第一章: 42回目の墜落と、蒸発する聖地
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ハル君、私の名前、忘れないでねっ!」
轟音。
頭上から崩落した巨大照明トラスが、ステージ中央の星野スピカを容赦なく押し潰した。
錆びた鉄骨とネオンブルーのフリル衣装が無惨に絡み合い、生温かい血飛沫が僕の顔面にピシャリと降りかかる。
鉄と肉の潰れる鈍い音。
息が止まる。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「あ、ああああああっ!!」
目の下に深い隈を刻んだ色白の顔をくしゃくしゃに歪め、僕は両手首に括り付けた数十本のサイリウムを力任せにへし折った。
パキ、パキパキッ!
プラスチックの割れる乾いた音が響き、ヨレヨレの黒パーカーの上に羽織った公式法被が、漏れ出た化学発光液と彼女の返り血でドロドロに濡れていく。
《量子タイムリープ》
41回目の死が確定した瞬間、視界が暴力的に裏返り、鼓膜を逆再生のノイズが突き刺した。
胃袋が喉元までせり上がる強烈な吐き気。
白い閃光が弾け、火薬とスモークの焦げ臭い匂いが跡形もなく消え失せる。
気がつくと、僕は開演15分前の薄暗いロビーに立っていた。
湿ったコンクリートの匂いと、開演を待つ観客たちのざわめきが鼓膜を揺らす。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「はっ、はあっ、はあっ……! レン! 照明のワイヤーが金属疲労で切れる! 今すぐスタッフを止めて……」
寝癖でボサボサの黒髪マッシュを振り乱し、僕は隣に立つ親友の肩を爪が食い込むほど強く鷲掴みにした。
肺が酸素を求めて激しく痙攣し、言葉がうまく繋がらない。
金髪にピアス、ダメージジーンズを着こなす橘レンは、首から下げた高級一眼レフカメラを揺らして露骨に眉をひそめた。
橘 レン(たちばな れん)「あ? ハル、お前何言ってんの? てか、そのダサい青の法被なに? コスプレ?」
レンは心底気味悪そうに、僕の手をバシッと払いのけた。
汚い虫でも見るような冷たい視線。
橘 レン(たちばな れん)「星野スピカ』……? 誰だよそれ。俺らが今日来たのはインディーズバンドのフェスだろ? お前、徹夜明けで頭バグったか?」
……なんだ、それ。
背筋に氷水を流し込まれたような悪寒が走り、僕はレンの胸元からカメラを乱暴にひったくった。
震える親指で、液晶モニターの再生画面を連打する。
カチ、カチ、カチッ。
何千枚もあったはずのスピカの神写真だけが、砂嵐のノイズと共に1枚ずつ白紙のデータへと書き換わっていく。
笑顔も、汗も、ステージの軌跡も、すべてがデジタルの虚無へ吸い込まれていく。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「うそ、だろ……っ。過去改変のエントロピーの帳尻合わせで、世界からスピカの記録が蒸発してる……!?」
喉の奥がカラカラに張り付き、冷や汗が顎先からポタリと落ちた。
その時だ。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ハル君! どうしようっ!」
ステージ裏の鉄扉を蹴り開け、銀色がかったツインテールを揺らした小柄な少女が飛び出してきた。
継ぎ接ぎだらけの手作り衣装を纏ったスピカが、大きな蒼い瞳を涙でいっぱいに潤ませて僕の胸にしがみつく。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「マネージャーさんもスタッフさんも、私の顔を見て『誰だお前、不法侵入か!?』って……っ! 楽屋の名前も消えてるの! ねえ、私、頭おかしくなっちゃったのかな……!?」
ガタガタと小刻みに震える彼女の氷のように冷たい指先を、僕はチェキ帳が括り付けられた両手で包み込むように強く握りしめた。
奥歯で下唇を噛み切り、口内に広がる生臭い鉄の匂いを無理やり飲み込む。
ここで僕が取り乱せば、彼女の精神が壊れる。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「スピカ、落ち着いて聞いてくれ。君はおかしくない。世界がちょっとバグってるだけだ」
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ハル君だけは……私のこと、わかるの? 私が誰か、言えるの……?」
すがるような上目遣い。
