第一章: 煤雪の夜と群青の君
空は、死んだ鉄の色をしている。
帝都ノヴォルスク。天を衝く錆びた巨大な鉄塔群が吐き出す濃密な排煙は、三百年にわたって陽光を遮り続けている。
大気は常に焦げた油と硫黄の臭気に満ち、音もなく降り積もる黒い灰――「煤の雪」が、街全体を死の帷で覆い隠す。
路地裏の奥、崩れかけた煉瓦の壁に背を預ける影が一つ。
イリヤ・クロウ。インクと油の染みがこびりついた、袖のすり切れた灰色のトレンチコート。煤に塗れて乱れた黒髪の下から覗くのは、底なしの沼のように昏く、世界の一切を諦めきった琥珀色の瞳。
彼は、コートのポケットからマッチを取り出す。
壁で擦るが、湿気た火薬は虚しい摩擦音を立てるだけだ。
チッ。
舌打ちをし、イリヤは無数の小さな切り傷があるペンだこに覆われた指先で、マッチ棒をへし折る。
[A:イリヤ・クロウ:冷静]「空なんて、ただの青いインクの染みだ。見上げたところで腹は膨れない」[/A]
独り言は、遠くで鳴る蒸気機関の駆動音に掻き消された。
足元には、革装丁の古い本が数冊。所持するだけで国家反逆罪となる禁書『青空の詩集』。活字拾の裏稼業として、これを燃やされる前に回収するのが今夜の仕事だ。
鋭い犬の咆哮。
次いで、軍靴の足音が石畳を叩く。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:怒り]「逃がすな! 異端のネズミだ。路地を封鎖しろ!」[/A]
冷徹で、氷の刃のように研ぎ澄まされた声。
イリヤの心臓が[Pulse]ドクン[/Pulse]と跳ねる。
かつて親友だった男の声。過去の亡霊が、喉元を締め上げる。
追手から逃れるように、路地の角からひとつの影が飛び出してきた。
イリヤの視界が、一瞬で奪われる。
[Flash]圧倒的な異物。[/Flash]
煤だらけの景色の中で、不自然なほどに透き通る銀髪が闇夜に弧を描く。
帝国の象徴である金糸の刺繍が施された純白のドレスは、無残に引き裂かれ、泥と血に塗れていた。
そして何より、少女の瞳。
空の色など誰も知らないこの世界で、その大きな双眸だけが、息を呑むほど鮮烈な群青色に輝いている。
少女は石畳に足をもつれさせ、イリヤの目の前で激しく転倒した。
手からこぼれ落ちる一冊の禁書。
同時に、路地の入り口に松明を持った憲兵たちが雪崩れ込んでくる。
松明の炎が、無慈悲に本へと投げ込まれた。
[Shout]ボォォォッ!![/Shout]
瞬く間に燃え上がる古い紙束。
しかし少女は逃げない。あろうことか、炎の中へその細い腕を突っ込んだ。
[A:イリヤ・クロウ:驚き]「おい、何をして……!」[/A]
イリヤの制止も聞かず、彼女は燃え盛る本のページを強引に引きちぎる。首筋の包帯から覗く、痛々しい火傷の痕が赤く照らされる。
焼け焦げた紙片を自らの胸に抱きしめ、蛍のように舞い散る火の粉の中で、彼女は泣いていた。
声を持たない喉を震わせ、大粒の涙をこぼしながら。
その紙片に描かれていたのは、一羽の鳥と、鮮やかな青い空の挿絵。
[Impact]狂気だ。[/Impact]
ただの紙切れのために、己の身を焼くなど。
だが、その光景はイリヤの胸の奥底で凍りついていた何かを、暴力的なまでに叩き割る。
[A:イリヤ・クロウ:怒り]「……馬鹿が」[/A]
舌打ちと共に、イリヤは地を蹴った。
憲兵の銃口が少女に向けられるよりも早く、彼女の細い腰を抱き寄せ、路地の奥に口を開ける地下下水道の鉄格子へと身を翻す。
[A:イリヤ・クロウ:冷静]「息を止めろ!」[/A]
少女の群青の瞳が見開かれる。
冷たい闇と、腐敗した水の匂いが二人を飲み込む。
頭上で無数の銃声が炸裂し、火花が鉄格子を弾き飛ばす。イリヤは少女を庇うように抱え込んだまま、奈落の底へと滑り落ちていった。

第二章: 地下室の鳥と迫る軍靴
光の届かない第七地下街。
打ち捨てられた古書店の奥。埃と、乾いた古い紙の匂いが満ちる狭い隠れ家。
アルコールランプの青白い炎が、淹れたてのブラックコーヒーの湯気を照らし出している。
