第一章: 泥濘の引鉄
ユーリ・カドガン「おい新米、その笛を咥えたら頭蓋骨を吹き飛ばすぞ」
鼓膜を劈く重砲撃の地鳴りの中、ユーリ・カドガンは濡れそぼった銃口を、迷うことなく味方の額へとねじ込んだ。
鉄の冷たさに、アレクセイ・フォン・ブラントの喉仏が引きつったように跳ね上がる。
泥水にまみれた黒髪の下から覗くユーリの三白眼は、敵を狙う時よりも冷徹に、目の前の青二才の命脈を見定めていた。
アレクセイ・フォン・ブラント「貴様、正気か! 突撃ラッパが鳴ったのだ! 軍規に従え!」
青い瞳を怒血に染め、アレクセイが唾を飛ばす。
名門貴族の誇りを象徴する豪奢な仕立ての軍服は、粘つく赤土と硝煙に汚れて無残な有様だった。
それでもなお、銀の指揮笛を握りしめるその白手袋の指先は、狂信的な忠誠心に硬直している。
ユーリ・カドガン「機関銃座の十字砲火に突っ込むのが軍規なら、クソ食らえだ。名誉で腹は膨れねえ。生き残った奴だけが唾を吐けるんだよ」
低く濁った声が、降りしきる泥雨を切り裂いた。
ユーリの指先は、安全装置を外したボルトアクション小銃の引き金に遊びなく掛かっている。
命乞いなど期待していない獣の気配に、アレクセイの青ざめた唇端がわずかに震えた。
アレクセイ・フォン・ブラント「我が命は祖国の盾! 敵前逃亡は反逆であり、恥辱である! 退くなど――」
乾いた炸裂音が、泥濘の塹壕を貫いた。
金属質の衝撃音が鼓膜を叩き、アレクセイの右肩章が金糸の装飾ごと宙に四散する。
肉を削ぐ寸前の猛烈な熱風が、青年の頬を裂いた。
アレクセイ・フォン・ブラント「なっ……敵の、狙撃……!?」
引き攣った悲鳴とともに、アレクセイの視界が傾ぐ。
ユーリ・カドガン「喚くな伏せろ! 頭を下げねえと二発目で眉間を穿たれるぞ!」
ユーリは少尉の濡れた襟首を力任せに鷲掴むと、赤錆と排泄物の混じる側溝へ容赦なく叩き倒した。
頭上を掠める連続した超音速の風切り音。
鉛の雨が土嚢を破砕し、生温かい泥水が二人の顔面を容赦なく覆い尽くす。
チッ、通信ケーブルが吹き飛びやがったな。完全に孤立無援だ。
第二章: 使い捨ての駒

頭蓋を軋らせる耳鳴りを圧し殺し、二人は半壊した前線トーチカの闇へ転がり込んだ。
アレクセイ・フォン・ブラント「通信機が応答しない……本隊の増援要請コードを打ち続けているというのに!」
コンクリートの粉塵が白く立ち込める薄暗がりで、アレクセイの指先が狂ったように電鍵を叩き続ける。
かすり傷から流れる血が電鍵の盤面を赤く汚し、少尉の呼吸は過呼吸じみて浅く荒い。
ユーリ・カドガン「無駄骨折るな。その機械から聞こえるのは、俺たちを消すためのカウントダウンだ」
煤まみれのユーリは壁際に座り込むと、奪取した通信暗号記録の分厚い束を床へ叩きつけた。
湿った紙束が散らばり、アレクセイの足元に広がる。
アレクセイ・フォン・ブラント「な……これは本隊の特殊符牒? 『第44高地、友軍残余ごと焦土化』……?」
暗号表を拾い上げたアレクセイの瞳が、急速に光を失っていく。
信じがたい文字列をなぞる指先が、痙攣したように激しく震えた。
ユーリ・カドガン「司令部の豚どもは、最初から俺たちを陣地ごと吹き飛ばす気配りをしてんだよ!」
ユーリは嘲笑混じりに吐き捨て、泥にまみれた銃身の泥を荒々しく拭った。
アレクセイ・フォン・ブラント「嘘だ……我が家が忠誠を誓い続けた軍が、私を……捨て駒にしたというのか……!」
絞り出された声は、もはや貴族将校の威厳など微塵も残していなかった。
アレクセイは胃液の混じる酸っぱい息を吐き出し、泥の床へ両膝をつく。
泥濘を掻きむしる白手袋が、引き裂かれて爪を剥いだ。
ユーリ・カドガン「国のためじゃねえ! 俺たちが生きてあいつらの顔に泥を塗りたくるために立ち上がれ!」
その怒声が狭い防空壕を満たした刹那、天井の排気ダクトから甲高い金属軋み音が響いた。
重厚な鋼鉄の観音扉が、強烈な蹴り込みによって外側から蝶番ごと吹き飛ぶ。
第三章: 毒煙の境界線

土煙の向こう側、濃密な死の静寂を纏った影が滑り込んできた。
カテリーナ・ヴァイス「息を止めろ。動けば心臓を撃ち抜く」
銀灰色の短い髪を揺らし、泥迷彩のフード深くから覗く琥珀色の双眸が冷酷に二人を射抜く。
敵国狙撃兵のカテリーナ・ヴァイスが構える短機関銃の銃口は、すでにユーリの心臓を正確に捉えていた。
