腹部から、ぬちゃりと水気の多い嫌な音が響いた。
冷たい金属の刃が内臓を無慈悲に掻き回し、むせ返るような生温かい鉄の匂いが鼻腔を激しく焼く。
獅子王 猛「無能が俺に口を利くな。俺は王だ、この世界の全てを支配する絶対者だ!」
濁っていく視界の先。獲物を狙う鷹のような鋭い金色の瞳が、ゴミでも見るかのように俺を見下ろしている。
手入れの行き届いた輝く金髪のオールバック。仕立ての良い高級ブレザーを王のマントのように羽織り、筋骨隆々の肉体を揺らして、そいつは歪に口角を釣り上げていた。
獅子王 猛。かつて親友だと信じていた男の重いブーツが、俺の鳩尾(みぞおち)を情け容赦なく蹴り上げる。
どごぉっ、と骨の軋む音が鳴り、俺の体は宙を舞う。
足場が消失した。
閉鎖空間「エデン・プロジェクト」の最下層。即死級の死のトラップと、飢えた凶悪なモンスターがひしめき合う追放エリア『奈落』へ、真っ逆さまに落下していく。
神代 刻「がっ……、あ……っ!」
全身を乱暴に薙ぎ払う強風。肺を雑巾のように力任せに絞り上げられる激痛。
ボサボサに伸びた黒髪が強風に煽られて視界を打ち付け、着崩した黒い学生服の上から羽織ったオーバーサイズのパーカーが、自身の傷口からドクドクと噴き出す鮮血でべっとりと重くなっていく。
暗闇が、大口を開けて迫り来る。
極度の睡眠不足で深く刻まれた酷いクマのある三白眼が、ゆっくりと伏せられそうになった瞬間。
耳の奥で、チリン、と錆びついたオルゴールの音が鳴った。
『お兄ちゃん』
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
かつてこの狂ったシステムのテスト運用に巻き込まれ、冷たい肉塊となった最愛の妹の笑顔が、脳裏を鮮烈に過ぎ去った。
また、俺は何もできずに死ぬのか……?
……ふざけるな。冗談じゃない。
こんな理不尽な世界、俺が全部、粉々に壊してやる……!
強く握りしめた拳に爪が食い込み、手のひらに血が滲む。
真っ暗な地面が眼前に迫り、全身の骨が砕け散るその刹那。
脳の奥底へ、チリッと無機質な電子ノイズが走った。
『致命的エラー発生。隠された特権コード【盤面反転(ルール・リライター)】の起動を確認。これより、全システムの書き換え権限を神代 刻に委譲します』
直後、爆発的な光の粒子が猛烈な勢いで吹き荒れる。
地面に激突し、肉塊となるはずだった致死の衝撃は、ふわりと心地よいそよ風となって霧散した。
ぬかるんだ血溜まりの中。ゆっくりと立ち上がった俺は、もうただの気怠げな虚無主義者ではない。
暗闇への微かな恐怖は完全に消え失せ、冷酷な復讐の炎だけが、瞳の奥底で静かに、狂おしく燃え盛っている。
神代 刻「……あぁ、そうかよ。じゃあ死ねば? ルールが気に入らないなら、俺の都合のいいように書き換えりゃいいだけだろ」
不敵に嗤(わら)う俺の頭上。
突如として、遥か上層からもう一人の影が、真っ逆さまに落下してきた。
■ 第2章:深淵に舞い降りた血塗れの天使 ■
俺が落とされた『奈落』は、むせ返るような死体の腐臭と、骨の髄まで凍りつくような冷気に満ちていた。
一歩踏み出せば、ボコボコと硫酸の池が沸き立ち、見えないほど高い天井からは、錆びついた即死級のギロチントラップが不気味にぶら下がっている。
濃密な暗闇の奥からは、Sランク相当の異形モンスターたちが、無数の赤い眼光をこちらに向けていた。
空腹を満たす極上の餌を見つけ、涎(よだれ)を垂らす音が至る所から響いてくる。
神代 刻「お前らのルールは、もう終わったんだよ」
ポケットから取り出したルービックキューブを片手で弾きながら、俺は自身の腹部から流れる血を指に擦りつける。
それをトリガーに、覚醒したばかりの能力を淡々と行使した。
《盤面反転(ルール・リライター)》
ギザギザとした赤いノイズが走り、空間が歪む。
襲いかかろうと鋭い牙を剥いた巨大な魔獣たちの頭上に、半透明のシステムウィンドウが強制的に展開された。
ステータス項目【殺意】。その文字が反転し、書き換えられていく。
緑色の文字で【絶対服従】と刻まれる。
ズドォン、と地響きを立てて、凶悪な異形たちが一斉に地面に這いつくばる。
ゴロゴロと喉を鳴らして、まるで飼い犬のように擦り寄ってくる巨大な獣の群れ。
その異様な光景の只中へ、頭上の分厚いゲートを物理的に粉砕しながら、一つの人影が舞い降りた。
ズダンッ!!
