第一章: 黒板の血痕と凍えた詩行
葛城 昭三「……『肉を削ぎて墨となし、老いたる羊飼いは自らの喉笛を鐘の舌とする』……」
だるまストーブの赤い火が、白髪交じりの痩躯の影を黒板に這わせる。すり切れたツイードジャケットの袖口を捲り、チョークの粉に塗れた指先で銀縁の老眼鏡を乱暴に押し上げた。肺の奥に溜まった冷気が、重い咳となって吐き出される。
葛城 昭三「狂人の遺書だ。こんなものが詩であるはずがない」
定年退職まで残り一ヶ月。豪雪で陸の孤島と化した分校の教卓の底から、なぜ失踪した御子柴の未完手稿『融雪の肉人形』が出てくる。
胃袋の底が冷え切るような悪寒に、喉仏が小さく上下した。
シラユキ(名目上の本名「葛城先生。その詩、第三連が抜けています」
引き戸が軋み、鼓膜を劈くような凄まじい吹雪が教室に吹き込んだ。丈の長いセーラー服に純白のカーディガンを羽織った少女が、足音一つ立てずにそこに立っている。光を反射しない漆黒の姫カット。白磁のように滑らかな肌に、雪のように淡い灰青色の瞳が、黒板の文字だけを射抜いていた。
葛城 昭三「シラユキくん……雪も払わずに。未発表の手稿だぞ、なぜ君が続きを」
シラユキ(名目上の本名「羊飼いの肺腑から零れ落ちるは、無垢なる娘の愛欲の氷片』……そう続くはずです。それは、死の文脈です」
シラユキは瞬き一つせず歩み寄る。冷え切った指先が、葛城の皺だらけの手に絡みついた。死体のように冷たい体温が、ウールのベスト越しに心臓を直接鷲掴みにする。灰青色の瞳が間近に迫り、甘く冷たい吐息が葛城の耳元をねっとりと撫で上げた。
シラユキ(名目上の本名「……先生。わたくし以外を、読まないでください」
葛城 昭三「君は、何を……」
血の気が引き、声が掠れる。
シラユキ(名目上の本名「見えますか。この村の人間は全員、この詩をなぞるために生きている『NPC』です。そして……先生を殺す役割を与えられているのも、あの村人たち」
窓ガラスが、悲鳴を上げるようにガタガタと鳴った。
吹雪の向こう側。分校の校庭に、何十人もの村人たちが泥に塗れた鍬や錆びた猟銃を握りしめ、じっと教室を見上げて立ち尽くしている。瞳孔が開いた無数の眼球が、一斉に葛城に向けられていた。
シラユキ(名目上の本名「逃げられません。でも、わたくしが先生の運命を書き換えてあげます」
ジリリリリリリリリリリリリ!!!
鼓膜を千切るような非常ベルが、けたたましく校舎に鳴り響く。狂気の幕開けを告げる合図だった。
第二章: 配役された狂気の箱庭

蔵森 茂蔵「問うなかれ、黄昏の扉を叩くのは鴉の番人。手には錆びたる鉄の鍵、羊飼いの心臓を抉る役目なり』……ヘヘッ、ヒヒヒッ!」
消えかけのストーブが、噎せ返るような煤の匂いを放つ職員室。雪まみれの長靴が床を黒く汚し、ボロボロの綿入り半纏を着込んだ男が立っていた。日焼けした深い皺の奥で血走った目が爛々と輝き、数本抜けた歯の隙間から黄ばんだ唾液が滴り落ちる。
葛城 昭三「蔵森さん!猟銃を下ろしなさい!君たちは何を演じているんだ!」
蔵森 茂蔵「演じてるでねえ。御子柴様が書いた詩こそがこの世界の台本だ。あんたは『殺される老いた羊飼い』だぁ!」
濁った両目が、まっすぐに葛城の眉間を捉える。冷たい金属の引き金に、黒ずんだ指が食い込んだ。壁一面に貼られた村人たちの顔写真と、赤い糸で結ばれた詩の相関図が、隙間風に煽られてバサバサと不気味な音を立てる。
シラユキ(名目上の本名「見ましたか先生。あれは言語によって思考を完全に上書きされた、壊れた肉人形です」
シラユキが一歩前に出る。少女の指先が、空間を軽く薙いだ。青白い閃光が、網膜を焼き切るような勢いで弾ける。
シラユキ(名目上の本名「《因果切断・世界事象テキスト改変》」
蔵森 茂蔵「あ……?」
不可視の衝撃波が走り、蔵森の持つ二連銃が音もなく真っ二つに両断される。鉄の断面が、まるでバターを切ったかのように滑らかに光っていた。蔵森の巨躯はそのまま見えない巨人に殴られたように宙を舞い、背後の黒板に激突して崩れ落ちる。
葛城 昭三「ヒッ……!?な、なんだ、今の光は……!」
シラユキ(名目上の本名「わたくしが元の世界で切り刻んできた魔物たちと同じ。……先生、あの男の命、今ここで刈り取りましょうか?」
純粋無垢な殺意を湛えた灰青色の瞳が、首を傾げて葛城を見つめ返す。狂気と隣り合わせの美しさに、呼吸が止まる。その時、昏倒した蔵森の懐から、傷だらけの黒いボイスレコーダーが転がり落ちた。
『再生を開始します』
無機質な電子音に続き、耳障りなノイズが走る。
御子柴 礼二「アハハハハ!凡庸だな、この村は言葉の墓場だ!私の詩を完成させる最後のピース、それは異界から来たお前だ、シラユキ!」
