第一章: 銀のフォークと盗作の果実
窓ガラスを叩きつける雨音が、古い洋館の静寂を乱暴に食いちぎっていく。
散乱する純白の原稿用紙の中心で、雨宮櫂は上質なリネンの白シャツの胸元をだらしなくはだけさせ、喉の奥で甘い音を転がした。
雨宮櫂「……『まるで、肺腑に泥を詰め込まれたような月夜だった』……ねえ眞澄、君が苦しんで書いた言葉が一番美味しいよ」
琥珀色の瞳が濡れたように瞬き、焦げ茶色の波打つ髪から麝香のような香りが漂う。
佐伯眞澄「……黙れ。その口で、僕の言葉を汚すな」
色褪せた黒いタートルネックの首元を掻き毟り、眞澄は色素の薄い黒髪を振り乱す。
僕の血をインクにして、君は名作を書くつもりかい?
雨宮櫂「汚す?違うよ。君の文章は本当に美しい。まるで僕の心臓を、直接銀のフォークで刺されたみたいだ」
櫂は銀の皿に置かれた熟れすぎた桃に指を沈め、果汁でベタつく手で眞澄の酷使された指先を強引に絡め取る。
脈打つ熱が、絡み合った指先からじっとりと伝わってくる。
佐伯眞澄「なら……望み通りに抉ってやりますよ、あなたの空っぽの心臓を」
鈍い金属音。
眞澄の握りしめた銀のデザートフォークが、白シャツから覗く櫂の滑らかな首筋に深く突き立てられた。
雨宮櫂「あ……っ、ははっ!いいよ、もっと深く刺してごらん?」
薄皮を裂き、おびただしい赤い雫が銀色の先端を伝って落ちる。
櫂は微塵も痛がる素振りを見せず、フォークに付着した自らの血と、ひしゃげた桃の果肉を素手ですくい上げた。
雨宮櫂「ほら、食べて。君の嫉妬と僕の血、混ざるとこんなに甘い」
血塗られた指が、無理やり眞澄の青白い唇をこじ開け、口腔内へ侵入する。
佐伯眞澄「んっ……ぁ、やめ……っ!」
鉄の匂いと腐る寸前の桃の甘さが、舌の上でドロドロに溶け合う。
屈辱。なのに、この男の放つ絶対的な美しさから、目を逸らすことができない……!
雨宮櫂「君の存在理由は僕だ。僕という器がなければ、君の言葉は誰にも届かないんだから」
喉を鳴らし、櫂は血と果汁に塗れた自らの指先を舐めとる。
佐伯眞澄「……僕は、あなたの影なんかじゃない……!」
重厚なオーク材のドアの向こうから、冷ややかな拍手の音が突然響き渡った。
千種律子「……素晴らしいわ、雨宮先生。そして、佐伯さんも」
チャコールグレーの上質なスーツに身を包んだ女、千種律子が、銀縁のスクエア眼鏡の奥で暗い愉悦の光を細める。
第二章: 怪物たちの晩餐会

壁一面を埋め尽くす古書の匂いと、千種が燻らせる紫煙が重厚な書斎に澱みを作る。
千種律子「佐伯さん、あなたの書いた最新の生原稿、拝読しました」
千種は紅を引いた薄い唇を歪め、机の上に完璧に推敲された原稿の束を滑らせる。
佐伯眞澄「……副編集長のお眼鏡には、適いませんでしたか?」
眞澄は無意識に、右手の親指の爪を苛立たしげに噛み締めた。
千種律子「完璧です。雨宮櫂という美しい偶像にふさわしい、残酷で狂おしい言葉の連なり。ですが……」
千種は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、氷のような視線を二人に突き刺す。
千種律子「次の文学賞を確実なものにするためには、決定的な『事件』が足りない。私はただ、魂を削った本物の傑作が読みたいだけです」
雨宮櫂「事件?ねえ律子さん、それってどういう意味?」
櫂は小首を傾げ、琥珀色の瞳を無邪気に丸くする。
千種律子「最初から存じておりましたよ。雨宮櫂の処女作以降のすべてが、佐伯眞澄の代筆であることなど」
静寂が、鼓膜を突き破るほどの重さで書斎を圧迫する。
……知っていた?この女は、僕が身を削って吐き出した言葉を、最初から偽物だと笑いながら読んでいたというのか。
佐伯眞澄「……なら、なぜ僕たちを泳がせた……!」
千種律子「芸術の極致には、生贄が必要だからです。雨宮櫂の美貌と、佐伯眞澄の才能。そのどちらか一方が『破滅』する瞬間こそが、この原稿の最後のピースとなる」
肺の奥深くから紫煙を吐き出し、千種は悪魔のような微笑を浮かべた。
千種律子「殺し合いなさい。その血で書かれた実話だけが、文学の頂点に届くのです」
雨宮櫂「あははっ!律子さんって本当に狂ってる!」
櫂は軽やかな足取りで眞澄の背後に回り込み、黒いタートルネック越しにその華奢な肩を抱き寄せた。
雨宮櫂「ねえ眞澄……僕たち、心中でもしようか?」
耳の後ろに吹きかけられた生温かい吐息に、眞澄の背筋が粟立つ。
佐伯眞澄「離せ……っ、僕は、お前のおもちゃじゃない……!」
拘束された腕の中で、眞澄の心拍が激しく跳ね回る。
雨宮櫂「君が僕を殺すか、僕が君を壊すか。どっちの結末が読みたい?」
櫂の琥珀色の瞳は、すでに人としての理性を完全に手放していた。
第三章: 喉笛を裂くインク

吹き荒れる風が、バルコニーの白木の手すりに打ちつける雨粒を狂い咲かせる。
足元には割れたガラス瓶が散乱し、青黒いインクの海が雨水と混ざり合って排水溝へ流れていく。
雨宮櫂「ほら、握ってよ。君の愛する万年筆だ」
櫂は強引に眞澄の右手を掴み、冷たい金ペンの軸を握らせた。
佐伯眞澄「やめろ……何をする気だ!」
雨宮櫂「刺してよ、眞澄。君の言葉で僕の心臓を穿って、君が『雨宮櫂』になればいい!」
はだけた白シャツの胸元へ、櫂は自ら眞澄の手を力任せに引き寄せる。
ドクン、ドクンと、生々しい心音が手のひら越しに伝わってくる。
佐伯眞澄「違う……っ!違うんだ!」
眞澄は全身の力を振り絞り、櫂の胸から万年筆を引き剥がす。
佐伯眞澄「僕が愛したのは、君の嘘だ!君に貪り食われる僕の言葉だけが、僕の存在の証明だったんだ!」
君がいなくなれば、僕はただの空っぽの肉の塊に成り下がる。それならいっそ……!
