第一章: 致死量のダージリン
神代 シキ「ねえ、マリア。今日君が紅茶に入れた青酸カリ、いつもの倍の量だけど……何かいいことでもあった?」
無造作な黒髪を揺らし、白シャツに黒エプロン姿のシキが垂れ目を細める。
湯気の向こう側、プラチナブロンドの妻・マリアが、白いレースの袖口で赤い唇をふわりと覆った。
神代 マリア「まあ、私ったら、またお砂糖と間違えてしまいましたわ。お口に合いませんでしたか、シキさん?」
小首をかしげるその仕草は、どこからどう見ても非の打ち所がない貞淑な良妻そのものだ。ただ一点、彼女の指先がテーブルクロスの端を無意識に強く握りしめ、爪の血色が失われていることを除けば。
神代 シキ「まさか。君が淹れてくれる紅茶は、いつだって死ぬほど美味しいよ」
舌先を刺す甘いアーモンド臭と、粘膜を焼く微かな苦味。三年間、一日たりとも欠かさず僕を殺そうとする可愛い僕の妻。その健気な殺意ごと、僕の胃袋ですべて咀嚼してやる。
シキはカップを傾け、琥珀色の液体を一息に飲み干す。喉仏が上下するたび、マリアの長いまつ毛がピクリと震えた。
カチャリ、と空のカップが純白のクロスに置かれる。
マリアの碧眼が微かに揺れ、張り詰めていた胸元から、熱を帯びた安堵の吐息がほんの少しだけ漏れた。
神代 マリア「……全部、飲んでくださったのね。結婚三周年おめでとうございます、シキさん」
神代 シキ「ああ、おめでとうマリア。来年も再来年も、君の毒を最後の一滴まで飲ませてね」
甘やかな視線が絡み合う。
だが、その静寂を無惨に引き裂くように、テーブルの上で二台のスマートフォンが同時に不気味な振動を始めた。
暗号回線接続完了。通話強制開始。
無機質な機械音に続き、下卑たノイズが走る。
黒須 レイジ「ハッ、結婚三周年おめでとうございますよ、お二人さん。反吐が出るような茶番はそこまでだ」
スピーカーから、黒須の粘りつくような嘲笑が窓を叩く雨音を切り裂いて響き渡った。
マリアの肩が弾かれたように跳ねる。シキの顔から柔和な笑みが抜け落ち、代わりに絶対零度の双眸がスマホの画面を射抜いた。
神代 シキ「……この声、組織の監査役か。どういうつもりだ」
黒須 レイジ「今夜零時までに相手の首を持ってこい。できなければお前たちの裏の顔を世間にバラして、二人とも惨めに処刑してやるよ!」
第二章: 仮面の剥落

黒須 レイジ「種明かしをしてやろうか! 神代シキ、お前は組織の裏切り者を消す掃除屋の『葬儀屋』。そしてマリア、お前は政財界の要人を葬ってきた毒殺請負人の『毒蛾』だ!」
天井の隠しスピーカーから響く狂喜の声。
コンマ一秒の迷いもなく、シキがテーブルを蹴り倒した。
純白のクロスが宙を舞う。最高級のティーカップが床に叩きつけられ、白い磁器の破片が薄暗いダイニングに鋭く散乱した。
黒須 レイジ「お前たちの結婚生活はな、互いの忠誠心を試し、裏切り者を炙り出すための監視プログラムだったんだよ! さあ、愛だの恋だのほざいてたその汚い口で、今すぐ殺し合え!」
チャリン、と鼓膜を刺す硬質な金属音。
清楚な笑みを完全に消し去ったマリアの指先で、銀色の毒針が冷たく光り、シキの無防備な喉元へと突きつけられる。
だが、シキもまた遅れを取らない。エプロンの下から流れるような動作で消音拳銃を抜き放ち、マリアの豊かな胸の奥、激しく脈打つ心臓へと黒鉄の銃口をピタリと合わせた。
交差する視線。張り詰めた空気が、二人の肌をビリビリと灼く。
神代 マリア「……最初から、私を監視するために近づいたのね、シキさん」
氷のように冷徹な声。けれど、毒針を握る彼女の白い指先は、小刻みに震えていた。
神代 シキ「君こそ、僕を毒殺する任務のために、三年間も良妻を演じていたんだろ、マリア?」
シキはわざと残酷な言葉を吐き捨てる。
震える彼女の指先。下唇を噛みしめて、今にも零れ落ちそうなその瞳。なぜ泣きそうな目をするんだ、マリア。プロの暗殺者なら、嗤って僕の頸動脈を貫けばいいのに。
