第一章: 終わりの始まり
鉛色の空から、音もなく舞い落ちる灰色の雪。
錆びた鉄の臭気が鼻腔を焼き、冷たい石畳が素足を凍らせる。
ドクン、ドクン。
首筋に触れるのは、鋭く研ぎ澄まされたギロチンの刃。骨が断ち切られる凄惨な音を鼓膜が拾うより早く、世界は純白の閃光に呑み込まれた。
大きく息を吸い込む。肺を満たす冷たく乾いた夜気。こみ上げる激しい咳。
豪華な天蓋付きのベッド。シャンデリアの淡い光を弾く、月の光を編み込んだような銀髪。血のように紅い瞳が、手鏡の中でひくひくと震えながら瞬く。喪服を思わせる漆黒のレースドレスの裾を無意識に握りしめ、ルクレツィアは喉の奥で荒い喘ぎを漏らす。
また、戻った。七度目の、あの夜へ。
首筋にうっすらと滲む冷や汗を手の甲で拭う。痛みの記憶が幻肢痛のように細胞を焼く。男など、すべて肉欲で操れる愚かな生き物。そう信じ、誰にも心を許さずに盤面を動かしてきたはず。だが過去六回、彼女は必ずあの冷たい処刑台で命を散らす運命を辿った。
ならば、盤面そのものを破壊するしかない。
立ち上がり、強い薔薇の香水を首筋に一滴。向かう先は、暗く冷え切った城の地下牢。
カツ、カツ。湿った石壁に反響するヒールの音。
鉄格子越しに広がる闇の中、彼がそこにいた。
漆黒の髪が目元を覆う、感情の読めない冷たい三白眼。帝国の黒い軍服を隙なく着こなす長身が、身じろぎ一つせずに佇む。全身から死の匂いを漂わせる処刑人、ゼクス。
彼こそが過去すべての生において、無機質にルクレツィアの首を刎ねた死神。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「鍵を開けなさい」
開く鉄の扉。冷気と、古い血の匂いが混じった空気が鼻を突く。
ルクレツィアは一歩踏み込み、ゼクスの胸ぐらを掴む。長身の男を強引に石壁へと押し付ける。背中が壁に当たる鈍い音。
彼を見上げるルクレツィアの紅い瞳に宿る、妖艶な光。
自身の甘い薔薇の香りと、コルセットの奥から立ち昇る肌の熱を、意図的に彼の鼻先へと押し付ける。
顔を近づけ、ゼクスの耳元へ。
「私を殺す前に……私の犬になりなさい。そうすれば、極上の骨を与えてあげる」
男の耳介を撫でる吐息。
ゼクスの三白眼が伏せられる。黒い軍服越しの分厚い胸板が、ほんのわずかに上下した。
彼の大きな手がゆっくりと持ち上がり、ルクレツィアの漆黒のレースドレスの隙間、柔らかい太ももの素肌に触れる。
♥
熱い。氷のように冷たい外見とは裏腹に、指先から伝わる体温が異常なほど高い。無骨な指先が、微細な震えを伴いながら白い肌をなぞる。
ゼクス「御意。お嬢様のお心のままに」
低く掠れた声。その一言に、ルクレツィアの唇の端が歪む。
やはり、男はただの犬。この男も容易く飼い慣らせる。
自身の魅了が完璧に機能したと錯覚するルクレツィア。
だが、壁に押し付けられ、首を垂れるゼクスの前髪の奥。伏せられた三白眼には、暗く泥濘むような、ルクレツィアへの狂おしいほどの愛と、吐き気を催すほどの絶望が渦巻いていることに、彼女はまだ気づいていない。
運命の歯車が、ひどく歪な音を立てて逆回転を始める。
◇◇◇
第二章: 焦燥と熱の逆転
王城の夜会。黄金のシャンデリアが眩い光を放つ広間。
極上のワインと、貴族たちの薄っぺらな笑い声が交錯する中、ルクレツィアの背筋を氷の刃がなぞる。