舞い散る瓦礫(がれき)と土埃の中、ゆっくりと身を起こしたのは、一人の少女だった。
背中まで伸びた艶やかな白銀の長髪。暗闇の中でも透き通るようなサファイアブルーの瞳。
白雪 凛「やっと見つけた。……あはっ、刻くん」
学園の誰もが憧れた美少女、白雪 凛。
しかし、彼女の真っ白なセーラー服は、赤黒い返り血でべっとりと染まり上がっていた。
華奢な右手には、ピンク色の肉片と脂肪がこびりついたサバイバルナイフが握られ、ポタポタと粘っこい液体を滴らせている。
神代 刻「お前……なぜここに」
白雪 凛「刻くんがいない安全な世界なんて、ただのゴミ箱だから。邪魔する人はみーんな、サイコロステーキみたいなお肉の塊にしちゃった」
天使のような微笑みを張り付かせたまま、凛は猟奇的な事実を、甘くとろけるような声で歌うように紡いだ。
自身を取り囲むSランクの魔獣たちを一瞥すらせず、ただ真っ直ぐに、サファイアブルーの瞳は俺だけを捉えている。
その底知れぬ狂気に一瞬の躊躇いがよぎるが、すぐに俺は冷徹な思考へと切り替えた。
神代 刻「……いいだろう。俺の復讐という名の狂宴に、お前も付き合え」
差し出した俺の血まみれの手を、凛は両手で大切そうに包み込む。
そのまま、熱を帯びた白い頬を俺の手の甲に擦り寄せた。
底なしの奈落で、最も凶悪な共犯関係が結ばれた。
一方その頃。
遥か上層の安全な光の中で、何も知らない獅子王 猛たちは、極上のステーキと年代物のワインで、勝利の祝杯をあげていた。
■ 第3章:虚飾の王座と、崩壊のカウントダウン ■
『絶対安全地帯(セーフ・ゾーン)』。
煌びやかなシャンデリアが照らす豪奢な広間で、猛は高級葉巻の煙を深く吸い込み、ふぅっと天井に向けて吐き出す。
テーブルには、Aランクモンスターの肉を焼き上げた極上のステーキと、芳醇な香りを漂わせるワインが並んでいる。
獅子王 猛「あの無能な神代の生贄一つで、これほどのポイントと物資が手に入るとはな! 俺はシステムに選ばれた存在だ。ゴミはゴミらしく、泥水でも啜って這いつくばってろ!」
取り巻きたちが一斉に媚びへつらうような笑い声を上げ、グラスを鳴らす。
安全と勝利。自らの絶対的な地位を疑う者は、この空間に誰一人いなかった。
ーーギィィィィンッ!!