僕はわざとらしく口角を吊り上げ、おどけた調子で胸を張った。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「当たり前だろ! 僕が君の古参トップオタだぞ! 君が初めて新宿の路上で歌った夜の気温も、1stシングルのBメロで0.2秒遅れる癖も、全部僕の脳髄に刻み込まれてる!」
言い切った直後。
ロビーの壁に貼られていたスピカの告知ポスターが、サラサラと音を立てて灰へと変わり、床に崩れ落ちた。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ハル君、私の手……透けてる?」
傷だらけのマイクを握るスピカの白魚のような指先が、青白い量子ノイズを発してチカチカと明滅し始める。
輪郭が揺らぎ、向こう側の床が透けて見えた。
開演――運命の収束時刻である19時00分まで、残り15分。
第二章: 忘却の物理演算デスゲーム

観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「いいかスピカ、量子力学において『観測されないものは存在しない』のと同じだ!」
僕はスピカの折れそうなほど細い手首を引き、カビ臭い非常階段を二段飛ばしで駆け上がった。
暗い階段に、僕たちの荒い息遣いと足音だけが反響する。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「僕が過去を改変して君の死を回避しようとするたび、宇宙は増大したエントロピーを相殺するために『星野スピカの情報量』を周囲の人間から消去してる!」
41回のループ。
火災報知器も鳴らした。配電盤のブレーカーも落とし、公衆電話から爆破予告だってかけたのだ。
だがどのルートを通っても、看板の落下や漏電による感電といった別の不条理な事故が起き、彼女は必ず19時00分ジャストに死ぬ。
宇宙そのものが、彼女を殺そうと躍起になっている。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「じゃあ、どうすればいいの!? 私、このまま誰にも思い出してもらえずに消えちゃうの!? せっかく、今日のために新しい衣装も縫ったのに……っ!」
泣きじゃくる彼女の言葉が、僕の胸を鋭利な刃物のように抉る。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「一つだけ方法がある。僕が天井裏に行って、崩落する照明のワイヤーを直接僕の体で固定し、落下エネルギーを物理的に相殺する!」
ヒューヒューと鳴る肺から熱い息を吐き出しながら、僕は踊り場で振り返り、彼女の蒼い瞳を真っ直ぐに見据えた。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「その間に君はステージで歌い、客席のレンたちに『再布教』して観測者を増やすんだ! 推しが目の前で息をして歌ってる、それ以上の物理法則がこの宇宙に必要か!?」
その時、上階の通路の奥から規則正しい足音が響き、レンが姿を現した。
彼が着ていたはずのスピカの限定グラフィックTシャツは、いつの間にか何の変哲もない無地の黒いシャツに変わっている。
橘 レン(たちばな れん)「おいハル、こんな所で壁に向かって誰と喋ってんだよ。……え、なにその隣にいる女の子。誰?」
レンの瞳には、もうスピカへの熱量は1ミリも残っていない。
ただの「見知らぬ通行人」を見る、無機質なガラス玉のような目。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「レン! ふざけるなよ! お前が1年前、聖地の公園で徹夜で場所取りして撮った『奇跡の1枚』を思い出せ! 俺が徹夜で作った100ページの布教資料を読んで、泣きながら青いサイリウム振った夜を忘れるなよ!」
僕の絶叫がコンクリートに吸い込まれる。
レンは眉間に深い皺を寄せ、一歩後ろへ退いた。
橘 レン(たちばな れん)「知らねえよそんなの! 気持ち悪い妄言ぶつけてくんな、頭冷やせよ!」
レンは唾を吐き捨てるように背を向け、足早に階段を降りていった。
バタン、と鉄扉が閉まる音。
胸の奥がミシリと嫌な音を立てて軋んだ瞬間、背後でスピカの足がピタリと止まった。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「……ねえ、あなた、誰?」
繋いでいた手が、パッと乱暴に振り払われた。
手のひらに残る、虚しい空気の感触。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「え……?」
星野 スピカ(ほしの すぴか)「触らないで、私を引っ張らないで! どうして私の名前を知ってるの!? 私のたった一人のファンは……いつも最前列で青いペンライトを振ってくれる、一番大切な人は……っ、あれ? 顔と名前が、思い出せない……!」
