第一章: 特異点への降下命令
警告。事象の地平線まで残り百八十秒。事象面接触不可避
視神経を刺すような深紅の警報光が、網膜の裏側で焼き付いて離れない。破裂した配管から噴き出す合成オイルの異臭と、過熱した基盤が放つ焦げたオゾンの微粒子が喉の粘膜にへばりつく。重力加速度に引きちぎられそうになりながら、イアン・ヴァレンタインは血走った瞳を歪む計器盤へ縫い付けた。耐圧服の襟元、生体プラグの接続痕からじくじくと煮えるような体液が噴き出し、顎を伝って滴り落ちる。
イアン・ヴァレンタイン「スイングバイの計算角は狂っちゃいない……! 特異点の底、潮汐力のゼロ点なら因果律さえ逆流するはずだ。あの座標を……あの日を絶対に手繰り寄せる!」
セレス・ミハイル「計算の基礎パラメータが破綻しています。主機関の負荷はすでに限界値を二百パーセント超過。船殻の分子間結合が崩壊するまで、残り三十秒と定義します」
冷え切った合成音声が、悲鳴を上げる船室に平然と響き渡る。白銀のショートボブを乱れさせ、セレス・ミハイルは無機質な灰色の双眸を向けた。薄膜のようなインナースーツの右半身――首筋から指先、爪の先までを覆うチタン合金と炭素繊維の人工筋肉が、軋みを上げて甲高く振動している。彼女の無機質な指先が無慈悲なトルクで操縦桿をねじ伏せ、イアンが命懸けで押し込んだ推進レバーを容赦なく弾き戻した。
イアン・ヴァレンタイン「手をどけろ、セレス! あとコンマ四秒の噴射だ! そこでお前の生体コードが消失した臨界境界へ突っ込めるんだよ!」
セレス・ミハイル「やめて……私を直視しないで! 今の私は人間じゃない! 貴方が凍りつく深宇宙の残骸から拾い集め、勝手に継ぎ接ぎしただけの、ただの屑鉄よ!」
セレスは血の通った左手でホルスターから重力拳銃を引き抜いた。銃口の先が小刻みに跳ね、イアンの眉間を捉える。その生身側の白い頬を、冷たい脂汗がかすかに伝い落ちた。引き金を引く指が、微細に痙攣している。
イアンは後退しない。躊躇など一滴も持ち合わせていない。踏み込んだ足が床の冷却液を撥ね上げ、セレスの細い首筋――生身の柔らかな皮膚とチタン外殻の継ぎ目へ、剥き出しの指先を深々と食い込ませた。
生身の熱狂と、超高回転するコアの機械振動が、掌を通して彼の骨髄まで直接叩き込まれる。
セレス・ミハイル「あ……っ、やめ……そこは、神経パルスが……直結、して……っ」
イアン・ヴァレンタイン「心臓が、たとえ一ヘルツでも血を送り出しているなら……お前はまだ生きている。俺が観測し続ける限り、誰にも人形だなんて言わせない!」
皮膚と金属の接合面から漏れ出した微小なリーク電流が、絡み合う二人の指先を激しく麻痺させ、蒼白の火花を散らす。呼吸が乱れ、セレスの喉が艶めかしく跳ねた。
ドォォォォンッ!
