第一章: 血塗れの男と震える密室
チカ、チカと寿命を迎えつつある蛍光灯が、湿り気を帯びたフロアを白く爆ぜさせる。
冷たい霧雨がアスファルトを穿つ深夜二時。
重低音を響かせて回転する大型乾燥機の隅で、猫宮雫はカタカタとノートPCのキーボードを乱打していた。
肩口で切りそろえられた黒髪ボブが、タイピングの振動に合わせて細かく揺れる。
ぶかぶかのスウェットの袖口を無意識に噛み締めながら、締め切りという見えない魔物と戦っていたその時だ。
カランコロンと、深夜の静寂を引き裂くように甲高いドアベルが鳴り響く。
入ってきたのは、黒いロングコートの裾から雨だれを滴らせる長身の男――神代蓮司。
無造作に伸びた黒髪の隙間から覗く三白眼は、獲物を品定めする肉食獣のごとく凶悪極まりない。
何より雫の視線を釘付けにしたのは、彼の白いシャツと両手、そして脇に抱えられたビニール袋の惨状だった。
生々しい深紅の液体が、そこかしこにべっとりと付着している。
猫宮 雫「ひっ……!?」
血……!? 嘘でしょ、あの量、人間一人分どころじゃない……!
声にならない悲鳴を飲み込み、雫はキーボードに置いた指を硬直させる。
蓮司の刃物のように鋭い視線が、室内にただ一人残っていた雫を正確に射抜いた。
喉の奥をヤスリで削るような、低くドスのある声が鼓膜を震わせる。
神代 蓮司「……見たな? 悪いが、今夜起きたことは誰にも喋ってもらっちゃ困るんだよ」
丸眼鏡の奥で雫の瞳が限界まで見開かれ、全身の血液が一瞬にして足元へ退いていく。
ガチガチと奥歯が鳴り、膝の震えを止めることができない。
猫宮 雫「た、助けて……私、何も見てません、何も……!」
神代 蓮司「痕跡は一切残さねえ。これが俺の流儀だ。朝までに完全に消さなきゃならねえんだよ」
蓮司は雫の懇願など歯牙にもかけず、コートの内ポケットへゆっくりと右手を差し入れる。
引き抜かれたのは、銀色に妖しく光る鋭利な金属ヘラ。
カチリ。
硬質な金属音が、深夜のランドリーの冷たい空気に致命的な亀裂を入れた。
第二章: 証拠隠滅のプロフェッショナル

猫宮 雫「来ないで! 通報します、今すぐ警察を呼びますから!」
神代 蓮司「喚くな! おい嬢ちゃん、いいからこの惨状を見ろ!」
蓮司は抱えていたビニール袋から、真っ赤に染まった布の塊を乱暴に引っ張り出す。
ベチャリと重苦しい音を立てて、それはプラスチックの作業台へ叩きつけられた。
ドロリとした粘り気のある紅の飛沫が卓上に跳ね、雫の頬の数ミリ横を掠めていく。
極度の緊張のせいか、甘く濃厚な鉄錆のような饐えた匂いが鼻腔を支配し、雫は嘔吐感を必死に飲み込んだ。
神代 蓮司「飛び散り方が尋常じゃねえ……時間をかければ繊維の奥まで固まって二度と落とせなくなる。一刻を争うんだ」
猫宮 雫「せ、繊維……? 解体じゃなくて……?」
神代 蓮司「骨まで染み渡る前に、アルカリ性の特殊な液体で分解して、超音波で叩き潰す。……お前も手伝え」
特殊な液体で分解!? 完全に死体損壊の手口じゃないですか! 私、死ぬんだ……ここでバラバラにされて……!
