第一章: 忌み喰らいの狂宴
橘 紗夜「悠真様、来ないで! 私の血が、奴を呼び寄せてしまったのです……っ!」
深夜の豪雨が叩きつける廃精神病院、地下三階の解剖室。
ひび割れた緑青色のタイルを、濃厚な鉄錆の匂いが這い回る。
湿りきったコンクリートの隙間から這い出たのは、節くれだった無数の足を蠢かせる全長三メートルの肉百足。
節ごとに浮かび上がる無数の人面が、爛れた赤黒い唇を歪めて紗夜の細い足首へ顎を開いた。
藍染めの袴を泥水に濡らした紗夜は、陶器のように白い膝を硬い床に打ち付け、深い紅色の瞳から大粒の雫をこぼす。
指先を強く握り締めすぎて爪が掌に食い込み、そこから滲む甘い血の香りが、空間の空気をねっとりと濃密に変質させていた。
橘 紗夜「私はただの餌……また貴方に、毒を盛ってしまう……っ」
御門 悠真「黙れ紗夜。……いい匂いだ」
闇の底を切り裂いて、濡れ羽色の無造作な黒髪を揺らす悠真が歩み出る。
病的なまでに色素の薄い肌、射抜くような三白眼が異形の肉塊を冷ややかに捕捉した。
黒い襟高の長着に羽織った重いトレンチコートを翻し、古びた鉄の指輪を嵌めた右手を躊躇なく怪異の口腔へ突っ込む。
肉百足が無数の脚を悠真の腕に巻き付け、皮膚を食い破りながら紫黒の呪毒を血管へと注ぎ込んだ。
悠真の腕を巡る血管がドス黒く膨れ上がり、皮膚の下で蠢く。
しかし悠真の薄い唇は、苦痛ではなく歪んだ歓喜に釣り上がっていた。
御門 悠真「これほど濁り、煮え滾った怨念の塊は三年ぶりだ。……ああ、舌が痺れる」
奥歯を剥き出しにし、悠真は怪異の頭蓋ごと霊核を噛み砕いた。
生々しい肉と骨の軋む音が地下室の冷気を震わせ、濃縮された呪詛の飛沫が悠真の頬を濡らす。
骨髄の髄まで貪る咀嚼音だけが、豪雨の唸りを塗りつぶしていった。
悠真は滴る黒い汚汁を喉仏を上下させて嚥下し、紅く染まった唇を拭うこともせず、床に崩れ落ちる紗夜を見下ろした。
荒い呼吸の熱が、冷え切った地下室の空気をじりじりと焦がす。
二人の間に漂う、致死量の毒と渇望。
悠真の長い指が紗夜の顎をすくい上げ、親指の腹で彼女の濡れた下唇を強く押し開いた。
御門 悠真「お前の血は、最高の調味料だな。紗夜、次はもっと濃い奴を連れてこい」
首筋に這う悠真の指先の冷たさに、紗夜の背筋が激しく跳ねる。
恐れと悦びの境界線が融解し、潤んだ瞳が熱狂に濁っていく。
橘 紗夜「はい……悠真様。私の命のすべてを、貴方の糧に……♥」
二人の異常な交感の最中、闇の奥から乾いた拍手の音が不協和音となって響いた。
第二章: 蜜と毒の取り引き

九条 禍都「見事な食べっぷりだね、悠真君。だが、そろそろ胃袋が破裂する頃合いじゃないかい?」
高級アンティークサロンの深く沈む革張りのソファ。
紫煙を燻らせる九条が、誂えの三つ揃えスーツの脚を組み替えながら口角を持ち上げる。
琥珀色の色眼鏡の奥、針のように細い瞳が机上に一枚のレントゲン写真を放り出した。
そこには人間の肺と心臓を黒い樹根のように覆い尽くし、胸郭を食い破らんとする霊的病巣が写し出されていた。
黒い影は今この瞬間も、悠真の肋骨の裏で脈動を刻んでいる。
悠真は荒い息を殺し、喉元までせり上がる血の味を呑み下した。