[A:イリヤ・クロウ:冷静]「……飲めるか。泥水よりはマシだろう」[/A]
イリヤは欠けたマグカップを、毛布にくるまる少女――ソフィアの前に置く。
彼女は両手でカップを包み込むと、その温もりにふわりと表情を緩める。
ソフィアの細い指が、テーブルの上の煤をなぞり、文字を描いた。
『ありがとう、イリヤ』
不器用だが、流れるような美しい筆跡。
彼女は声を奪われていた。異端の言葉を紡いだ罰として、帝国によって喉を焼かれた「生きたからくり」。
ソフィアは立ち上がり、狭い部屋の中でゆっくりとステップを踏み始める。
炎の揺らぎに合わせ、両手で鳥が羽ばたくジェスチャー。そのつま先が床を叩く軽やかなリズムは、まるで目に見えない空を舞っているかのよう。
[Sensual]
舞い終えた彼女は、イリヤのそばに座り込んだ。
彼女の小さな手が、イリヤのペンだこに覆われた指先にそっと触れる。切り傷だらけの荒れた皮膚を、彼女の滑らかな指の腹が、労るようになぞっていく。
イリヤの背筋に、熱を帯びた微電流が走った。彼女の体温。触れ合う皮膚から伝わる、かすかな脈動。
[A:イリヤ・クロウ:照れ]「……やめろ。俺の手は、汚れ仕事ばかりしてきた手だ」[/A]
イリヤが手を引っ込めようとするが、ソフィアは首を横に振り、さらに強くその手を握りしめた。彼女の群青の瞳が、真っ直ぐにイリヤを射抜く。
[/Sensual]
その瞳に見つめられると、自分が信じ込もうとしていた「世界は絶望だけだ」という嘘が、音を立てて崩れていくようだった。
[A:イリヤ・クロウ:悲しみ]「お前は、空があるって本気で信じてるのか。あんな分厚い鉄と煤の向こうに」[/A]
ソフィアは力強く頷き、見えない天井を指差して微笑んだ。
その無垢な笑顔が、イリヤの脳裏に、凄惨な過去の記憶をフラッシュバックさせる。
[Glitch]『イリヤ……お兄ちゃんを、助け……』[/Glitch]
血溜まりの中で事切れた、親友ヴィクトルの妹の姿。
己の無力。裏切り。血の鉄の味。
イリヤの呼吸が[Tremble]浅く、速く[/Tremble]なる。額に冷たい汗が滲む。
その時だった。
[Shout]ドゴォォォォン!![/Shout]
耳を劈く爆音。
隠れ家の分厚い鉄扉が内側にひしゃげ、吹き飛ばされる。
濛々と立ち込める粉塵と硝煙の匂い。
その白煙を切り裂くように、血のように赤い裏地のついた漆黒の軍服が姿を現した。
銀の意匠が施された異端審問官の腕章。氷のように薄青い瞳と、冷徹に撫で付けられた金髪。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「久しぶりですね、イリヤ。相変わらず、ゴミ溜めがお似合いだ」[/A]
ヴィクトルの手には、銀の装飾が施された古い歯車式拳銃。その銃口が、真っ直ぐにイリヤの眉間を捉えている。
[A:イリヤ・クロウ:怒り]「ヴィクトル……!」[/A]
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「帝国法第七条。禁書の所持、および国家所有物である『生きたからくり』の窃盗。自由という伝染病を撒き散らす害獣どもめ」[/A]
背後から、重武装の憲兵部隊が次々と雪崩れ込んでくる。
退路はない。
銃爪に、ゆっくりと指が掛けられた。

第三章: 炎に焼かれる翼
火炎放射器の業火が、古書の山を舐め尽くす。
狭い空間は一瞬にして灼熱の地獄と化し、紙が焦げる刺激臭と黒煙が視界を奪う。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:怒り]「自由は人を狂わせ、殺す! だから私が、法という名の刃で切り捨ててやろう!!」[/A]
[Shout]ダァァン![/Shout]
発砲音。
イリヤはソフィアを突き飛ばし、横へ跳ぶ。耳元を鉛玉が掠め、背後の壁を穿つ。
間髪入れず、憲兵たちの警棒がイリヤの体を打ち据えた。