蓮司が無理やり押し付けてきたスポンジとヘラを、雫は恐怖で痙攣する両手で受け取る。
抗えば即座に首を掻き切られるという直感が、彼女の理性を完全に麻痺させていた。
猫宮 雫「うぅ……私、共犯になんてなりたくないのに……っ!」
神代 蓮司「もたもた擦るな、繊維の目に沿って垂直に叩け! この『赤』を絶対に世間に出すわけにはいかねえんだよ!」
涙目で紅の布を叩き洗いする雫の耳に、蓮司の怒号が容赦なく降り注ぐ。
逃げ場のない密室で、二人が異様なテンションで血まみれの布を処理し続けていたその時だ。
外の漆黒の闇を切り裂き、青と赤の回転灯がガラス戸を激しく照らし出した。
第三章: 突入、そして暴かれた凶器

ガバアンッ。
破壊音と見紛うほどの爆音とともに、自動ドアが力任せに押し開けられる。
びしょ濡れの雨合羽を羽織った真壁巡査が、腰の警棒を抜き放ちながら嵐のように踏み込んできた。
真壁 巡査「そこまでだ動くな! 警察だ! 両手を頭の後ろで組め!」
猫宮 雫「お巡りさん助けて! 証拠隠滅を強要されてます! この人、殺人犯です!」
雫は手にしていた血塗れのスポンジを放り出し、真壁の背後へと転がるように逃げ込んだ。
真壁は赤黒く染まった作業台と、凶器のヘラを握りしめた蓮司の凄惨な面構えを一瞥する。
長年の経験が警鐘を鳴らすかのように、真壁の頬の筋肉がピクリと引きつった。
真壁 巡査「現行犯で署までご同行願おうか! この大量の血痕は何だ!」
神代 蓮司「血だあ!? てめえ、パティシエ自慢の『フランボワーズと木苺の特製コンフィチュール』を血塊呼ばわりすんのか!?」
真壁 巡査「……は? こんふぃ……?」
威嚇の姿勢を崩さない真壁に対し、蓮司は舌打ちを一つ。
ポケットから取り出したのは、隠し持っていたナイフなどではない。
細長い試作用の銀スプーンと、市販の強力な部分洗い用洗剤のボトルだった。
神代 蓮司「糖度六十五度! ペクチンが完全に凝固する前に落とさねえと、俺の八万円のオーダーメイド白シャツがおしゃかになるんだよ!」
蓮司の怒号が響き渡った瞬間。
熱気を含んだランドリーの空気が、ふわりと反転した。
鼻腔を突く血生臭さなど最初から存在しない。
そこに広がっていたのは、芳醇なキルシュワッサーと甘酸っぱい木苺が煮詰められた、極上のアロマ。
猫宮 雫「……あ、あれ? すっごく、甘い匂い……?」
呆然と呟く雫。
振り上げた警棒の行き場を失い、石像のように固まる真壁。
静寂が訪れた室内に、真壁の腹の底からグウゥゥゥと盛大な雷鳴が響き渡った。
第四章: 深夜二時半の甘い取引
ドラム式洗濯乾燥機が、快音を立てて純白の泡を回し続けている。
プラスチックのベンチに横一列に並んだ三人の前で、蓮司は保冷バッグのジッパーを開いた。
取り出されたのは、銀色の台座に乗ったホールタルト。
蓮司は手慣れたナイフ捌きで、紅蓮のジュレが美しく輝くベリータルトを三等分に切り分ける。
神代 蓮司「迷惑料だ、食え。試作の途中でボウルごとひっくり返したが、こっちのホールは無事だったからな」
ぶっきらぼうに紙皿を差し出され、雫と真壁は顔を見合わせる。
恐る恐る一口分を切り取り、口へ運ぶ。
次の瞬間、二人の脳内に落雷のような衝撃が走った。
猫宮 雫「……な、何これ、犯罪的に美味しい……!」
サクサクと小気味良い音を立てるタルト生地から、焦がしバターの芳香が爆発する。
舌の上でとろける濃厚なピスタチオクリーム。
それを包み込むように、鋭い酸味の利いたラズベリーが完璧なワルツを踊り狂う。
真壁 巡査「う、美味すぎる……! 夜勤明けの疲労した身体に細胞レベルで染み渡るぞ……職務質問どころの騒ぎじゃない!」
制服を汚すまいと前かがみになりながら、真壁は猛然とタルトを貪り始めた。
一方の雫は、口の周りに赤いジュレをつけたまま熱に浮かされたように立ち上がる。
ズリ落ちた丸眼鏡を人差し指で乱暴に押し上げると、ノートPCの前へ陣取り、再び猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
猫宮 雫「すべての伏線は完璧に回収されました……! 次回作のタイトルは『午前二時のランドリー殺人事件(仮)』で決まりです! 最高のシチュエーション、いただきます!」
カチャカチャカチャッ、と凄まじいタイピング音が鳴り響く。
その異様な執念に呆れたように、蓮司はコーヒーの缶を傾けながら低く笑った。
神代 蓮司「おい嬢ちゃん、調子に乗って服にクリーム落とすなよ。もし落としたら……今度こそ容赦しねえからな」
三白眼の奥に宿る、職人特有の微かな狂気。
猫宮 雫「ひっ、やっぱり顔がめちゃくちゃ怖いです神代さん!」
ピピピピ、と洗い上がりのブザーが鳴る。
真っ白に蘇った八万円のシャツを掲げる蓮司の背後で、三人の笑い声が深夜の湿った街へと溶けていった。
胃袋を完全に掴まれた巡査と、新作のネタを掴んだ作家。
奇妙な共犯関係の甘い余韻だけが、薄暗い蛍光灯の下にいつまでも漂っていた。