御門 悠真「貴様、何の真似だ」
九条 禍都「事実の宣告さ。君の一族の寿命は二十五歳。あと一度でも特級呪物を喰えば内側から弾け飛ぶよ」
紗夜の息が、ひゅっと細く引きつる。
自らの袖口を破れんばかりに握りしめ、その指先は血の気を失って蒼白に震えていた。
橘 紗夜「嘘……悠真様が死ぬ……? 私が怪異を呼び寄せ続けたせいで……?」
御門 悠真「取り乱すな紗夜。こいつの戯言だ」
悠真は低く言い捨てたが、その額には冷たい汗が滲んでいる。
胸の奥を突き上げる激痛を悟られぬよう、右手の指輪を骨がきしむほど強く握り込んだ。
九条 禍都「戯言じゃないさ。助かる道は一つだけある」
九条は細身の指で机上の桐箱の蓋を滑らせ、その中身を惜しげもなく晒した。
中には、不気味な青黒い燐光を放ちながら濡れた音を立てて脈動する『人魚の心臓』。
漂う甘美な腐敗臭が、室内の空気を一瞬で麻痺させる。
九条 禍都「極上の生贄にこれを飲ませ、怪異化させなさい。その生贄ごと丸呑みにすれば君は生き残る」
悠真の瞳に殺意が爆ぜた。
絨毯を蹴り上げ、九条の胸倉を掴んで銀時計の鎖を引きちぎる。
御門 悠真「ふざけるな! 誰がこいつを喰うか!」
しかし悠真の怒声の影で、紗夜の視線は青黒い心臓に吸い寄せられていた。
怯えは完全に消え去り、その瞳には底知れぬ殉教者の恍惚が宿っている。
唇からわずかに零れる吐息が、部屋の温度を狂わせる。
橘 紗夜「……私が悠真様の血肉に、なれるのですね?」
悠真の制止の叫びよりも速く、紗夜の白い手が伸びた。
迷いなく、脈打つ肉塊へとその鋭い爪を突き立て、口内へと押し込んだ。
第三章: 胎動する純血の毒婦

暴風雨が神楽殿の古い木組みを激しく軋ませ、破れた障子から雨粒が吹き荒れる。
床に刻まれた血の陣の中心で、紗夜の純白の肌に青黒い濡れた鱗が急速に芽吹いていく。
背中の皮膚が内側から裂け、光沢を帯びた無数の紅い霊糸が蜘蛛の網のように天井へ吹き上がった。
九条 禍都「神話級の怪異『喰人魚』の誕生だ! さあ喰うかい、喰われて死ぬかい、悠真君!」
悠真は胸の病巣を爪で掻きむしり、黒い血を神楽殿の板敷きに吐き散らした。
肺が灼けつき、呼吸が途切れる。
そこへ容赦なく飛来した紗夜の紅い霊糸が、悠真の両手両足を貫き、床板深くに縫い止めた。
御門 悠真「紗夜……やめろ、意識を保て……っ!」
骨を軋ませながら叫ぶ悠真を見下ろす紗夜の瞳は、理性を失い、純粋な捕食者の色に染まっていた。
橘 紗夜「熱い、身体が引き裂かれそうです……悠真様。でも、これでやっと役に立てる……!」
紗夜は人のものならざる二重の咆哮を喉の奥で震わせ、悠真の腰の上に跨がった。
氷のように冷たい鱗に覆われた指が、悠真の裂けた唇をねっとりとなぞる。
引き裂かれた着物の胸元から、紗夜の異様な熱を帯びた肌が悠真の胸板に押しつけられた。
橘 紗夜「貴方が欲しかったのは怪異じゃない、私でしょう? 私を喰べて、貴方の骨の中で生かしてください」
耳元に吹きかけられる吐息は毒そのもの。
神経を焼き切る甘美な毒気が悠真の思考を奪い去ろうとする。
悠真の胸の呪印が、破裂寸前の脈動を打つ。
悠真は血反吐を吐き散らしながら、瞳の奥に爛々と獣の火を灯した。