黒須 レイジ「いいぞ、その顔だ! 極限状態で人間が選ぶのはいつだって自己保身だ、引き金を引け『葬儀屋』! そいつの胸に風穴を開けろ!」
黒須の怒号が部屋を揺らす。
シキはふっと息を吐き、引き金にかけていた指の力を抜いた。
カン、と乾いた音を立てて、消音拳銃が床の破片の上へと無造作に放り投げられる。
神代 マリア「え……? シキさん、何を……」
戸惑いに揺れる碧眼を真っ直ぐに見つめ、シキは一歩、前へと踏み出した。
神代 シキ「刺せよ、マリア。君に殺されるなら、僕の人生はこれ以上ないハッピーエンドだ」
シキは両手を大きく広げ、無防備な首筋を、マリアの構える毒針の切っ先へと自ら優しく押し当てた。ぷつり、と皮膚が裂け、赤い雫が銀の針を伝う。
その直後。
ドクン、とシキの心臓が異様な音を立てて跳ね上がった。
視界がぐにゃりと歪み、シキの喉の奥から、どす黒い血塊がゴボリと吐き出される。
神代 シキ「ぐ、うっ……ごほっ、げほっ……!」
膝から崩れ落ちるシキ。床に散らばる磁器の破片が掌に食い込むのも構わず、彼は自身の喉を苦しげに掻きむしった。
黒須 レイジ「アッハッハ! ついに『毒蛾』の遅効性毒が回ったか! 見事な裏切りだマリア! それでこそ組織の飼い犬だ!」
高笑いするスピーカーの音声。しかし、マリアの顔からすべての血の気が引いていた。
神代 マリア「嘘よ……っ! だってあれは、毒なんかじゃないはずなのに……っ!!」
第三章: 世界で一番甘い嘘

カラン、と毒針が床を転がる。
マリアはドレスの裾が血で汚れるのも厭わず、床に倒れ込んだシキの体を自身の豊かな胸へと力任せに抱きしめた。
浅く熱い呼吸が、シキの耳朶を焦がす。
神代 シキ「……どういうことだ、マリア。君が毎日、僕の紅茶に入れていたのは……組織の神経毒『タナトス』だろ?」
かすれた声で問うシキの頬に、プラチナブロンドの髪から大粒の涙が次々と零れ落ち、熱い雫となって弾けた。
神代 マリア「違いますわ! あれは、中和剤ですの! 三年前、組織があなたの食事に遅効性の『タナトス』を密かに混入させたと知って……!」
マリアの華奢な腕が、シキの首筋を窒息しそうなほど強く抱きすくめる。彼女の胸の奥から、♥早鐘のような激しい心音[/Heart]がシキの頬へと直接伝わってきた。
神代 マリア「素直に言っても、プライドの高いあなたは絶対に飲んでくれないから! だから私は……あなたを殺そうとする悪妻のフリをして、毒と同じ苦味の中和剤を毎日飲ませるしかなかったのに……っ!」
喉を震わせる悲痛な叫び。
それを聞いたシキの瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
神代 シキ「中和剤……? 嘘だろ、僕は……君からの歪んだ愛を全部受け止めるために、毎日裏で『タナトス』の原液を少しずつ飲んで、体内に耐性を作ってたのに……!?」
神代 マリア「なっ……!? なぜそんな無茶をなさるの!?」
涙に濡れたマリアの瞳が、驚愕に揺れる。シキは血のついた口元を拭い、バツが悪そうに視線を彷徨わせた。
神代 シキ「だって、君がせっかく淹れてくれた毒で死ねないのは申し訳ないだろ? しかも今夜は、君の毒で綺麗に死んでみせようと思って、紅茶を飲む前に致死量の『タナトス』を自分で煽っちゃったよ……」
神代 マリア「大っバカですわ!! だから今日、私がいつもの倍の中和剤を盛ったことで、あなた体内の致死量の毒が完全に相殺されたんですのね!?」
マリアの平手が、シキの胸板をバシッと叩く。
その時だった。
ドゴォンッ! と凄まじい炸裂音が響き、玄関の強化ロックが無惨に破壊された。
硝煙の匂いを纏いながら、黒のダブルスーツを着た黒須が大型の拳銃を構えてダイニングへと踏み込んでくる。銀髪のオールバックを揺らし、左頬の醜い傷跡を三日月型に歪めて嗤った。
