第一章: 冷たい防腐台と生きた標本
叩きつける豪雨の轟音が、地下アトリエの分厚い鉄扉を軋ませる。
ホルマリンとフェノールの刺すような刺激臭が澱む地下室へ、赤黒い滴りを引きずりながら一人の女が倒れ込んできた。
泥水に濡れて重く肌へ張り付く黒髪のロングウェーブ。引き裂かれたヴィンテージの真紅ドレスから、白磁の肩が生々しく露出している。
喉元をきつく締め上げる黒いベルベットのチョーカーが、激しい息遣いに合わせて小刻みに震えていた。
霧生 莉央「ねえ……人を殺しちゃったの。私を壊してくれるなら、なんでもいいよ」
床に擦り付けられた白い指先が、雨宮朔夜の黒い革靴へとすがるように伸びる。
無機質な漆黒のショートボブを微動だにさせず、朔夜は冷徹な眼差しで銀縁の細い眼鏡を指先で押し上げた。
上質な黒のエプロンドレスに身を包み、薄手の解剖用ラテックス手袋が白皙の指にぴたりと吸い付いている。
青白い肌に刻まれた端正な顔立ちには、人間らしい感情の揺らぎなど微塵も存在しない。
雨宮 朔夜「勝手に上がり込まないでください。命の熱ほど醜悪なノイズはありませんよ」
朔夜は淡々と銀色のメスをトレイから拾い上げ、莉央の細い首筋へと冷徹な刃先を押し当てた。
冷え切ったステンレスの感触に対し、莉央の皮膚から立ち上る濃密な熱気が薄いゴム越しにじわりと伝わる。
陶器めいた白い素肌に粟立つ微かな鳥肌。莉央は痛みに怯えるどころか、悦楽に蕩けた笑みを唇に浮かべた。
跳ね上がる頸動脈の鼓動。
霧生 莉央「あ……冷たい。お願い、雨宮さん。私を最高の剥製にして、永遠に保存して……♥」
雨宮 朔夜「美しいまま止まっていてください。腐敗するのは見たくない」
朔夜は手際よく莉央の両手足を拘束台へと導き、太い革ベルトを容赦なく締め上げる。
硬質なベルトが柔らかな肉に深く食い込む感触に、莉央は背筋を弓なりにし、甘く掠れた吐息を漏らした。
ドンドンドン!
工房の重い鉄扉を外側から蹴破るような暴力的な衝撃が、密室の静寂を無惨に引き裂く。
換気用の防音スリットから差し込む赤い回転灯の光が、薬品棚のガラス瓶を毒々しい朱色に染め上げた。
陣内 慎吾「警察だ! 開けろ雨宮! 中に誰かいるのは分かってんだぞ!」
第二章: 暴かれたホルマリンの密室

朔夜の眉一つ動かない。薄いゴム手袋の手で莉央の湿った唇を塞ぎ、大型標本棚の奥深い闇へとその体を押し込んだ。
軋む閂を外し、重厚な鉄扉を静かに開く。
途端に流れ込む湿った冷気と、安煙草のヤニ臭。ずぶ濡れのトレンチコートを纏った大柄な影が、土足で聖域を踏み荒らす。
無精髭に覆われた頑丈な顎。血走った鋭利な三白眼をぎらつかせる中年刑事、陣内慎吾。
陣内 慎吾「夜分に悪ぇな。近所の資産家が毒殺されてな……女の容疑者を追ってきた」
陣内はくわえ煙草の先から細い紫煙を吐き捨て、床に残るごく僅かな泥の飛沫へ鷹のように視線を落とす。
雨宮 朔夜「あいにく、ここにあるのは死んだ標本だけです。生きた人間など立ち入らせません」
陣内 慎吾「ほう……じゃあこの甘ったるい香水の匂いは何だ? おい、下手な小細工は命取りだぞ」
ホルマリンの刺激臭の裏に漂う、甘美な麝香の香り。陣内の指が腰のホルスターへと伸びる。
棚の奥、無数に並ぶ浸漬標本の硝子瓶の隙間から、莉央の潤んだ瞳が朔夜の背中を射抜いていた。
莉央は音もなく細い腕を伸ばし、すぐ間近に立つ朔夜の手首を掴み取る。
濡れて透けた真紅のドレス越しに、朔夜の冷たいゴム指を自らの左胸へと強引に押し当てた。
トクン、トクン、トクン。
霧生 莉央「嘘をつく心臓だけが、本当に生きてるって気がするの」
皮膚の薄皮一枚を隔てて伝わる、暴走寸前の心音。熱狂が朔夜の冷徹な神経をチリチリと侵食する。
陣内 慎吾「どんな綺麗な化けの皮も、剥がせばただの生臭い肉だ。……出てきてもらおうか」
陣内が銃を抜き放ち、標本棚の隙間へと黒光りする銃口を向けた瞬間。
ガシャン!
