第一章: 絶望と快楽の針路
コンクリートの壁を這う青白い蛍光灯が、チチ、チチ、と不規則に瞬き、冷え切った闇を薄汚く切り取る。
オゾンの焼ける悪臭と、排気システムの死んだ湿った空気が充満する、地下十五メートルの隔離独房。
漆黒の監査官制服に身を包んだシン・アパシーは、長い前髪の隙間から、不気味な赤い光を放つバイザーを向けた。
無機質なガラスの奥, 彼の双眸は、極限の飢餓感にぎらついている。
シン・アパシー「調律の時間だ。君の無駄なノイズを、私がすべて引き取ってあげる」
酷く青白い皮膚を晒すシンの首元で、銀色の注入スロットが、凍りつくような冷たい光を鋭く反射した。
その凍てついた視線の先、灰色の髪を乱した少女、ライラ・ヴォルテックスが、ボロボロの拘束衣の中で狂おしく牙を剥く。
彼女の首の後ろに埋め込まれた巨大な排出ポートから、バリバリと青白い火花が容赦なく飛び散った。
ライラ・ヴォルテックス「あんたのその冷たい指で、私の地獄を掻き回してみてよ。耐えられるならね!」
刹那、放出された過電流が独房の電圧を狂わせ、チカチカと悲鳴を上げる照明を一段と暗く沈める。
常人なら脳の神経を瞬時に焼き切られるほどの超高周波ノイズが、閉ざされた空間全体を激しく震わせた。
シンは、バイザーの奥で自身の呼吸が劇的に浅くなり、肺が酸素を拒絶していくのを感じて、小さく喉を鳴らす。
首の裏の金属スロットが、過剰な同調を求めてドクドクと、肉を引き裂くような不快な拍動を刻み始めていた。
指先をかすかに震わせながら、シンは重厚な金属製のドレインニードルを構え、彼女の細い首筋へとゆっくりと近づけていく。
ライラの赤く光る瞳が、至近距離でシンのバイザーに狂おしく映り込んだ。
逃げも隠れもしない。ただ、圧倒的な破滅を孕んだ熱量が、触れ合う寸前の皮膚からじりじりと伝ってくる。
グサリ、と肉と金属が噛み合う凄絶な音が、静寂の鼓膜を容赦なく打ち抜いた。
ライラ・ヴォルテックス「あっ、は、あぁぁぁ!」
ドレインニードルがライラの排出ポートに完全に噛み合い、凶暴な青い電流がシンの指先から腕へと、一気に駆け上がる。
暴力的な電気信号の奔流に、シンの全身が激しく痙攣し、膝の骨がきしむ。
バイザーの下、シンの瞳は完全に上を向き、白濁していく視界の中で脳髄がぐつぐつと沸騰していく。
それは、言葉にできないほど凄絶な孤独と、世界を今すぐ消し去りたいというライラの漆黒の衝動が混じり合った、濃厚な泥流だった。
心地いい。脳の電磁波が、彼女の地獄と完全に重なって、境界線を失っていく。
シン・アパシー「……素晴らしい。もっと、もっと見せてくれ、君の壊れた深淵を」
ライラ・ヴォルテックス「あんた、頭がイカれてるわ……! 私の絶望が、そんなに気持ちいいの?」
ライラの荒い吐息が、微かな熱を帯びて、シンの青白い首元にせわしなく吹きかかる。
シンは冷徹な監査官としての仮面をかなぐり捨て、恍惚の表情でニードルをさらに奥深く、肉の奥へとねじ込んだ。
二人の乱れた心音が、寸分の狂いもなく完全にシンクロし、重なり合う。
精神を隔てていた最後の障壁が決壊し、感覚の泥流がお互いの脳を狂おしく行き来する、背徳の快感が全身の毛穴を無理やり開かせた。
警告:精神汚染許容値超過。即座に接続を解除してください。
真っ赤に明滅する警告エラーログがシンの限界寸前の視界を埋め尽くすが、それを遮るように、重々しい警報音が地下室に鳴り響く。
第二章: 共犯者の箱庭と裏切り

室内にネットリと充満する、不快なカビの臭いと、湿ったコンクリートの埃の匂い。
冷たい闇に沈む私設地下研究所の天井からは、酸性雨の雫がポツリ、ポツリと、無機質な鉄板に落ちては乾いた音を立てる。
シンは、傷だらけの金属製作業机に浅く腰掛け、ライラの首筋に残る焼け爛れたポートの痛々しい傷跡を、冷たい指先でそっとなぞった。
ライラ・ヴォルテックス「……冷たい。でも、その指がないと、もう頭がどうにそうなの」
シン・アパシー「わかっている。私の脳も、君の苦痛を吸い上げなければ呼吸すら忘れてしまう」
ライラは灰色の乱れ髪をシンの胸元に預け、彼がそのただれた首元を愛撫するたびに、小さく背中を震わせた。
お互いの湿った皮膚に触れるたび、パチパチと微弱な静電気が二人の神経を、優しく、しかし強固に繋ぎ止めていく。
冷たく抱きしめ合う互いの肉体の温度だけが、この冷酷で管理し尽くされた都市の中で、唯一本物と呼べるものだった。
ドゴォン!