突如、空間全体を黒板を引っ掻くような耳障りな不協和音が包み込んだ。
パンッ、パンッ、とワイングラスが次々と破裂して砕け散り、シャンデリアの光が赤黒く不気味に明滅する。
獅子王 猛「な、何事だ!? システムエラーか!?」
天空に浮かぶ巨大モニターが激しい砂嵐に塗れ、不気味な赤いカウントダウンが表示された。
『警告。安全地帯のルールが改竄されました。これより【上位者への反逆(リベリオン)】イベントを強制起動します』
参加者たちがパニックに陥りどよめく中、モニターのノイズが晴れる。
そこに映し出されたのは、つい先ほど『奈落』へ蹴り落とされ、死んだはずの俺の姿だった。
神代 刻「美味い酒は飲めたか? 偽物の王様」




獅子王 猛「か、神代……!? ば、馬鹿な、お前は確実に死んだはず……! 奈落から生還できるわけがない!」
神代 刻「あぁ、死にかけたさ。……お前が運営と裏で繋がって、テスト運用で俺の妹を意図的に殺したあの日のようにな」
冷たい沈黙が、広間を完全に支配した。
猛の顔から、さっと血の気が引いていくのが画面越しにもハッキリと分かった。
震える唇からは、葉巻がポロリとこぼれ落ちる。
神代 刻「お前はただ、運営に配置されただけの都合のいい操り人形だ。自分が特別だと錯覚してるだけの、滑稽で臆病なピエロなんだよ」
隠されていた最悪の真実。
その暴露により、猛が築き上げていた絶対的なカリスマは、音を立てて崩壊した。
取り巻きたちの目に、猜疑心と恐怖が浮かび上がる。
互いが互いを疑い、ジリジリと距離を取り、武器を構え始める。
獅子王 猛「嘘だ! 俺は選ばれた存在だ! 騙されるな、そいつは幻覚だ……!!」
猛の言葉は最後まで続かなかった。
彼が踏みしめていた大理石の床が、泥のようにドロドロに溶け始めたのだ。
■ 第4章:蹂躙される絶対者、書き換えられる世界 ■
獅子王 猛「ひ、ひぃぃぃっ! 床が、溶けるぅぅっ!」
安全地帯の大理石が完全に砕け散る。
溶け落ちた大穴の底から、無数の凶悪なモンスターの群れが、雪崩を打って押し寄せてきた。
パニックに陥り逃げ惑う参加者たちを、獣の鋭い爪と牙が容赦なく蹂躙していく。
血飛沫が舞い、絶叫がこだまする阿鼻叫喚の地獄絵図。
その中央へ、俺と凛は悠然と降り立った。
獅子王 猛「神代ぉぉっ! 無能のゴミが、俺の完璧な世界を汚すな!」
激昂した猛が、金色の瞳を血走らせて狂犬のように吼える。
自身の最高レアリティスキルを引き出し、莫大な魔力を込めて巨大な光の剣を空中に顕現させた。
《帝王の剣(アブソリュート・エッジ)》
空間そのものを切り裂くような圧倒的な熱量の斬撃が、俺の首元へと猛スピードで迫る。
だが、俺は避けることすらせず、右手のルービックキューブを一度だけ、カチリと回した。
ルール書き換え実行。【帝王の剣】の属性を【超回復魔法】へ変換。
必殺の光の刃が俺に触れる数センチ手前で、ぽわんと温かい光の粒子に変わる。
ただの心地よいそよ風となって、俺の前髪を優しく揺らしただけだった。
獅子王 猛「な……っ!? 俺の最強スキルが……消えた?」
神代 刻「そんなものか? じゃあ、次はこちらの番だ」
俺は一歩、また一歩と、ブーツの音を響かせながら猛に近づく。
即座に殺す気はない。たっぷりと絶望を味わわせる。
《盤面反転(ルール・リライター)》
カチリ、とキューブを回し、ノイズが走るたび。
猛の筋骨隆々だった肉体から、風船が萎むように力が抜け落ちる。腕力・体力のステータスの無効化。
輝くような金色の瞳から、光が失われ濁っていく。視覚の完全無効化。
聴覚、嗅覚。そして、彼が最も頼りにしていたシステム上の特権スキルすらも、俺は管理者権限で完全に消去した。
獅子王 猛「あ、あぁ……? 力が……何も見え、ない……! 音も、聞こえないっ!?」