隔壁全体が悲鳴を上げ、巨大な不可視の質量が船体を真横から万力のように圧迫した。
セレス・ミハイル「重力波の直撃……!? いいえ、外部ハッチに物理アンカーが貫通。強制ドッキングシークエンスが、勝手に走っています!」
イアン・ヴァレンタイン「何だと……!? この光さえ脱出できない重力井戸の底に、別の船が潜んでいたというのか!」
第二章: 百年の亡霊と裏切りの特異点

強制開放された主機関通路へ、超低温の白い噴煙が津波のように流れ込む。構造材が軋む音はすでに金属のそれではなく、巨大な獣の断末魔に酷似していた。濃密な白煙の奥から、片足を引きずる耳障りな金属音が近づいてくる。
姿を現したのは、放射線でボロボロに焼け焦げた旧型装甲服を纏う異形の影。
ヘルメットは半壊し、露出した顔面の右半分は虹色に蠢く奇怪な結晶構造体へと侵食されていた。濁った虹彩が、狂気的な速度で回転している。
カール・ヴォルフ「……ひさしぶりだな、生きている人間を見るのは。ようこそ、光すら抜け出せねえ永遠の底へ……アストライアの若造ども」
イアン・ヴァレンタイン「通信コード、旧連合探査船クロノス……カール・ヴォルフ艦長か!? 一世紀前の航海日誌に刻まれた亡霊が、なぜこの領域で活動している!」
カール・ヴォルフ「百年だと……? そんな外側のゴミみたいな時間は知らねえよ! 時間の遅延だ……極限重力のおかげで、俺の主観じゃまだ一週間も経っちゃいねえんだよ!」
カールはひび割れた声で吼え猛り、右腕の重力スパイクをアストライアのタキオン蓄電槽へ無残に突き立てた。閃光が通路を白く塗り潰し、強烈なオゾン臭が鼻腔を突き刺す。
カール・ヴォルフ「坊主、事象の地平線に飛び込めば過去をやり直せるなどと、誰に吹き込まれた? ここに待つのは無限の引き延ばしだ! 落ち続けながら、原子のレベルまで引き裂かれるだけの永遠の地獄なんだよ!」
イアン・ヴァレンタイン「デタラメを言うな……! カー・ブラックホールの回転エネルギーを利用した閉鎖時間線の理論解は、完全に成立している!」
カール・ヴォルフ「理論通りにいかねえから俺はこうなったんだよ! だからお前たちの生きている『今』を、そのエンジンを俺に寄越せ! その半身屑鉄の小娘ごと特異点へ投げ落とし、作用反作用の反動で俺だけが光の向こうへ脱出する!」
カールの重力カッターが虚空を切り裂き、イアンの首を刈り取らんと襲い来る。だが、その切断軌道へ横合いからセレスが割り込んだ。チタンの右腕が交差する。
骨肉が砕け散る重苦しい破砕音。
チタン装甲がねじ切れ、内部の白い冷却液と生体側の赤い血液が霧状に噴射され、極低温の床へ氷の華となって散乱した。
セレス・ミハイル「くっ……あ、あぁぁぁっ……!」
イアン・ヴァレンタイン「セレスッ!!」
セレス・ミハイル「痛覚遮断、全系統を強制パージ……物理排除シークエンスを遂行します」
破損した右肩から火花を撒き散らしながら、セレスは残された生身の左腕を伸ばし、結晶化したカールの首を万力のように締め上げた。灰色の瞳の奥に、自らを投げ打つ冷徹な燐光が宿る。
カール・ヴォルフ「ゲ、ハハッ……! 強がりを言うな! その女のメイン基盤をスキャンしてみろ! お前一人を重力圏の外へ撃ち出すための自爆コマンドが、とっくに最終シークエンスへ入ってやがるぜ!」
第三章: 潮汐破壊のカルテット

エルゴ球の最深部、視界を取り巻く光のリングが毒々しい極彩色にねじれ狂う。
空間の骨組みそのものが引き延ばされ、強固な装甲壁が紙細工のように波打っていた。セレスの千切れた右肩から溢れる冷却液と紅い血球が、無重力の中へ無数の輝く液滴となって漂う。
イアン・ヴァレンタイン「セレス……本当なのか? 俺を逃がすために、最初から……自分を捨てる気だったのか!?」
セレス・ミハイル「貴方の理論は美しい……けれど、二人分の脱出質量は最初から存在しない。お願い、逝かせてイアン。痛いのよ……壊れた機械が悲鳴を上げて、貴方の苦痛に満ちた視線を受けるたびに、私の回路が焼き切れそうになるの……!」