眞澄の瞳に、極限の愛憎が黒く燃え上がる。
雨宮櫂「あははっ!眞澄、君って本当に……最高だよ……っ!」
雨に濡れそぼる櫂が、狂気に濡れた笑顔で眞澄の首筋に喰らいつく。
佐伯眞澄「あ……っ、ぐ……!」
二人の身体が激しくもつれ合い、冷たいバルコニーの床に倒れ込んだ。
水飛沫が上がり、互いの呼吸と体温だけが世界を支配する。
雨宮櫂「さあ、書いて。僕の体に、君の永遠の傑作を……っ」
眞澄の左手が、床に落ちていた銀のフォークを拾い上げる。
佐伯眞澄「ああ……これで、永遠に君の影だ……!」
稲妻が夜空を裂いた瞬間。
肉を貫き、骨を砕く鈍い音が響いた。
雨宮櫂「……え?」
櫂の胸ではない。眞澄は、万年筆を握りしめていた自らの右手の手の甲に、銀のフォークを深々と刺し貫いていた。
佐伯眞澄「がっ……あぁぁぁぁぁぁッ!!」
切断された神経が悲鳴を上げ、視界が激しい痛みに明滅する。
鮮血が噴き出し、純白のインクだまりを赤黒く染め上げた。
雨宮櫂「ま、すみ……?嘘、だろ……君の手が……」
破壊された右腕を抱え込み、苦悶に這い蹲る眞澄を見下ろす。
櫂の琥珀色の瞳が、恐怖と歓喜に極限まで見開かれた。
第四章: 白紙の遺言と最後の署名
翌朝。嵐は嘘のように過ぎ去り、淡い朝光が静まり返った書斎に差し込んでいた。
千種律子「……お邪魔しますよ」
千種がドアを開けると、咽せ返るような鉄の匂いと古書の香りが混ざり合った異様な空気が鼻腔を突く。
机の前に座っていた男が、ゆっくりと振り返った。
色褪せた黒いタートルネックを着たその男の右手は、包帯で無惨にぐるぐる巻きにされ、赤黒い血がべっとりと滲んでいる。
二度と、美しく均整のとれた文字を書くことはできないであろう、完全に叩き潰された右手。
千種律子「拝見しましたよ。机の上の、原稿を」
机の中央には、夥しい血で汚れた純白の原稿用紙が置かれている。
そこに書かれているのは、以前の『佐伯眞澄』が書いていた完璧で美しい文字ではない。まるで子供が左手で書き殴ったような、歪で暴力的な悪筆。
だが、その言葉の連なりには、魂の奥底を直接抉り出すような圧倒的な熱量が宿っている。
千種律子「……素晴らしいわ、雨宮櫂」
千種の言葉が、朝の光の中で静かに反響した。
千種律子「あなたが『佐伯眞澄』という幻のゴーストライターを演じるのは、これで終わりにしましょう」
男は、色素の薄い黒髪を掻き上げ、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らす。
雨宮櫂「……ふふっ。バレてましたか、律子さん」
男の口調が、静謐な敬語から、奔放で気まぐれなものへと溶けるように変化した。
世間が『才能のない美貌の偶像』だと思い込んでいた雨宮櫂。
彼は初めから、たった一人だったのだ。
圧倒的な才能を持ちながら、自身の中に『佐伯眞澄』という架空の嫉妬深い文学青年を作り出さなければ、文字を紡ぐことができなかった真の狂人。
雨宮櫂「僕の中の眞澄がね、ずっと泣いてたんだ。僕の才能に嫉妬して、僕の首を絞めながら、僕に縋りついて」
幻影の彼と対話することでしか、僕は僕の孤独を癒せなかった。
雨宮櫂「だから、殺してあげた。僕自身の右手を潰して、眞澄の存在ごと、この血の中に閉じ込めてあげたんだよ」
左手には、血に塗れた金の万年筆が握られている。
雨宮櫂は、もう存在しない幻の男を抱きしめるように、何もない虚空へ向かって恍惚と微笑んだ。
千種律子「最高傑作です。これであなたは、永遠に文壇の神となる」
雨宮櫂「ええ。僕と眞澄の、二人で一つの命ですから」
男は震える左手で万年筆を走らせ、原稿用紙の末尾にたったひとつの名前を刻み込む。
そこには、『雨宮眞澄』という、この世で最も歪で、最も完璧な銘号が刻まれていた。