内側から蹴破られたホルマリン瓶が床で砕け散り、薬液の飛沫とともに莉央が躍り出た。
右手には、鋭く尖った巨大なガラスの破片。迷いなく陣内の頸動脈へと切先を突きつける。
陣内 慎吾「なっ……!?」
霧生 莉央「朔夜、この人があなたの昔の標本――あなたのお母さんを殺した犯人よ!」
第三章: 狂気と共犯の終着点

窓外の稲妻が地下室を白銀に焼き焦がし、剥き出しの狂気を壁に刻みつける。
陣内の浅黒い顔から急速に血の気が引き、脂汗が顎を伝い落ちた。
三十年前、天才法医学者と呼ばれた朔夜の母を絞殺し、その防腐標本技術の手記を強奪した強盗殺人犯。
莉央が資産家を殺害したのは金目当てではなく、過去を隠蔽して権力を得ていた陣内の証拠を暴くためだった。
陣内 慎吾「てめぇら……まとめてここで消してやる!」
獣のような怒号とともに、陣内の指が引き金へ力を込める。
だが、その筋肉が収縮するよりも速く、銀色の閃光が空間を切り裂いた。
シュッ!
朔夜の振るった極薄のメスが、陣内の右手首の正中神経を寸分の狂いもなく断ち切る。
支配を失った指から拳銃が零れ落ち、床の薬液の中へと硬質な金属音を響かせた。
陣内 慎吾「が、あぁぁぁっ!?」
激痛に呻き、床へと崩れ落ちる男の無様な姿に、朔夜は目線すら向けない。
朔夜の視線が捉えたのは、よろめきながら後退する莉央の華奢な身体だった。
その小さな手には、すでに中身を飲み干された空の遮光瓶が握りしめられている。
急速に体温を失っていく莉央が、崩れるように朔夜の胸元へと倒れ込んだ。
青白く透き通る素肌。徐々に光を失い、緩やかに弛緩していく琥珀色の瞳孔。
霧生 莉央「これで……私、あなたの中で……永遠になれる……?」
朔夜は汚れたラテックス手袋を脱ぎ捨て、生涯で初めて、自らの素肌で莉央の頬に触れた。
指先に伝わるのは、急速に冷え固まっていく人間の儚い熱。
そして訪れる、張りつめた完全なる静寂。
最後の鼓動が止まる。
雨宮 朔夜「ええ……完璧です。あなたが世界で一番、美しい」
朔夜の瞳から零れ落ちた一筋の透明な雫が、微熱を失った莉央の唇を艶やかに濡らした。
朔夜は無機質な動作で手術台の無影灯を灯し、冷えゆく莉央の亡骸を横たえる。
床で血を流し這い蹲る陣内を一瞥することもなく、トレイから最も鋭利な解剖メスを静かに構えた。
永遠の美を刻み込むための、二人だけの夜がここから始まる。