第一章: 残弾一発と死神のラブレター
ヨハン・ヴァイス「残弾、あと一発……! なあマルクス、俺の頭を撃ち抜くには、これで十分だよな!?」
泥と仲間の返り血がこびりついた灰色の軍服。ヨハン・ヴァイスは、氷水のように冷え切った指先で無造作な黒髪を狂ったように掻きむしった。爪の間に入り込んだ赤黒い泥が、頭皮を引っ掻いて鈍い痛みを生む。
マルクス・ベルガー「馬鹿野郎! 耳を塞ぐなよ、新兵! 俺の声が唯一の命綱だ!」
ヨハン・ヴァイス「だってよ、小隊の奴らはみんな肉片になった! 俺の翠の瞳には、もう泥水と、湯気を立てる死体しか映らねえんだよ!」
裏返った声が塹壕の湿った土壁に吸い込まれる。呼吸が浅い。酸素が肺まで届かず、喉の奥がひりついて貼り付く。首元に巻いた色褪せた包帯を強く握りしめた、まさにその瞬間。頭上の土嚢が爆ぜ飛んだ。
濁った泥水と砂利が容赦なく降り注ぎ、ヨハンは反射的に首をすくめて泥の中へ顔を伏せる。
……12.7ミリ対物ライフル! 銃声の反響、北北東300メートルから、嘘みたいな速度で距離を詰めてきてやがる!
背負った無線機から、鼓膜を直接やすりで削るような激しいノイズが鳴り響いた。その砂嵐の向こう側から、ひどく甘く、ひどく冷たい吐息が漏れ出る。
エリカ・フォン・シュタイン「――見つけた。逃げないで、私の可愛いカナリア」
ヨハン・ヴァイス「なっ……!? なぜ敵の狙撃手が、この暗号周波数を……!」
心臓が肋骨を内側から激しく蹴り上げる。奥歯がガチガチと勝手に噛み合わさり、舌先を噛んで鉄の味が広がった。
エリカ・フォン・シュタイン「あなたの周りの邪魔な虫けらは、全部私が掃除してあげたわ。だって、あなたが泥の中で必死に息をする音、私一人で独占したいんですもの♥」
マルクス・ベルガー「ヨハン、奴の挑発に乗るな! そいつが『白銀の死神』だ! 絶対に頭を上げるなよ!」
遅い。
すぐ目の前の泥水が、ちゃぷり、と小さく跳ねた。硝煙と火薬の臭いを切り裂いて、百合の花に似た甘い香水の匂いが鼻腔を撫でる。塹壕の折れ曲がった角から、漆黒の狙撃用外套を纏った女が、まるで最初からそこにいたかのように音もなく姿を現した。
第二章: 銃口は甘く、泥水は苦い

長い銀髪を無造作に軍帽へと押し込んだエリカ・フォン・シュタインが、氷を削り出したような蒼い瞳を細める。
逃げ場のない狭い土の回廊。彼女の白い腕が伸び、連射で焼けるように熱くなった狙撃銃の銃身が、ヨハンの震える唇を乱暴にこじ開けた。前歯が鉄にぶつかる硬い音がして、そのまま熱い鉄の塊が喉奥へとねじ込まれる。
ヨハン・ヴァイス「ぐ、うっ……! げほっ、がっ……!」
えずき、涙が滲むヨハンの顔を、エリカはうっとりと見下ろす。吐き出せない唾液が銃身を伝い、顎から泥の上へと糸を引いて垂れ落ちた。
エリカ・フォン・シュタイン「ほら、私の銃にキスをして。んっ……あなたの首筋の血、鉄と火薬の味がして、すごく美味しいわ……♥」
雪のように白い肌を薄紅に染め上げ、エリカはヨハンの首筋に巻かれた汚れた包帯へ顔を埋めた。その隙間から滲む血を、熱い舌先でねっとりと下から上へと舐め上げる。濡れた舌の感触が頸動脈の上を這い、ヨハンの全身の皮膚が粟立った。
熱い鉄の塊が喉を塞ぐ……息ができない。死ぬ、死ぬのに、背骨の奥が痺れるこの感覚は何だ……!