広間の対角線。眩しいほどの金髪と碧眼、煌びやかな王族服を纏う王太子リヒャルト・フォン・アインスブルク。優雅にグラスを揺らしながら、粘り着くような視線をルクレツィアの全身に這わせる。
リヒャルト・フォン・アインスブルク「美しいね、クロイツ公爵令嬢。その誇り高い顔が、欲望でぐちゃぐちゃになるのが見たいんだ」
唇の動きだけで紡がれたその言葉。獲物をいたぶる前兆。
胃の底が鉛のように重くなる。吐き気を堪え、ルクレツィアは足早に広間を後にする。
影のように付き従う黒い軍服のゼクスを連れ、夜の闇を裂いて走る馬車へと逃げ込む。
馬車の中は暗く、革のシートの匂いと、ルクレツィアの纏う薔薇の香りが濃密に混ざり合う。
向かいの席に座るゼクスを睨み据える。不安を押し殺すように張り付ける傲慢な笑み。この男を、もっと深く、二度と裏切れないほどに依存させなければならない。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「ゼクス。こちらへ」
ルクレツィアは漆黒のドレスの裾を無造作に捲り上げる。
月光が差し込み、ガーターベルトに締め付けられた白い太ももが暗闇に浮かび上がる。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「私の足にキスなさい。犬のように、隅々まで」
無言のまま床に膝をつくゼクス。馬車の揺れに合わせて、彼の大きな手がルクレツィアの足首を包み込む。
その瞬間、♥ルクレツィアの背中が小さく跳ねる。
彼の唇が、ヒールの先端から足の甲、そしてふくらはぎへと、信じられないほど柔らかなタッチで触れていく。
ドクン、ドクン、ドクン。
「っ……はぁ……」
想定外の甘い吐息。
ただ肌に触れているだけ。しかし、ゼクスの唇が這うたび、火を点けられたように熱が広がる。彼の吐息が内腿の敏感な肌を撫で、硬い舌先が微かに膝の裏を舐め上げる。
崇拝。狂信。神の御神体を扱うかのような、重すぎる愛撫。
ゼクス「……お嬢様……」
低く掠れた声が太ももの内側で響く。直接的な交わりなど一切ない。それなのに、ルクレツィアの下腹部の奥深く、眠っていた花芯が激しく疼き始める。
シーツの中で外套の匂いを嗅ぐだけの孤独な慰めとは次元が違う。他者の、圧倒的な熱量を持つ愛撫。
理性が、泥のようにドロドロと溶け出していく感覚。
支配しているのは私だ。そう自分に言い聞かせるルクレツィアの指先が、無意識にゼクスの黒髪を掻き毟る。快楽に白濁しそうになる視界の中で、彼女は自分が逆に「飼い慣らされつつある」恐怖に震えた。
だが、その甘い熱は突如として破られる。
急停止する馬車。窓の外、王城の尖塔から放たれた不吉な紫色の光が、夜空を切り裂いて迫り来る。
◇◇◇
第三章: 暴かれた狂愛の記憶
紫電の閃光。
砕け散るガラス。
馬車を包み込んだのは、リヒャルトの放った強力な精神支配の魔術。
《淫魔の呪縛》
「あぁぁっ……!!」
くの字に折れ曲がるルクレツィアの身体。
体内の血が沸騰し、脳髄を焼くような高熱。そして押し寄せる、狂気的なまでの快楽の波。誇りを砕き、獣のように欲望を乞うようにプログラムされた悪辣な呪縛。
ゼクス「……お嬢様!」
ルクレツィアの身体を抱き抱えるゼクス。暗闇を駆け抜け、用意していた地下の隠れ家へと飛び込む。
冷たい石の床に下ろされても止まらない痙攣。
全身から噴き出す汗。漆黒のドレスが肌にべったりと張り付く。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「あつい……っ! 苦しい、誰か……いや、触らないで……っ!!」
