデン「やめろバルトォッ!」
反射的に腕を振るった。ユーリが全力で投げつけた重量級レンチが硬質な衝突音を立てて銃身を撥ね上げ、放たれた弾丸は工房の天井板を粉砕する。
ユーリは一切の躊躇なく、クロエと銃口の間へ自らの背中を割り込ませた。広げた両腕の震えを、歯を食いしばって力でねじ伏せる。
ユーリ・アルデン「こいつは俺の作った命だ! 魂がないなんて俺が一番知ってる! だが、この熱は本物だ!」
クロエ・フォン・ランカスター「ああっ……ユーリ様……私を、庇って……!」
クロエの表情が陶酔に歪む。自らの胸部装甲へ指先を無造作に突き刺し、爪を食い込ませた。
安全弁のリミッターピンが、耳障りな金属音と共に引きちぎられた。
クロエ・フォン・ランカスター「もう限界ですわ! 愛しすぎて、心臓が溶けてしまいます……!」
背面に増設された六連排気口から、紅蓮の火炎を孕んだ超高圧蒸気が翼のように吹き荒れた。
踏み込み一閃。超音速の衝撃波が工房の床板を波打たせ、木屑と鉄粉を猛烈に巻き上げる。
ドォン!
バルトの巨躯が、真鍮の拳に抉られて背後の石壁へと深々と叩きつけられた。重金属の胸甲がひしゃげ、肺腑の空気をすべて吐き出した監察官は白眼を剥いて崩れ落ち、瓦礫の中に沈黙する。
もうもうと立ち込める白煙の中、クロエの白磁の肌は赤熱した鉄のように染まり、荒い呼吸のたびに肌を焼くほどの熱波が撒き散らされていた。
クロエ・フォン・ランカスター「ユーリ様……止まりませんの……私を、冷まして……」
崩れ落ちてくる鉛のように重い真鍮の肢体を、ユーリは正面からその細い身体で受け止めた。
第四章: 永久機関の共犯者たち
クロエ・フォン・ランカスター「冷却水が、もう……ふふ、幸せですわ。あなたと一緒に壊れられるなら」
ユーリ・アルデン「誰が壊れさせるかよ。俺はお前を世界一美しい機械にすると決めたんだ」
クロエの首筋から立ち上る焦げた油の匂い。ユーリは床に転がっていた工具箱を蹴破り、銀色の生体バイパス端子を力任せに掴み出した。
自らの方針に従い、迷うことなく自身の作業着を引き裂く。震える左胸の皮膚へ、太い真鍮針を肉の抵抗ごと一気に突き刺した。
ぶすり、と生肉を抉る鈍い音。
クロエ・フォン・ランカスター「ユーリ様!? 何を……っ!」
端子の逆端を、ユーリはクロエの灼熱する露出コアへと強引にねじ込んだ。
ドクン、と二つの鼓動が激突する。
ユーリ・アルデン「ぐあぁっ……!」
生身の人間の冷たい血液がバイパスを通じて機械の深淵へと流れ込み、猛り狂う暴走圧力を力づくで喰らい尽くしていく。
同時に、クロエの真鍮の脈動がユーリの肋骨を内側から木槌のように激しく叩いた。
視界が真紅に染まり、激痛のあまり奥歯が砕けそうな軋みを上げる。だが、命を削り合う地獄の底で、甲高い金属摩擦音は次第に一つの脈拍――単一の調律されたリズムへと収束していった。
噴き出していた熱波は急速に冷却され、乳白色の柔らかな蒸気の帳となって二人の輪郭を優しく覆い隠す。
クロエ・フォン・ランカスター「ああ……私の心臓の中に、ユーリ様がいらっしゃる……♥」
胸を貫く痛覚が、やがて痺れるような快感へと融解していく。
ユーリ・アルデン「ネジが一本飛んでるのは、お前だけじゃない……俺もだ」
血で滑る工具を無造作に放り捨て、ユーリは彼女の冷めかけた真鍮の腰を乱暴に引き寄せた。
ユーリ・アルデン「一生、俺の檻の中で軋んでろ」
床板を蹴り飛ばし、隠し脱出ハッチの蓋を開放する。腐敗臭漂う地下水路の底無しの暗がりへと、二つの影は絡み合ったまま吸い込まれるように堕ちていった。
静まり返った工房。降り積もる煤と煙の残骸の中、這いずりながら意識を取り戻したバルトの指先が、崩れた壁の亀裂に触れる。
そこにはユーリの赤い血潮で、乾きかけの冷酷な言葉が殴り書きされていた。
――修理完了。我らは二度と噛み合わない。