恐怖で引きつる下半身に、彼女の柔らかな太ももが割り込んでくる。泥まみれの軍服越しに伝わる、異常なほど高い彼女の体温。
エリカ・フォン・シュタイン「あなたの最後の呼吸、私にぜんぶ頂戴? あなたの鼓動、銃身を伝って私の指先までジンジン響いてるわ」
マルクス・ベルガー「今だヨハン! 俺が別方向から陽動する、隙を見て引き金を引け!」
ヘッドセットの奥で叫ぶ戦友の声。ヨハンは泥の中に沈んだ自分の小銃を探り、凍えた人差し指を引き金にかけた。だが、そのわずかな肩の揺れを見逃すはずもなく、エリカは酷薄な氷の微笑を浮かべる。
エリカ・フォン・シュタイン「あら、まだ気づかないの? 既に三時間前に、両軍の間で終戦協定が結ばれているわ」
喉奥から銃身が引き抜かれる。ヨハンは激しく咳き込みながら、酸素を求めて泥の匂いがする空気を必死に吸い込んだ。
ヨハン・ヴァイス「……は? う、嘘だ! じゃあ、俺たちの本隊は……!」
エリカ・フォン・シュタイン「あなたたちを見捨てて、とっくに撤退したのよ。ここはもう、誰の記録にも残らない空白地帯。それともう一つ、いいことを教えてあげる」
エリカの細く白い指が、ヨハンの肩越しに伸びた。背負っていた通信機の裏コードを、まるで花びらをむしるかのように無造作に引き抜いて見せる。
目の前に突き出されたコードの先端。千切れた断面は赤茶けて錆びつき、本体には電池パックすら入っていなかった。
第三章: 亡霊の通信と、狂愛の引き金

時間が凍りつく。
ヨハン・ヴァイス「電線が、最初から切れてる……? じゃあ、今まで俺が話していたマルクスの声は……!?」
恐る恐る、ヨハンの視線が足元の泥水へと落ちる。
自分が今まで踏みつけていた、土嚢の代わりだと思い込んでいた柔らかい塊。泥を被ったそれに、片目の眼帯と、ひしゃげた大型ヘッドセットが絡みついていた。上半分が吹き飛び、白骨化しかけた頭蓋骨。ウジが湧き、腐臭を放つその肉塊こそが、さっきまで耳元で叫んでいたはずのマルクスの成れの果てだった。
胃の腑が裏返り、酸っぱい胃液が喉までせり上がる。
エリカ・フォン・シュタイン「かわいそうな人。一人ぼっちが寂しすぎて、自分で死人の声を腹話術みたいに演じていたのね。でも大丈夫、これからは私があなたの全部になってあげる♥」
頭蓋骨の奥で、何かが決定的に焼き切れる音がした。恐怖も絶望も、すべてがどろどろに溶け合って黒い泥になる。
ヨハン・ヴァイス「あ、あは、ははっ……! まだだ、まだ俺の心臓は鳴ってる……!」
乾いた笑い声が、ひび割れた唇から漏れる。
エリカが歓喜に双眸を潤ませ、ヨハンの頬を両手で包み込んだ。二人の頭を一発で撃ち抜くために、自分の顎の下とヨハンの顎の下を密着させ、巨大な銃口をその隙間に宛がおうとした、その瞬間。
ヨハンの翠の瞳から、一切の迷いが消え失せた。
ヨハン・ヴァイス「俺は……お前の玩具になって死ぬつもりはねえんだよ、クソアマァッ!!」
ヨハンは自らの軍服の胸元を力任せに引き裂いた。裏地にびっしりと縫い付けていた、何百もの死んでいった仲間たちの認識票。血と脂で汚れた金属片の束を鷲掴みにし、至近距離からエリカの顔面へとぶちまけた。
金属の鎖がジャラジャラと音を立てて銀髪に絡みつき、彼女の視界を完全に奪う。
エリカ・フォン・シュタイン「きゃあっ……!?」
生まれたコンマ一秒の死角。ヨハンは泥水を蹴り上げて体勢を入れ替え、エリカの華奢な身体を泥の壁へと叩きつけた。残弾一発の小銃を彼女の胸元へ乱暴に突きつけ、迷いなく引き金を引く。