分厚い鋼鉄の隔壁が、凄まじい爆風とともに一瞬で吹き飛び、飛び散る赤い火花が暗闇を乱暴に引き裂いた。
ライラ・ヴォルテックス「きゃっ……!?」
シンは咄嗟に腕を伸ばしてライラを自身の背後に庇い、立ち込める黒煙の向こうを鋭い眼光で睨み据える。
煙を切り裂いて現れたのは、顔の左半分だけを生身に残し、それ以外の部位を全て冷徹なクロームシルバーの機械で武装した男だった。
ギデオン・クラフト「感情はバグだ。最適化された世界に、不要なノイズを響かせるな」
ギデオン・クラフトが、感情を完全に排除した冷たい義眼の赤い光を細め、哀れむように二人を見下ろす。
シン・アパシー「……ギデオン。監査局がここを特定するとは、計算が早すぎる」
ギデオンは、抑揚を一切持たない無機質な金属声で、容赦のない冷酷な事実を告げた。
ギデオン・クラフト「哀れだな、シン。お前がその女に溺れ、感情の寄生虫と化すことは最初から計算の内だ」
すべては仕組まれていた。
ギデオンは、最初からシンの精神に潜む共感覚のバグを把握した上で、あえて泳がせていたに過ぎなかった。
二人が強く接続する際、脳髄から空へと出力される高周波の奇妙な軌跡。
それこそが、地下スラムに深く潜む反乱分子たちの精神ネットワークを、一網打尽に逆探知するための中継アンテナだったのだ。
私たちの繋がりさえも、奴らの冷徹なシステムの歯車に過ぎなかったというのか。
裏切りの底知れない冷気が、シンの背筋をゆっくりと凍らせていく。
ライラはシンの黒い制服の裾を、爪が剥がれんばかりの力で強く握りしめ、その指先は血の気が完全に引いて白くなっていた。
だが、その暗い絶望の底で、二人の狂った視線が確かに絡み合う。
ライラ・ヴォルテックス「世界中を敵に回したってわけね。……上等じゃない、シン」
シン・アパシー「ああ、極上のノイズを、奴らのシステムに叩き込んでやろう」
ギデオン・クラフト「無駄な抵抗を。フォーマットを開始する」
ギデオンが右腕に埋め込まれた端末を冷酷に操作した瞬間、室内に死をもたらす高周波の破壊律動が充満し始めた。
第三章: 極彩色の神経融解

ピィィィィィ――!
脳髄を直接錆びた剃刀で乱暴に削られるような超高周波が、完全に空間を支配する。
シン・アパシー「が、あぁっ……はっ、あ、ぐ……!」
シンの目から、鼻から、そして首元の銀色に光るスロットから、タラリと生暖かい赤い鮮血が流れ落ちた。
激しく床へ膝をつき、どくどくと血を吐きながらも、シンはライラを背に庇うことだけは決してやめなかった。
その必死な背中を見つめるライラの赤い瞳に、今まで見たこともない、狂おしいほどの光が宿る。
それは、都市のどんな高度なメーターでも決して計測できない、泥濁りの純愛だった。
ライラ・ヴォルテックス「ねえ、シン。あんな冷たい世界に戻るくらいなら、私の地獄で一緒に溺れよう」
ライラは上半身を拘束していた布を力任せに引き裂き、シンの背中に強く抱きついた。
そして、自らの首の後ろにある、過電流で真っ赤に発熱し、皮膚を焦がしている排出ポートを、シンの首のスロットへ強引に押し当てる。
物理的な強制連結。
バチバチバチッ!
二人の重なり合った肉体が、凄まじい青紫の電弧によって狂暴に包み込まれる。
シン・アパシー「あ、あぁぁぁぁぁッ!!! 脳が、溶ける、一つに……っ!」
ライラ・ヴォルテックス「あははははっ! すごい、すごいよシン! 全部混ざり合っていく……!」
引き裂かれるような痛覚。全身を駆け巡る快感。他人のものだった記憶。深い絶望。
その全てが、一つの超高熱の奔流となって、二人の脆い神経を融解させ、不可逆に融合させていく。
二人の激しい結合部から解き放たれた感情の超巨大エネルギー波形は、目に見える津波となって制御室のギデオンへ逆流した。
ギデオン・クラフト「な、に……!? 神経接続による、逆周波信号だと……!? 遮断しろ、早く……!」
警告:過負荷。システムダウン。感情調律サーバー、物理的崩壊を開始。
地下ドーム全体の配電盤が、次々と激しい火花を散らして連鎖的に大爆発を起こしていく。
街を支配していた感情管理メーターが次々と音を立てて割れ、何百万もの市民が、突然取り戻した自己の感情の重みに耐えかねて叫び声を上げた。
地下室の頑丈な天井が耐えきれずに崩落し、大量の瓦礫と酸性雨が容赦なく降り注ぐ中、二人はしっかりと抱き合ったまま、静かに動かなくなった。
シンのバイザーは完全に真っ二つに割れ、その瞳は、歪んだ至福の笑みを湛えたまま静止している。
ライラもまた、彼の青白い首に顎を預け、どこまでも満足そうにそっと目を閉じていた。
現実の肉体は、脳細胞が完全に焼き切れた、二度と動かない抜け殻に過ぎない。
だが、その魂は、管理システムの決して届かない、脳内の無限に続く温かい地獄――二人だけの美しい楽園へと、永遠に旅立っていた。
完全に静まり返った廃墟の中で、ギデオンはただ一人、自らの失われた左腕から漏れ出る哀れなノイズを聴いていた。
……これが、奴らの遺した、愛という名のバグか。
崩壊した天井の大きな隙間から差し込む、冷たく澄んだ月光だけが、永遠に繋がれた二人の静かな骸を、優しく照らし続けていた。