早口で傲慢な、熱に浮かされた声。失踪したはずの前任教師・御子柴の声が、薄暗い職員室の壁を震わせた。
第三章: 融雪の告白、狂える執着

葛城 昭三「御子柴は……最初から君を呼び出すためにこの詩を書いたのか?村人を狂わせ、私を生贄にして……!」
分校の体育館。頭上を見上げれば、無数の原稿用紙が天井から雪のように吊り下げられている。紙の擦れる音が、死者の囁きのように響き渡る。中央に設えられた巨大な祭壇の前に崩れ落ちた葛城の膝に、シラユキが静かに跪いた。
シラユキ(名目上の本名「いいえ、先生。御子柴はただの哀れな観客に過ぎません。わたくしをここに縛り付けたのは、彼の言葉ではない」
冷たい頬が、葛城の震える膝にすり寄せられる。インクとチョークの匂いが染み付いた葛城の手のひらを、シラユキは自らの両手で優しく包み込んだ。
シラユキ(名目上の本名「わたくしは前の世界で、侵入者を虐殺するだけの空虚なNPCでした。でも、この村に来て、あなたの震える手で頭を撫でられ、あなたの声で詩を教えてもらった時……わたくしの内に、初めて心という呪いが芽生えたのです」
シラユキの背後の虚空に、ガラスが割れるような音と共に無数の不可視の刃が展開する。彼女は葛城の硬直した腕を引き寄せ、自らの白く細い首元へと押し当てた。脈打つ冷たい頸動脈の鼓動が、葛城の掌に生々しく伝わってくる。
シラユキ(名目上の本名「御子柴の詩の結末は『老教師の死』です。でも、わたくしがそれを改竄します。先生の手で、わたくしの首を力いっぱい絞めてください」
葛城 昭三「や、やめろ……私が、君を……?そんなこと、できるわけが……!」
シラユキ(名目上の本名「わたくしを殺せば、存在崩壊の莫大なエネルギーでこの村の因果は消滅し、先生は生き残れます。それとも……わたくしと共に、この永遠の雪の中に閉じ込められますか?」
ドゴォォォォン!!!
体育館の重い扉が、外から激しく打ち破られようとしている。獣のような村人たちのうめき声と、太い丸太が容赦なく打ち付けられる轟音。扉の蝶番が悲鳴を上げ、ひしゃげ始める。
葛城 昭三「……ア、アハハ……」
乾いた笑いが、自らの喉から漏れた。震える指先が、少女の滑らかな喉笛にじわじわと食い込む。老いた教師の唇の端が歪み、諦念の瞳に真っ黒な執着の熱が灯り始めていた。
第四章: 白銀の檻、終わらない輪読
葛城 昭三「羊飼いは羊を捨てず、雪の魔女の檻にて永遠の眠りを貪る!』御子柴、お前の陳腐な戯曲など、私がここで書き換えてやる!」
体育館の扉が粉々に砕け散り、狂乱した村人たちが雪崩れ込んできた瞬間。葛城は教壇に飛び乗り、チョークを握り潰しながら、自らの裂けた掌から流れる血を混ぜて黒板に詩の最終節を叩きつけた。爪が剥がれ、黒板を引っ掻く不快な音が反響する。
シラユキ(名目上の本名「ああ……!先生……ッ!」
世界が、圧倒的な白に反転する。
狂乱と共に押し寄せた村人たちの顔から、一切の表情と生気が消え失せた。振り上げられた錆びた鎌も、引き金を引く寸前の猟銃も、無造作に床に落ちる。彼らは全員、目に見えない糸を切られた操り人形のように、その場に崩れ落ちて正座した。
――数週間後。
永遠の猛吹雪に完全に閉ざされた、木造校舎の一室。だるまストーブの赤々と燃える炎だけが、時間が凍結したような空間を照らしている。窓の外は、外界との繋がりを一切絶たれた純白の壁だ。
蔵森 茂蔵「……」
蔵森をはじめとする村人たちは、従順な生徒のように背筋を伸ばし、死んだ魚のような濁りきった瞳で教壇の葛城をじっと見つめていた。微動だにせず、瞬きすらしない。
シラユキ(名目上の本名「……先生。今日の詩の朗読は、どこからになさいますか?」
葛城 昭三「ああ、シラユキ。最後の行だ。『世界が白に埋もれようとも、私の言葉は君の喉元に触れ続ける』……さあ、皆で声を出して読みなさい」
生気を欠いた無機質な輪読の声が、教室に不気味に響き渡る。シラユキは葛城の隣に寄り添い、チョークの粉と血がこびりついた白髪にゆっくりと指を絡めた。冷え切った指先が、首筋から背骨をなぞるように滑り落ちる。
シラユキ(名目上の本名「一生、わたくしだけの先生でいてくださいね……。誰にも、渡しませんから」
背中をゾクゾクと這い上がる、毒に侵されたような快感。葛城は灰青色の瞳に見つめられながら、もはや逃れることのできない狂気の熱に深く溺れていく。♥ドクン、ドクン[/Heart]と、二人の心音だけが雪の檻の中で溶け合っていた。
黒板に書き殴られたおぞましい血文字の詩行が、ストーブの揺らめく火に照らされている。決して溶けることのない永遠の呪いが、赤黒く浮かび上がっていた。