乾いた銃声が狭い塹壕内で反響し、赤い飛沫が宙を舞った。
第四章: 鉄の墓標に咲く赤い花
硝煙がゆっくりと流れていく。
泥の中に倒れ伏したエリカの白い耳元から、鮮やかな赤い血がツーと筋を描いて流れ落ちた。
至近距離から撃ち抜かれ、粉々に砕け散っていたのは、彼女の心臓ではない。彼女が命の次に愛していた、狙撃銃のスコープだった。砕けたレンズの破片が彼女の頬を浅く切り裂き、そこから血が滲んでいる。
ヨハン・ヴァイス「……言っただろ、無駄死には嫌いだって。お前をここで殺したら、俺が地獄で生き残った証人がいなくなる」
荒い息を吐きながら、ヨハンは冷酷に言い放つ。
至近距離の銃声で鼓膜を破られ、泥水に無様に組み敷かれたエリカ。だが、彼女の顔に浮かんだのは恐怖でも屈辱でもなく、これまでに見せたことのないほど深く、狂おしい恍惚の笑みだった。
震える白い両腕が伸び、ヨハンの泥だらけの首筋へと絡みつく。
エリカ・フォン・シュタイン「はぁ、あぁっ……最高よ……♥ 私を殺さずに、狙撃手の目だけを奪って屈服させるなんて……っ、やっぱりあなたは、私の運命の人だわ……!」
浅い呼吸を繰り返すたびに、彼女の豊かな胸が大きく上下し、ヨハンの胸板を押し返す。瞳孔の開いた蒼い瞳が、ヨハンの姿を貪るように焼き付けていた。
ヨハンは泥に散らばった認識票の鎖を拾い上げると、エリカの細く白い首に幾重にも巻き付けた。ジャリ、と鎖を引き絞る。皮膚に金属が食い込み、エリカの喉から甘い吐息が漏れた。
ヨハン・ヴァイス「さあ、戦争は終わりだ。俺の捕虜として、お前が殺した奴らの分まで一生償わせてやるよ」
立ち上がったヨハンが、背負っていた壊れた無線機を肩から外し、泥の中へと投げ捨てた、その時。
ちゃぷん、と泥が跳ねる音の後。電池すら入っていないはずのスピーカーから、ノイズ一つない、ひどく無機質でクリアな女性の声が響き渡った。
『――被験者ヨハン・ヴァイス。VR精神矯正プログラム第404号のクリアを確認しました。精神汚染値の規定値以下への低下を承認』
ヨハン・ヴァイス「……え?」
足元の感触が消える。ようやく朝日が差し込み始めたはずの塹壕の風景が、古いテレビの砂嵐のようにザザッと音を立てて崩れ落ちていく。
泥の匂いも、硝煙の臭いも、すべてが消毒液のツンとする匂いに塗り替えられた。腕の中にあったはずのエリカの温かい身体も、光の粒子となって指の隙間からサラサラと零れ落ちていく。
エリカ・フォン・シュタイン「……いや、いかないで、あなた……! また私を、忘れるの……!?」
初めて見せる、少女のように脆く、すがるような泣き顔。彼女が伸ばした白い指先が、ヨハンの頬に触れる直前で、プツリと掻き消えた。
代わりにヨハンの視界を埋めたのは、真っ白な天井と、自分の両手足を拘束する分厚い革ベルト。そして、自分の首元に巻かれた包帯の下――声帯を潰された手術痕の鈍い痛みだった。
『これより、あなたが現実世界で絞殺した妻・エリカの記憶消去処置を再開します。おやすみなさい、ヨハン』
頭部に装着された金属製のヘルメットから、冷たい電流が脳髄へと流し込まれる。
ヨハン・ヴァイス「あ、う……あぁぁぁっ……!」
声にならない絶叫が、無機質な病室に響く。
自分がなぜ彼女の首を絞めたのか。なぜ彼女が、自分の首に鎖を巻かれて微笑みながら死んでいったのか。
すべてが白い光に漂白されていく中、ヨハンの舌の上には、あの泥水と、鉄と、甘い百合の香水の味だけが、いつまでも生々しく残っていた。