御門 悠真「俺はお前を愛しているからこそ、喰えないんだよ……ッ!!」
悠真の拒絶に、紗夜の瞳が一瞬だけ悲痛に揺らぐ。
だが九条が冷ややかに指を鳴らした瞬間、見えない傀儡糸が紗夜の首を強引に跳ね上げた。
歪んだ怪異の顎が開き、鋭利な牙が悠真の喉笛へと容赦なく振り下ろされる。
第四章: 蠱毒の口づけ
牙の切っ先が皮膚を裂き、鮮血が滲み出たその刹那。
悠真の右手の鉄の指輪が、甲高い音を立てて砕け散った。
封印されていた呪詛喰らいの原初的な力が悠真の全身の毛細血管を駆け巡る。
御門 悠真「九条……貴様の思い通りにはさせん!」
悠真は両腕の筋肉を引きちぎりながら霊糸を力任せに引き裂いた。
滴る血も厭わず、振り下ろされた紗夜の頭部を両腕で力任せに抱き寄せる。
剥き出しの牙を強引に押し込み、二人の唇が激突した。
隙間から飛び散る紅い生血と、青黒い人魚の燐光。
橘 紗夜「んっ……!? 悠、真……様……!?」
悠真は暴れる紗夜の顎を砕かんばかりに固定し、彼女の口腔の奥深くまで舌をねじ込んだ。
噛み砕かれそうな激痛の中、彼女の心臓に巣食う『人魚の呪毒』そのものを、己の肺腑へ直接吸い上げる。
吸い上げられる呪詛が悠真の喉を灼き、黒い血管が首筋から顔面へと蔦のように浮き上がった。
目尻から一筋の血が滴り、紗夜の頬を濡らす。
逃げ場を奪われた紗夜は、悠真の背中に爪を立て、激しい痙攣とともに身悶えた。
御門 悠真「ん……ぐ……紗夜……お前の毒は、死ぬほど美味い……っ」
貪るような吸音と、混ざり合う荒い呼吸。
悠真は紗夜の命の毒を、ただの一滴も零すことなく己の胃袋へと流し込んでいく。
九条 禍都「馬鹿な……呪詛の核を生身で吸い尽くして呑み干す気か!?」
悠真は喉仏を大きく鳴らし、最後の一筋の青黒い光を完全に嚥下した。
その瞬間、悠真の胸を満たしていた病巣が、吸収した人魚の心臓の超常的な生命力によって激しく燃え上がる。
悪意と呪いが純粋なエネルギーへと反転し、傷口から白い浄化の煙を上げてジュウと音を立てて焼き消えていく。
硬質だった鱗が剥がれ落ち、ただの柔らかな肌に戻った紗夜が、悠真の胸の中へ崩れ落ちた。
悠真は血にまみれた口元を手の甲で無造作に拭い、背後で腰を抜かす九条を冷酷な三白眼で見据える。
御門 悠真「九条。次は貴様が溜め込んだ悪意を、骨の髄まで啜ってやる」
九条は怯えきった悲鳴を噛み殺し、割れた色眼鏡を拾うこともできず、嵐の闇へと無様に転がり逃げ去った。
風が止み、神楽殿に訪れた静寂。
腕の中で意識を取り戻した紗夜が、微かに潤んだ紅い瞳を悠真に向けた。
橘 紗夜「悠真様……私、死ねませんでした……」
悠真は紗夜の濡れた黒髪を乱暴に掻き上げ、互いの額を隙間なく重ね合わせた。
触れ合う額から伝わる、生々しいほどの熱と拍動。
悠真の親指が、紗夜の腫れた下唇を痛いほどに押し潰す。
御門 悠真「一生、俺に毒を盛り続けろ。毎晩、残さず貪り食ってやる」
紗夜の瞳に再び甘美な毒の光が満ち、その口元が歓喜に歪んだ。
橘 紗夜「……はい、悠真様。骨の髄まで、何度でも……♥」
雲の切れ間から差し込む薄明かりの中、絡み合う二つの影は、決して解けぬ呪いのように強く結びついていた。