スピカが自分の銀色のツインテールを乱暴に掻き毟り、ボロボロと涙をこぼしながらその場にうずくまる。
過呼吸を起こしたように、彼女の小さな肩が激しく上下していた。
……そうか。周囲の記憶が消え尽くした今、エントロピーの代償はついに『スピカの中にある僕の記憶』を喰らい始めたんだ。
膝が笑う。
足元のコンクリートの床が、底なし沼のようにグニャリと歪んで見えた。
一番恐れていた結末。僕の全人生を懸けた3年間が、彼女の脳裏から消去されていく。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「知らない人なのに……思い出せないのに、どうしてあなたの顔を見ると、こんなに胸が苦しくて泣きそうなの……!?」
胸元をギュッと掴み、涙で濡れた瞳で見上げてくる最愛の推し。
僕は視線を逸らし、頬の筋肉を無理やり引き上げて、最高に軽薄で引きつった笑顔を作ってみせた。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「……あー、すみません。僕はただの通りすがりの会場スタッフっすよ。さあ、出番の時間だ。ステージに行ってください、星野さん」
声の震えを悟られないよう、僕は早口で言い捨てた。
自分の存在価値を完全にドブに捨て、僕は振り返ることなく、灼熱の天井裏へと続く錆びた鉄梯子を駆け上がる。
第三章: 血塗られたチェキと、最期のコール

観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「行け、スピカ! ステージに立て! 君は歌うために生まれてきたアイドルだ!」
天井裏の通気口から叫んだ僕の声に背中を押され、スピカは混乱したままステージの暗幕の向こうへと飛び出した。
眼下のフロアには、別のロックバンド目当てで集まったレンたち無関心な観客がひしめき合っている。
「なんだあいつ?」「前座のアイドル? 聴いたことねーぞ」「早く引っ込めよ」
酔っ払った客たちの冷たい野次と嘲笑が、熱気と共に天井裏のキャットウォークまで昇ってくる。
いつもなら最前列で誰よりも高く振られているはずのネオンブルーの光が、今日はどこにもない。
スピカは傷だらけのマイクを握ったままステージ中央で立ち尽くし、スポットライトの中で金魚のように口をパクパクとさせていた。
歌え、スピカ。僕が絶対に、そのステージを、君の聖域を守り抜く!
頭上の鉄骨では、数百キロの巨大照明トラスを支える鋼鉄ワイヤーが、バチバチと火花を散らして今にも千切れそうになっていた。
金属疲労の限界。素手で触れれば指が吹き飛ぶ張力。
僕は迷わず、両腕に巻き付けた分厚いチェキ帳とネオンブルーの法被をワイヤーの亀裂に絡ませ、自分の全体重をかけて引っ張り上げた。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「ぐ、うあああああっ!!」
ブチッ、ジュウウウッ!
凄まじい摩擦熱と張力で手のひらの皮膚が一瞬で裂け、鋼鉄のワイヤーが肉に食い込む。
噴き出した鮮血が、命より大切にしていた何百枚ものチェキの束を赤黒く染めていく。
自分の肉と脂肪が焼ける悍ましい匂いが鼻腔を突き、激痛で視界が真っ赤に明滅した。
19時00分まで、あと30秒。
ギシギシと鉄骨が悲鳴を上げ、僕の肩の関節が外れそうなほど軋む。
足りない。人間一人の筋力じゃ、重力の収束に勝てない。
このままではワイヤーが破断し、僕ごとステージのスピカの頭上へ墜落する。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「物理法則がなんだ……っ! 僕の3年間の推し活の質量を、なめるなよおおおっ!」
僕は奥歯を砕くほど噛み締め、口から血反吐を吐き散らしながら、局所的な量子改変をもう一度だけ重ね掛けした。
《エントロピー・オーバーライド》
代償は、星野スピカの脳内にある『ハル』という人間の全記憶、そして僕の魂の履歴書すべてだ! 全部持っていけよ、クソ宇宙!!
バチィッ! と青白い放電が空間を裂き、千切れかけていたワイヤーの金属結晶が異常な熱を発してわずかに再結合する。
それと全く同時に。
眼下のステージに立つスピカの瞳から、誰かを探し求めていた焦燥感がスッと消え去った。
彼女は今、僕という存在を完全に忘れた。
胸の真ん中に、冷たい風が吹き抜ける巨大な風穴が空く。
激痛も、恐怖も、すべてが遠い他人のことのようにぼやけていく。
それでも。
僕は血まみれで感覚のなくなった片手を動かし、胸ポケットから最後のサイリウムを抜き出し、前歯で噛み砕くようにへし折った。
ボキッ!