[A:イリヤ・クロウ:絶望]「ガッ……!」[/A]
脇腹に走る鈍い衝撃。肋骨が軋む音。
口の中に血の錆びた味が広がる。
イリヤは懐からナイフを抜き、一人の憲兵の膝裏を切り裂くも、圧倒的な数の暴力になすすべもなくねじ伏せられた。
無情にも床へ引き倒され、重い軍靴が背中を容赦なく踏み躙る。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「無様ですね。お前が希望などという幻を見るから、また人が死ぬ。あの日のようにな」[/A]
ヴィクトルの言葉が、鋭い棘となってイリヤの心臓をえぐる。
無表情のまま、ヴィクトルは銃口をソフィアに向けた。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「さあ、壊れたおもちゃは処分という法があります」[/A]
[A:イリヤ・クロウ:絶望]「やめろ……! 手を出すな!!」[/A]
イリヤの喉から、獣のような叫びが漏れる。
しかし、その声を聞いたソフィアは、逃げるどころか、静かに立ち上がった。
両手を広げ、ヴィクトルの銃口とイリヤの間に立ちはだかる。
その群青の瞳には、一切の恐怖がない。ただ、血を吐くような悲しみだけが湛えられていた。
[A:イリヤ・クロウ:驚き]「ソフィア……逃げろ、馬鹿野郎!!」[/A]
ソフィアは振り返り、イリヤに向かって小さく微笑む。
そして、自分の胸に手を当て、そっと目を閉じた。
『これ以上、あなたが傷つくのは見たくない』
言葉を持たない彼女の心が、痛いほどに伝わってくる。
ヴィクトルの薄青い瞳が、わずかに揺らぐ。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「……連行しろ。公開処刑の生贄には丁度いい」[/A]
憲兵たちがソフィアの細い腕を乱暴に掴み、拘束する。
彼女は抵抗しなかった。ただ一度だけ振り返り、イリヤを見つめた。
[Blur]視界が、血と涙でぼやける。[/Blur]
燃え落ちる瓦礫の向こうへ、ソフィアの小さな白い背中が消えていく。
伸ばした指先は空を切り、床の煤を掻き毟るだけだった。
[A:イリヤ・クロウ:絶望]「ああ……あああぁぁぁっ!!」[/A]
己の無力さ。二度目の喪失。
肺を満たす煙に咽びながら、イリヤは意識の底へと沈んでいった。

第四章: 鳥籠の頂、交差する刃
処刑の朝。
空に最も近い場所、帝都の中央にそびえる『鳥籠の塔』。
最上階の広間では、巨大な歯車が地鳴りのような音を立てて回っている。
地下の隠れ家の焼け跡で、イリヤは一葉の紙片を握りしめていた。
ソフィアが遺した『青空の詩』の最後の一節。その余白に、彼女自身の血で描かれた、天へ羽ばたく不器用な鳥の絵。
[Impact]『いつか、あなたに本当の空を』[/Impact]
イリヤの琥珀色の瞳から、諦めの色は完全に消え失せていた。
煤に塗れた黒髪をかき上げ、血と泥にまみれたトレンチコートを翻す。
背後には、彼の呼びかけに応じた地下の反体制派の残党たちが、無数の松明を掲げて立つ。
[A:イリヤ・クロウ:興奮]「取り戻す。俺たちの空を」[/A]
◇◇◇
塔の最上階。ステンドグラスから差し込む鈍い光の中、二つの影が交差する。
甲高い金属音が、空間を切り裂いた。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:怒り]「なぜ分からない!! 自由を求めれば、人は血を流す! 妹は、その犠牲になったんだぞ!!」[/A]
ヴィクトルの偽りの敬語は完全に剥がれ落ちていた。
冷徹に撫で付けられていた金髪は乱れ、軍刀を振り下ろす顔には、狂気にも似た絶望が張り付く。
[A:イリヤ・クロウ:怒り]「だからって、全部箱に閉じ込めて蓋をするのか! それは生きているとは言わねぇ!!」[/A]
イリヤは刃を弾き返し、かつて二人が友情の証として分け合った古い短剣で踏み込む。
火花。