黒須 レイジ「何が中和剤だ、ふざけた茶番を……! 死体になっちまえば、愛だろうが毒だろうが全部同じ肉の塊だろうが!」
黒須の指が引き金にかかる。
だが、その銃口が火を噴くよりも早く。
床に倒れ伏していたはずのシキが、まるで重力から解き放たれた亡霊のように、音もなくスッと立ち上がった。
黒須 レイジ「なっ……!? 貴様、血を吐いて倒れていたはずじゃ……!」
後ずさる黒須。シキは首をコキコキと鳴らし、口元の赤い液体を親指で拭ってみせた。
神代 シキ「ごめんねマリア。今の咳き込みも、口に含んでいた血糊も、全部このゴキブリを監視カメラの向こうから部屋におびき寄せるための『嘘』なんだ」
シキの垂れ目が、獲物を嬲る肉食獣のそれへと変わる。
いつの間にか拾い上げていた消音拳銃の銃口が、一歩も動けない黒須の額の中心へとピタリと食い込んだ。
黒須 レイジ「ま、待て! 早まるな! お前ら、組織を敵に回して生き残れると……」
脂汗を滝のように流し、命乞いをする監査役。
しかし、シキの背後で立ち上がったマリアもまた、氷の微笑を浮かべてシキの肩にそっと手を添えた。
神代 シキ「僕たちの大切な結婚記念日を邪魔した罪は、万死に値するよ。地獄で一人、永遠にチェスでもしてろ」
パスン、とひどく軽い空気音が部屋に響く。
額を撃ち抜かれた黒須は、白目を剥いて糸の切れた操り人形のように床へと崩れ落ちた。
第四章: 致死量ゼロの朝
偽装データ送信完了。『葬儀屋』および『毒蛾』の相討ちによる死亡を確認。これより監視プログラムを永久凍結します。
無機質なシステム音声が途切れ、スマートフォンが完全に沈黙する。
雨上がりの澄んだ夜明けの光が、レースのカーテン越しにキッチンへと差し込んでいた。部屋の隅に転がる黒い特大のゴミ袋に背を向け、マリアが鼻歌を歌いながら新しい紅茶を淹れている。
シキが背後から音もなく歩み寄り、エプロン姿のマリアの細い腰を、後ろから優しく抱きしめた。
神代 シキ「これで僕たちは、組織の上では完全に死人だ。もう毒も、苦い解毒剤もいらないね」
うなじに落とされる甘い吐息に、マリアの肩が可愛らしく跳ねる。彼女は耳の先まで真っ赤に染め、ぷいと唇を尖らせて振り返った。
神代 マリア「……私がこの三年間、どれだけ恥ずかしい思いをして悪妻を演じていたか、分かっていますの? 妻に毒を盛られて喜んでいた、救いようのない変態さん」
神代 シキ「はは、そればっかりは否定できないな。だって、君がくれるものなら、毒だろうが愛だろうがすべて飲み干したかったからね」
シキが愛おしそうに目を細め、彼女のプラチナブロンドの髪に唇を寄せる。マリアは困ったように微笑み、湯気を立てるカップを二人の間に差し出した。
神代 マリア「もう、お口が上手なんだから……ほら、新しい紅茶が入りましたわよ」
温かいティーカップを受け取り、シキはゆっくりと唇を濡らす。
舌を刺す苦味も、鼻をつく薬品臭もない。ただ、黄金色の茶葉が持つ芳醇な香りと、ほんの少しだけ甘いダージリンの風味が、優しく胸の奥へと広がっていく。
シキはハッと目を見開き、それから自分の左胸をぎゅっと押さえた。
神代 シキ「ねえマリア、この紅茶……やっぱり何か入ってるよ。僕の心臓をこんなに早く動かす、一生解けない猛毒だ」
大袈裟に苦しんでみせる夫の姿に、マリアは鈴を転がすような声で笑った。そして、彼の首に白い腕を絡ませ、背伸びをしてその唇に自身の唇をそっと重ねる。
甘い余韻を残して離れた彼女の瞳は、どんな宝石よりも眩しく煌めいていた。
神代 マリア「まあ、私ったらまたお砂糖と間違えてしまいましたわ。♥……これからも毎日、あなたが死ぬその瞬間まで、私の愛という毒をたっぷり飲ませてあげますからね、シキさん」
眩い朝日の中で、二つのティーカップが、祝福の鐘のように澄んだ音を立てて重なり合った。