眩いネオンブルーに発光した筒を、鉄骨の隙間から真下のステージへと突き出す。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「うおおおおおっ! 世界の真ん中で輝けえええ! 星野ォ、スピカァァァーーーッ!!」
誰もいないはずの天井の暗闇から響き渡った、声帯が裂けて血の混じったダミ声のコール。
埃舞う天井に灯った、たった一つの不格好な蒼い光。
その瞬間、スピカの小柄な身体がビクンと電流に撃たれたように跳ねた。
脳のシナプスが僕を消去しても、彼女の声帯と心臓が、雨の日も風の日も何千回と浴び続けた『世界一不器用で熱いコール』に条件反射で共鳴したのだ。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「……あ、ああ……っ!」
スピカの瞳に、強烈な光が宿る。
彼女は傷だらけのマイクを両手で白くなるほど強く握り直し、ざわめく観客たちのド真ん中で、大きく息を吸い込んだ。
そして、魂を削るようなアカペラを歌い始める。
静寂。
1/fゆらぎを帯びた透き通るソプラノの歌声が、たった一音でフロアの下品な雑音を完全にねじ伏せる。
グラスを持つ客の手が止まり、野次を飛ばしていた男が口をあんぐりと開けた。
客席のレンが息を呑み、何かに憑りつかれたように震える手で一眼レフカメラを構える。
フロアが熱狂の渦へと変わっていくのを霞む視界で眺めながら、すべての代償を払い終えた僕の意識はプツリと暗転し、血塗れの腕から外れたチェキ帳がステージへと滑り落ちた。
第四章: 聖地巡礼の果て、世界のバグを修復する歌
橘 レン(たちばな れん)「すごい……なんだこの子の歌、鳥肌が……涙が止まんねえ……!」
客席の最前列で、レンが自分の頬を伝う大粒の涙を拭うことも忘れ、狂ったようにシャッターを切り続けていた。
最後のロングトーンがライブハウスの天井に溶けて消えた瞬間。
数秒の完全な沈黙の後、地下空間が揺れるほどの爆発的な歓声と拍手が巻き起こった。
照明の落下は完全に回避され、19時00分の死の運命は、彼女の歌声によって完全に覆されたのだ。
非常階段から幽霊のようにフラフラと降りてきた僕は、客席の最後尾で冷たいコンクリートの壁にもたれかかり、黒焦げに焼け爛れた両手をパーカーのポケットに深く隠した。
爪が剥がれ、血が滲んでポケットの裏地が張り付くが、不思議と痛みはない。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「……よかった。これでいいんだ。君がステージで生きて、みんなに観測されて、愛されてる。僕みたいな気持ち悪いモブの記憶なんて、足手まといなだけだ……」
誰にも気づかれないよう、僕は静かに背を向け、重い防音扉のドアノブへと足をを引きずりながら歩き出す。
さよなら、僕のすべてだった星。
その時、割れんばかりの歓声を浴びるスピカの足元に、天井の隙間からヒラヒラと何かが舞い落ちた。
ドサッ。
ステージの床に落ちたのは、僕の血で赤黒く染まった1冊の分厚いチェキ帳と、手書きの文字でびっしり埋め尽くされた『星野スピカ布教用バイブル』だった。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「……これ、なに?」
スピカは息を弾ませながらステージの床にペタリと膝をつき、それを拾い上げる。
生温かい血の匂い。
めくられたページには、土砂降りの路上ライブで観客が1人だった日の写真、衣装を縫うために通った手芸店の割引メモ、喉に良い飴のリスト、そして何百枚ものツーショットチェキが収められていた。
だが、不気味なことに、スピカの隣に写っているはずの『青年の姿』だけが、すべての写真から白く塗り潰されたように消えている。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「おかしいよ……私、このチェキ、1人で撮ったはずないのに。どうして私は、誰もいない空間に向かって、こんなに幸せそうに笑ってるの……?」
ポタ、ポタリと、スピカの涙がチェキのフィルムの上に落ちる。
彼女は震える指先で、最後のチェキの裏に書かれた、震える血文字のようなメッセージをめくった。
『スピカへ。君が最後に僕の名前を呼んでくれた瞬間だけは、どうしても宇宙に返したくなかった』
マイクを通してその呟きがフロアに響いた瞬間、最前列のレンがカメラの液晶画面を凝視して裏返った声で叫んだ。
橘 レン(たちばな れん)「おい、待てよ! 俺のカメラの削除済みフォルダの奥に、プロテクトされた壊れた動画ファイルが1個だけ残ってる! タイトルは……『ハルの最推し布教VTR』だ!!」