アレクセイ・フォン・ブラント「ユーリ、伏せろ!」
絶望に沈んでいたはずのアレクセイが、獣じみた咆哮を上げてユーリの肩を突き飛ばした。
乾いた発砲音が狭隘な空間を反響する。
左腕の肉を裂かれながらも、アレクセイは血煙を散らして少女の胴体へとがむしゃらに食らいついた。
もつれ合って倒れ込む二人。
ユーリ・カドガン「捕まえたぞ、帝国のクソモグラが!」
体勢を立て直したユーリが影のように背後へ回り込み、コンバットナイフの冷たい刃先をカテリーナの細い喉元へ突き立てる。
皮膚一枚を切り裂く感触。しかし、少女の眉は微動だにしなかった。
カテリーナ・ヴァイス「……無駄だ。上を見ろ」
囁き声の冷徹さに、ユーリの視線が天井へ吊り上げられる。
通気口の裂け目から、油じみた黄色い霧が重たく蛇のように這い降りてきていた。
鼻腔を突くマスタードと腐敗した果実の異臭。
カテリーナ・ヴァイス「神経毒ガス……。帝国軍も撤退した。私たち全員、この谷底で消される」
アレクセイ・フォン・ブラント「条約違反の毒ガス弾まで……味方ごと、掃討する気か……!」
腕の傷を押さえるアレクセイの顔から、急速に血の気が引いていく。
黄色い霧はすでにトーチカの天井を覆い、じわじわと床面へと沈降を始めていた。
ユーリ・カドガン「喋るな、肺が焼け爛れるぞ!」
ユーリは迷うことなくナイフを引き抜くと、腰嚢から乱暴に引きずり出した予備のガスマスクを、カテリーナの顔面へ押し当てた。
ゴムバンドが彼女の銀髪を巻き込み、カチリと密着音が鳴る。
カテリーナ・ヴァイス「なぜ敵に……!?」
マスクの曇りガラス越しに、カテリーナの冷静な瞳が初めて大きく揺らいだ。
ユーリ・カドガン「使い捨て同士で殺し合って誰が得すんだよ! 少尉、お前もこれを被れ!」
残る一個の制式マスクをアレクセイの頭へ強引に被せると、ユーリは自らの軍用外套を破り、泥水で湿らせて口元へ幾重にも巻きつけた。
刺激臭が粘膜を焼き、喉の奥からせり上がる血の味が舌を痺れさせる。
ユーリ・カドガン「地下の壁を吹っ飛ばす! 生きてここから這い出るぞ!」
集積されていた対戦車爆薬の信管を歯で引き抜き、ユーリは脆弱な排水溝のコンクリート壁へと叩きつけた。
第四章: 生きて祖国を呪え
轟音と爆圧がトーチカの背壁を粉砕した。
ユーリ・カドガン「ゲホッ……ケホッ……! 外の空気も、クソみてえな硝煙の味しかしねえな」
崩落した瓦礫の裂け目から、ユーリが喀血しながら二人の肩を抱き上げ、泥濘の地表へと這い出た。
湿った布越しに吸い込んだ毒煙で気管支が焼け爛れ、吐き出した唾液にはどす黒い凝血が混じる。
カテリーナ・ヴァイス「伏せて。後方二百、味方と貴方たちの哨戒兵が追ってくる」
マスクを脱ぎ捨てたカテリーナが冷え切った瞳で背嚢から長銃を抜き、濡れた泥土に身を沈めた。
無駄のない流れるような動作でボルトを引き、湿った引き金を連続して絞る。
二条の閃光。
追撃してきた二つの影が、悲鳴を上げる暇もなく泥水の中へと崩れ落ちた。
両軍が合同で差し向けた「掃除屋」の残骸だった。
アレクセイ・フォン・ブラント「敵味方関係なく、生き証人を消す部隊か……反吐が出る」
アレクセイは血に濡れた軍服から、誇りであったはずの金刺繍の士官帽を引きちぎった。
そして、泥濘の奥深くへと容赦なく踏みにじる。
その青い瞳の奥に宿っていた青渋い理想は死に絶え、底知れぬ復讐の焔だけが静かに揺らめいていた。
カテリーナ・ヴァイス「弾は尽きた。私は帝国には戻らない。故郷の森へ帰る」
カテリーナは薬莢を排出し、空になった愛銃を躊躇なく泥の中へ投げ捨てた。
誰にも縛られない一匹の獣の足取りで、彼女は二人に背を向け、白樺の森へと歩みを進める。
アレクセイ・フォン・ブラント「私も戦死者として記録させよう。これからは、あの豚どもを告発するための亡霊となる」
金髪を泥水と血で固めたアレクセイが、迷いの消え去った右手をユーリへと差し出した。
震えは完全に止まっていた。
ユーリ・カドガン「上等だ。地獄の底から、生きてツケを払わせに行くぞ」
ユーリはその泥塗れの手を骨がきしむほど力強く握り返し、肺に残る毒の滓を焦土へと吐き捨てた。
鉛色の雲が裂け、差し込んできた冷たい朝日が無人地帯の境界線を鋭く照らし出す。
そこには、国家に殺されることを拒絶した者たちの、深く確かな足跡が刻まれていた。