膝から崩れ落ち、泥水の中に無様に這いつくばる、かつての王。
その背後では、盲目となった猛を庇おうと飛び出してきた元仲間たちを、凛が優雅なステップで迎え撃っていた。
白雪 凛「ねえ、刻くんの邪魔をするなら、みんなお肉の塊になっちゃえ」
甘く愛らしい声で囁きながら、彼女の持つサバイバルナイフが流れるように宙を舞う。
赤い飛沫がアーチを描き、腕や脚の肉片が、床に花びらのようにポタポタと散っていく。
恐怖と暗闇に顔を歪め、ガタガタと無様に震える猛を見下ろし、俺は冷酷な笑みを浮かべた。
神代 刻「お前のルールは、もう終わった。これからは俺がルールだ」
全てを剥奪された猛が、涙と鼻水に顔をぐしゃぐしゃにして、ついに泥水に頭を擦りつけ始めた。
■ 第5章:泥に塗れた王と、玉座の狂気 ■
獅子王 猛「た、頼む、許してくれ……! 俺が悪かった、妹のことも謝るから……死にたくない、死にたくないっ!」
四肢の感覚を奪われ、漆黒の暗闇の中で泣き叫ぶ男。
かつての尊大で威圧的な態度は見る影もなく、幼児のようにパニックを起こして地面を掻き毟っている。
その無様な姿を見下ろしても、俺の胸の奥で静まり返る冷たさは変わらなかった。
慈悲など一滴も湧かない。むしろ、この程度の覚悟で妹の命を弄んだのかという、底なしの怒りがどす黒く渦巻いている。
神代 刻「許す? 謝る? ……お前は自分が何を言っているのか、分かっているのか」
ルービックキューブを握りつぶすほどの力で握りしめ、目の前に巨大なシステムウィンドウを展開する。
神代 刻「お前には、死ぬことすら許さない。永遠に地べたを這いずり回って、無限の苦痛の中で絶望しろ」
管理者権限行使。対象データ『獅子王 猛』の存在定義を『チュートリアル用スライム』に書き換え。痛覚・意識レベルを100%に固定。自動復活ループ処理を適用。
強烈な閃光が、猛の肉体を包み込んだ。
獅子王 猛「ぎ、ぎゃあああああああああっ!!」
人間の形がぐずぐずと崩れ、ドロドロの緑色の粘体へと変貌していく。
猛の放つスライム特有の弱い匂いを嗅ぎつけ、周囲をうろつく下級モンスターが、新たな獲物を見つけて群がり始めた。
鋭い牙で肉を噛みちぎられ、蹄(ひづめ)で踏み潰され、その度に瞬時に再生し、また噛みちぎられる。
意識と痛覚だけが鮮明なまま続く、永遠に終わることのない無間地獄。
崩壊と再構築を繰り返すシステム空間の最奥。
俺は管理者権限を完全に掌握し、新たに具現化させた冷たい黒鉄の玉座に深く腰を下ろした。
神代 刻「さあ、本当のデスゲーム(地獄)を始めようか」
玉座の肘掛けに寄りかかるように、凛が艶かしく擦り寄ってくる。
赤黒い返り血に染まったセーラー服が、俺のパーカーに触れ、鉄の匂いが鼻をくすぐる。
彼女は俺の腕に両手を絡ませ、熱を帯びた白い頬をゆっくりと押し当てた。
トクン、トクン、と高鳴る彼女の早い心音が、密着した腕越しに伝わってくる。
白雪 凛「刻くん……好き、大好き。刻くんがいれば、世界なんてどうなってもいいの」
サファイアブルーの瞳が、恍惚とした熱を帯びてとろけるように潤んでいる。
血と肉の匂いが混じり合う中、彼女の甘く、微かに震える吐息が俺の首筋を這うように撫でた。
その狂おしいほどの執着を受け入れながら、俺は冷たい指先で、彼女の白銀の髪を静かに梳(す)く。
広間の底からは、スライムと化した男の終わらない悲鳴と肉の千切れる音が、まるで心地よいBGMのように響き続けている。
安易な希望も、くだらない道徳的な教訓など微塵もない。
ただ純粋な悪意と、狂気だけが支配する新世界の幕開け。
俺たちは、血溜まりの玉座の上で、美しくも歪な笑顔を浮かべていた。
遅すぎる反逆の夜が、永遠に続く。
輝かしい朝など、二度と来なくていい。この血の匂いに満ちた闇こそが、俺たちの新しいルールなのだから。