腕に食い込む爪。血が滲むほど引っ掻く。理性を保とうとする最後の抵抗。
その震える両手を、ゼクスの大きな手が力強く、だがひどく優しく包み込む。
ゼクス「……私のせいです。私が、もっと早く動いていれば」
ゼクスの瞳から零れ落ちる一筋の涙。
冷徹な処刑人の、初めて見せる感情の決壊。
彼の口から、低く震える声で凄惨な真実が語られ始める。
ゼクス「過去六回。あなたが処刑台で命を落とすたび、私は自らの命数を削り……時を巻き戻してきました」
ドクン。
跳ねる心臓。熱で霞む視界の中、彼の言葉だけが鋭く脳に突き刺さる。
ゼクス「この呪われた血塗れの腕で、あなたを抱きしめる資格などない。だから、処刑人としてあなたを殺す役目を背負い……その死の瞬間に、あなたの魂を救うために時間を戻すことしか、私にはできなかった」
ルクレツィアが彼を騙し、支配していたのではない。
最初から、彼女はゼクスの果てしない自己犠牲と、狂信的なまでの愛の手のひらの上で生かされていた。
自分の愚かな思い込み。孤独だと泣いていた夜、彼はどれほどの絶望を抱えて自分を見つめていたのか。
深い羞恥と、胸を引き裂かれるような愛しさ。
紅い瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「……馬鹿な男……っ。なんで、そんな……」
喉の奥で詰まった嗚咽。ゼクスの軍服を力なく掴む。
呪縛による快楽と、真実を知った魂の震えが混ざり合い、ルクレツィアの精神は完全に限界を超えようとしていた。
「呪縛を解く方法が、一つだけあります」
腰の短剣を抜くゼクス。その刃を、一切の躊躇なく自らの手首に押し当てた。
◇◇◇
第四章: 血の契約と魂の絶頂
刃が肉を裂く鈍い音。
真紅の血が、ゼクスの手首から夥しく溢れ出す。血の鉄の匂いが、地下室の冷たい空気を一瞬で塗り替える。
呪縛を解くための「魂の刻印」。強大な魔力を持つ者の血を介し、物理的な結合を超えた次元で魂を繋ぎ合わせる儀式。
膝をつき、血の滴る腕をルクレツィアへと伸ばすゼクス。
指先が銀髪を掻き分け、耳の裏側へと触れる。
♥
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「ひっ……!」
熱い。彼の血が肌に触れた瞬間、そこから膨大な魔力が体内に流れ込む。
ただの血液ではない。ゼクスの命そのもの、彼の重く狂おしい愛情が液状化し、直接血管に注ぎ込まれる感覚。
血に濡れた指先が、耳裏から首筋、そして浮き出た鎖骨へとゆっくり這い降りる。
「……ルクレツィア様……私の命、私のすべてを……」
肌を叩く呼気。指先が触れるだけの微細な愛撫。
直接身体の最奥を貫かれているわけではない。だが、血脈を通して直接魂が結びつくこの儀式は、いかなる肉体的な交わりよりも鮮烈だった。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「あ……ぁあっ! ゼクス、ぜくすっ……!」
弓なりに反る背中。足の指が縮こまり、シーツを掻き毟る。
血が鎖骨から胸の谷間、漆黒のレースドレスを通り抜け、内腿の最も敏感な肌へと線を引く。
そこへ、ゼクスが自身の唇を押し当てる。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!