互いの息遣いが至近距離でぶつかり合う。
ヴィクトルの薄青い瞳の奥にある、押し潰されそうな罪悪感。法という狂気にすがることでしか、自分を保てなかった男の脆弱さ。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:悲しみ]「お前を殺して、全てを終わらせる……!!」[/A]
ヴィクトルが最後の一撃を放つ。
しかし、イリヤはその切っ先を紙一重でかわし、ヴィクトルの懐へ滑り込んだ。
[A:イリヤ・クロウ:冷静]「俺たちはまだ、本当の空を見ていない」[/A]
[Flash]ザクッ。[/Flash]
短剣が、ヴィクトルの胸を貫く。
致命傷を避けた、しかし確実に戦闘不能にする一撃。
ヴィクトルの手から軍刀がこぼれ落ちる。彼の胸元から、血に染まった銀のロケットがこぼれ出た。妹の形見。
[A:ヴィクトル・ルガンスキ:冷静]「……そうか。お前は、飛ぶんだな」[/A]
ヴィクトルの瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
彼は糸が切れたように、冷たい石の床へと崩れ落ちた。
直後、塔全体が[Tremble]激しい振動[/Tremble]に包まれる。
下層での戦闘の影響か、中枢の歯車が火花を散らし、連鎖的な崩壊を始めていた。
イリヤは壁際に繋がれていたソフィアの枷を破壊し、彼女を抱き起こす。
[A:イリヤ・クロウ:興奮]「急げ! 脱出するぞ!」[/A]
二人の目の前には、最上階のバルコニーに停泊している巨大な脱出用飛空艇。
だが、その制御盤を見た瞬間、イリヤの動きがピタリと止まる。

第五章: 君に贈る空
[A:イリヤ・クロウ:驚き]「……手動、か」[/A]
飛空艇の係留ロックを解除し、発進機構を起動させるレバーは、塔の外部の台座に設置されていた。
誰かが外に残り、レバーを引き続けなければ、飛空艇は飛ばない。
塔の崩壊は、すでに足元の床を次々と呑み込み始めている。
熱風と粉塵が吹き荒れる中、イリヤはソフィアの背中を押し、飛空艇のキャビンへと押し込んだ。
[A:イリヤ・クロウ:冷静]「お前は乗れ」[/A]
ソフィアの群青の瞳が、驚愕に見開かれる。
彼女は激しく首を振り、キャビンから出ようとするが、イリヤは外から分厚いガラス扉を閉め、ロックを掛けた。
[A:イリヤ・クロウ:愛情]「いいか、よく聞け。俺の命は、あの路地裏でお前に拾われた時から、お前のものだ」[/A]
ガラス越しに、ソフィアが必死に扉を叩く。
『いやだ、やめて!』
声にならない絶叫。両目から大粒の涙が溢れ出し、ガラスを濡らす。
[A:イリヤ・クロウ:照れ]「泣くな。お前の瞳には、群青の空が一番似合う」[/A]
イリヤは、これまでの人生で一度も見せたことのない、ひどく穏やかで、不器用な笑顔を浮かべる。
そして、台座のレバーに手を掛け、体重を乗せて力一杯引き下ろした。
[Shout]ガゴォォォォン!![/Shout]
飛空艇のバーナーが火を噴き、強烈な推力で空へと飛び立つ。
同時に、塔の中枢機関が限界を迎え、臨界点に達した。
[Flash]圧倒的な白光。[/Flash]
鼓膜を破るような大爆発が、鳥籠の塔を吹き飛ばす。
そのすさまじい爆風と熱波は、下から上へと渦を巻き、三百年間、帝都の空を覆い隠していた分厚い煤の雲を、暴力的なまでに薙ぎ払う。
[FadeIn]雲の切れ間から、光が降り注ぐ。[/FadeIn]
上昇していく飛空艇の窓から、ソフィアは見た。
煤と鉄の世界が消え去り、眼前に無限に広がる、息を呑むほどに澄み切った群青の空を。
その中央で黄金に輝く、圧倒的な太陽の光を。
塔の残骸は光に包まれ、無数の塵となって空へ溶けていく。
まるで、イリヤが光の鳥となって、本当の空へと羽ばたいていくかのように。
ソフィアはガラスに額を押し当て、溢れる涙を拭おうともせず、ただひたすらに見上げる。
彼女の群青の瞳の中に、イリヤが命を賭して贈った、世界で一番美しい空が咲き誇っていた。
(了)