セレスの生体側の右目から、零れ落ちた雫が無重力に浮かび上がった。
カール・ヴォルフ「聞いただろ坊主! そのガラクタの言う通りにしてやれ! 時間は一方通行だ、失われた女の過去なんざどこにもねえんだよ!」
イアン・ヴァレンタイン「黙ってろセレス! そしてカール、貴様は物理学の基礎から学び直せ!」
イアンは己の首の後ろ、生体プラグの保護カバーを指先で無理やり引き剥がした。主機関から垂れ下がる極太の制御ケーブルを鷲掴みにし、剥き出しの神経ポートへ力任せに突き立てる。
閃光のような超高圧パルスが、イアンの延髄を無慈悲に灼いた。
イアン・ヴァレンタイン「ぐ、ぎああああああッ!!」
イアンは血を吐きながらセレスの引き裂かれた右肩へ組み付き、露出した彼女の光ファイバー束を己の生体端子へ強引に直結させた。
混ざり合うはずのない人間の激痛と、機械の過負荷信号が、激しい奔流となって二人の神経系を同時に蹂躙する。
セレス・ミハイル「イアン……ッ!? 脳神経が蒸発します……離れて……っ、あぁ、身体が、溶ける……っ!」
イアン・ヴァレンタイン「二隻の船の質量をぶつけ合い、事象の地平線の回転エネルギーを根こそぎ奪い取る……ペンローズ過程の強制励起だ! お前を切り捨てる計算式など、俺の宇宙には一行たりとも存在しない!」
二人の同期した神経パルスが、瀕死のアストライアのコアを臨界突破させる。逆流した重力波の暴風が、クロノスを繋ぎ止めていたドッキングアームを分子レベルで粉砕した。
カール・ヴォルフ「馬鹿な……事象の地平線から……エネルギーを抜き取るだと……!? 俺の、俺の百年の時間が……消える、あああああっ!」
引きちぎられた重力アンカーの反動に呑み込まれ、カールの肉体は光の糸のように引き伸ばされながら、無限の時間の底へと永遠の残像を焼き付けて消滅した。
警報。臨界脱出ベクトル突入まで残り三秒。外部推進バルブの閉鎖を手動確認せよ
脱出コースへ乗るための最後の手動弁が、開放されたまま凍りついている。誰かが外に出て押し込まなければ、カプセルは重力の裂け目に落ちる。
セレスが動こうとした瞬間、イアンは彼女の破損したチタンの右腕の残骸を力任せに引き抜き、推力噴射装置を直結させてバルブの隙間へ強引に叩き込んだ。
第四章: 観測者たちの地平線
ゴォォォォォッ!!
空間が跳ね上がり、ガンマ線バーストの青白い閃光が後方へと猛烈な速度で吹き飛んでいく。極彩色の虚無が、急速に遠ざかる。
脱出カプセルの極小の操縦殻。霜の降りた床を白い冷却ガスが這い回り、二人の乱れきった呼吸音だけが狭い空間を満たしていた。
イアンは背中から床へ崩れ落ち、その胸の上には右半身を激しく損壊させたセレスが重なっていた。
失われた彼女の右腕の断面からは、黒ずんだ冷却ジェルと赤い血液が静かに混ざり合い、生々しい金属の裂け目を濡らしている。
トクン、トクン、とセレスの左胸にある生体の心臓が、かすかに、しかし確実に生命のリズムを刻み続けていた。
イアン・ヴァレンタイン「外の世界は……もう二百年後だ。基地も、地球も、俺たちの知っていたものは……何一つ残っちゃいない」
イアンの震える指先が、セレスのチタン装甲と冷たい皮膚の境界を愛おしむように撫でる。漏れ出た体液が触れ合う傷口へ、彼は自らの額を押し当てた。
セレスはたった一つ残された生身の左腕を持ち上げ、煤と血にまみれたイアンの頬をそっと包み込む。
セレス・ミハイル「……構いません。貴方が私を観測し、私が貴方を覚えている限り……この時空のどこであっても、そこが私たちの宇宙です」
無機質だったセレスの灰色の瞳に熱い雫が溢れ、唇がかすかに震えながら、初めて人間としての確かな笑みを形作った。
ひび割れたキャノピーの外には、二百年の時空を超えて届いた冷たく青い無数の星々が、過酷な因果律を生き延びた二人だけの孤独な銀河を、永遠の光で包み込んでいた。