魔力と快楽がスパークし、視界が白くぼやける。
「あ、あ、だめ、壊れる、真っ白になる……ああぁぁぁぁぁっ!!」
口角から零れる甘い唾液。白目を剥きながら絶叫するルクレツィア。
脳髄がドロドロに溶けるほどの極限の快楽。身体の奥底、熱を帯びた蜜壺から止めどなく愛液が溢れ出し、大腿を伝って床へとしたたり落ちる。
ゼクスもまた、自身の命を吸い上げられる痛みに顔を歪めながら、ルクレツィアの足にしがみつき、彼女のすべてを飲み込むように激しく呼吸する。
互いの存在なしでは息もできない。他者を信じられなかった少女と、自分に価値を見出せなかった処刑人が、圧倒的な快楽と依存の深淵へと共に堕ちていく。
もう、戻れない。
戻りたくなどない。
血と汗に塗れた二人の肉体は、完全に一つの生き物として融け合っていた。
その時、地下室の重い鉄扉が、爆発音と共に吹き飛ぶ。
◇◇◇
第五章: 永遠の夜明け
「見つけたぞ、薄汚いネズミ共!!」
土埃の中から現れたのは、憎悪に顔を歪めたリヒャルトと、彼に従う無数の近衛兵たち。
リヒャルト・フォン・アインスブルク「僕の所有物に……気高く美しいあの女に、なんて泥を塗ってくれたんだ!! 殺せ! 刻み刻んで犬の餌にしろ!!」
放たれる無数の矢と魔術の光。
ルクレツィアを庇い、ゼクスが盾となる。
肉を穿つ嫌な音が連続して響く。
ゼクスの背中に複数の刃が突き刺さり、黒い軍服がさらにどす黒く染まった。
ゼクス「……触れ、させるものか……!」
かつてない殺意に染まるゼクスの瞳。
彼の手から放たれた黒い魔力の刃が空間を切り裂き、近衛兵たちを次々と血の海へと沈める。リヒャルトの悲鳴が響く中、ゼクスはルクレツィアを抱き抱え、崩れゆく空間を跳躍する。
向かう先は、始まりの場所。王都の中央にそびえる、冷たい処刑台。
灰色の雪が、再び静かに舞い降りていた。
処刑台の石畳の上に倒れ込む二人。
ゼクスの呼吸は浅く、口の端から大量の血が溢れている。致命傷。彼の命の灯火は、今にも消えようとしていた。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「いや……嫌よ、ゼクス! 目を開けて! 私を置いていくなんて許さない……許さないわよ!!」
彼の頬を平手打ちし、なりふり構わず叫ぶルクレツィア。涙が灰の雪と混ざり、彼の顔に落ちる。
ゼクス「……泣かないで、ください……。ようやく、あなたを……本当の意味で、守れ……」
「黙りなさい!!」
落ちていた処刑人の短剣を拾い上げる。
一切の迷いなく、自身の腕を深く切り裂いた。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「私の犬なら、私が死を許すまで這いつくばって生きなさい。……この血を飲んで、私と共にバケモノになりなさい!!」
自身の傷口から流れる血をゼクスの口に押し当て、自らも彼の唇を塞ぐ。
血と血が混ざり合う、狂気に満ちた誓いの口づけ。
生温かい鉄の味が口内を満たす。
ゼクスの喉が動き、彼女の血を嚥下する。
♥
その瞬間、二人の身体を漆黒と真紅の魔力が包み込む。
人間としての生を捨て、不老不死の「異端の怪物」として覚醒する鼓動。
細胞が作り変えられる激痛と、それをも凌駕する魂の絶対的な融合。
「……ええ。地獄の底まで、お供します。私の、愛しい主よ」
処刑台の下から追いついたリヒャルトが、信じられないものを見るように目を見開き、絶叫を上げる。
リヒャルト・フォン・アインスブルク「バケモノ……バケモノめぇぇっ!!」
ゼクスの腕に抱かれながら、血に濡れた唇で冷酷に微笑むルクレツィア。
ルクレツィア・ヴァン・クロイツ「さようなら、哀れな王子様」
激しさを増す灰の雪。二人の姿を白く覆い隠す。
終わらない死の螺旋を自らの手でへし折り、誰の指図も受けない、狂気と愛に満ちた二人だけの閉ざされた楽園。
ギロチンの刃の音は、もう二度と鳴らない。冷たい処刑人の指先は、今や永遠に彼女を温め続けるのだから。