レンが柵を乗り越えてPA席のケーブルを強引に引き抜き、自分のカメラを繋いでステージ背面の巨大LEDモニターに映像を投影した。
ザザッ、と激しい砂嵐が走る。
画面に映し出されたのは、世界から消去される寸前のノイズまみれの映像――41回目のループの直前、崩れ落ちる鉄骨の下で、血まみれのスピカが泣きながら叫んだ最期の瞬間だった。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ハル君、私の名前、忘れないでねっ!」
モニターから流れた自分の悲痛な声を聞いた瞬間、スピカの蒼い瞳が限界まで見開かれた。
バチッ! と彼女の脳内で、 보이지 않는 量子回路がスパークする。
消去されたはずの記憶が、血塗れのチェキと狂気的なまでの布教資料という『物理的な愛の痕跡』を媒介にして、彼女の脳髄へ濁流となって一気に逆流していく。
3年間のすべて。冬の凍える路上、初めてのオリジナル曲、42回の絶望と、天井から響いたあの血を吐くようなコール。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「……あ、ああああっ! 思い出した……っ! 私が心が折れて死にかけた夜、路上で一緒に泣いてくれた人! 42回も私のために世界を敵に回して、手がボロボロになるまでコールしてくれた、私の、私だけの……!」
スピカはマイクを壊れるほど両手で握りしめ、出口のドアノブに手をかけた僕の背中に向かって、世界の物理法則そのものをねじ伏せるほどの声量で絶叫した。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「行かないで、ハル君!! 私のたった一人の、宇宙一のトップオタでいてって、約束したでしょおおおっ!!」
心臓が肋骨を突き破るほど跳ね上がり、僕は息を呑んで振り返った。
眩いスポットライトを浴びたステージの上で、ネオンブルーの衣装を纏った彼女が、化粧も崩れるほど大粒の涙をこぼしながら、確かに僕の名前を呼んでいた。
観測者・ハル(かんそくしゃ・はる)「スピカ……っ、なんで……君、僕を……!」
星野 スピカ(ほしの すぴか)「忘れるわけないじゃん! バカ! あなたが私を『アイドル』にしてくれたんだよ!? だから……次は、私があなたを『観測』する番っ! 絶対に、宇宙のどこへも行かせないから!」
スピカがマイクを床に放り投げ、1メートル以上あるステージから躊躇なく飛び降りた。
呆気に取られて道を開ける観客たちを力任せに掻き分け、銀色のツインテールをなびかせて、僕の胸へと一直線に飛び込んでくる。
ドンッ! と小さな身体がぶつかり、僕たちはそのままフロアの床へと倒れ込んだ。
歌い切ったばかりの彼女の熱い汗と、甘いピーチシャンプーの匂い、そして早鐘のような激しい鼓動が、ヨレヨレの黒パーカー越しに僕の胸へと直接流れ込んでくる。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「はあっ、はあっ……捕まえた。もう絶対に離さない……っ」
僕の首筋に回された彼女の細く白い腕が、息が詰まるほど強い力で僕をロックする。
僕は火傷と血でボロボロになった両腕を不器用に回し、彼女の華奢で燃えるように熱い背中を、壊れるほど強く抱きしめ返した。
♥ドクン、ドクンと互いの心音が重なり合い、失われていた僕の存在証明が、彼女の体温によって急速に満たされていく。[/Heart]
スピカは僕の胸板に顔を埋め、すりすりと猫のように頬を擦り寄せたあと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見上げた。
星野 スピカ(ほしの すぴか)「ねえハル君、勝手にいなくなろうとした罰として、今日から私の専属マネージャー兼、生涯最前列確定ね! 物理法則なんかで、私の重すぎる愛から逃げられると思わないでよっ!」
悪戯っぽく、けれどどこか狂気を孕んだ瞳で笑う彼女の柔らかい唇が、僕の汗ばんだ首筋にチュッと熱く触れ、そのまま甘噛みするように歯を立てた。
背筋を甘い電流が駆け抜け、僕の視界が幸福な熱でチカチカと明滅する。
橘 レン(たちばな れん)「おいハル! 最高のツーショット撮れたぞ! 一生分の布教素材だ、感謝しろよな!」
記憶を完全に取り戻したレンが、泣き笑いの顔で親指を立ててシャッターを切る。
一人、また一人と、周囲の観客たちの手元にネオンブルーのサイリウムが灯り始めた。
それはやがて満天の星空のような青い光の海となり、世界のバグを完全に塗り潰すほどの鳴り止まないアンコールが、僕たちの聖地をいつまでも揺らし続けた。