第一章: 失敗作を啜る天才少女
白石 美羽(しらいし みう)「お願い、その失敗作を捨てないで……! 私に、舐めさせてっ!」
夕暮れの美術準備室。鼻腔を突き刺すテレピン油の揮発臭。
俺――日向葵(ひなた あおい)の絆創膏だらけの指から、ペインティングナイフが滑り落ちた。カラン、と乾いた金属音が床に跳ねる。
日向 葵(ひなた あおい)「し、白石……? なんで、ここにいるんだよ!」
絵の具で固まったブレザーの袖を引き、背後の棚に背中をぶつける。
腰まで届く銀色がかった黒髪。学園の絶対的な天才、白石美羽(しらいし みう)がそこに立っていた。
普段はガラス玉のように冷徹な彼女の瞳が、今は異様な熱を帯びて赤く充血し、小刻みに揺れている。
白石 美羽(しらいし みう)「コンクール、落選したんでしょう? だからって、ナイフで切り裂くなんて許さないわ……」
日向 葵(ひなた あおい)「ほっとけよ! 俺の描く青は、いつだって泥みたいに濁ってるんだ。こんなゴミ、残しておいたって意味ないだろ!」
喉の奥がひりつく。俺は癖のある黒髪をぐしゃりと掻きむしり、琥珀色の瞳を汚れたリノリウムの床に伏せた。
才能のない人間は、天才の踏み台にしかなれない。
なのに。美羽は一点の染みもない真っ白なスモックを翻し、イーゼルから俺の『濁った群青色の風景画』をひったくった。
白石 美羽(しらいし みう)「あぁっ……この匂い。日向くんが悔し泣きしながら塗りたくった、泥臭い油の匂い……!」
美羽の華奢な肩が震える。彼女は透き通るような白い頬を、まだ乾ききっていない群青色の絵の具へ直接擦りつけた。
ねっとりとした水音。
白い肌と無垢なスモックが、俺の劣等感の塊である『青』でどろりと汚れていく。
日向 葵(ひなた あおい)「お、おい、やめろって! 服も顔も、汚れちまうだろ!」
引き剥がそうと伸ばした俺の手首を、美羽の氷のように冷たい指先が強く掴んだ。
白石 美羽(しらいし みう)「私に『綺麗な絵』なんて見せないで。あなたのその汚い青で、私の目を、灼いてよ……!」
ガラスの瞳から大粒の涙が零れ落ち、キャンバスの群青色に弾ける。
跳ね上がる鼓動が、耳の奥で暴力的なまでに鳴り響く。
誰もが畏怖する氷の女王が、俺の失敗作にむしゃぶりつき、甘く湿った吐息を漏らしている。さらには、絵の具の盛り上がった部分に赤い舌先を這わせ、ちろり、と掬い取った。
背筋に熱い電流が走る。下腹部の奥が、どうしようもなく疼いた。
こいつの涙の量で、俺の絵がどれだけ濁ってるか分かる。……ああ、くそ、たまらない。
白石 美羽(しらいし みう)「はぁっ、はぁっ……もっと頂戴……! この青がないと、私の世界はぜんぶ灰色で、息も、できないのっ……♥」
日向 葵(ひなた あおい)「白石……お前、ほんとに狂ってるよ。……俺の絵はゴミだ。でも、お前を泣かせられるなら、何万枚でも描いてやる!」
俺は震える腕で美羽の細い肩を抱き寄せ、絵の具まみれのキャンバスごと彼女を胸に閉じ込めた。
ぐちゃり、と二人の間で油絵の具が潰れる。
荒い呼吸と涙が混ざり合い、西日の差す密室で、俺たちは底なしの泥のような青に溺れていく。
その時。準備室の重い鉄扉が、冷酷な金属音を立てて開いた。
カシャッ。乾いた電子シャッター音が、熱り立つ室内に響き渡る。
黒澤 怜(くろさわ れい)「やあ、日向くん。ずいぶんと前衛的な指導をしているじゃないか」
逆光の中に立つ影。銀縁メガネの奥で冷たく目を細める美術部部長、黒澤怜(くろさわ れい)だ。
塵一つない仕立ての良い制服を着こなす彼は、白い手袋をはめた手で、スマートフォンをこちらに向けていた。
第二章: 無彩色の処刑宣告

翌日の放課後。美術部のアトリエは、誰かの生唾を飲み込む音すら響くほど凍りついていた。
遠巻きに見守る部員たちの視線が、針のように俺の肌を刺す。
黒澤が白い手袋の指先で、数枚の写真をテーブルの上に滑らせた。
黒澤 怜(くろさわ れい)「昨日、準備室で日向くんが白石さんを脅迫している現場を押さえたよ。自分の落選の腹いせに、彼女の白いスモックに絵の具を塗りたくっていたんだ」
印画紙の中で、涙と群青色の絵の具で顔をぐちゃぐちゃに汚し、俺の胸に蹲る美羽が切り取られている。
周囲の部員たちから、汚物を見るような軽蔑の吐息とざわめきが上がった。
白石 美羽(しらいし みう)「違うわ、黒澤部長! あれは私が、自分から欲しがって――」
黒澤 怜(くろさわ れい)「庇わなくていいんだよ、白石さん。君がここ最近スランプに陥っているのも、すべてこの凡人のノイズが原因じゃないかな」
黒澤は寸分の狂いもない微笑を貼りつかせたまま、アトリエの奥に控える白髪の外国人男性を手招きした。
黒澤 怜(くろさわ れい)「紹介しよう。パリの名門芸術アカデミーの審査員、ローラン氏だ。君の即時パリ留学が正式に決まったよ」
日向 葵(ひなた あおい)「なっ……即時留学だと!? 白石を、今すぐ日本から追い出す気かよ!」
絆創膏の巻かれた拳を握りしめ、俺は黒澤の胸倉へ詰め寄る。
だが、黒澤は一歩も引かない。銀縁メガネのブリッジを中指で押し上げ、絶対零度の視線で俺を見下ろした。
黒澤 怜(くろさわ れい)「才能のない努力ほど、キャンバスを汚すだけの環境破壊はないよ。君は今日付けで美術部を追放だ、日向くん」
白石 美羽(しらいし みう)「いや……嫌よ! パリなんて行かない! 日向くんがいなくなったら、私の目は、また色が消えて――」
自分の喉を掻きむしるように叫ぶ美羽。その耳元に、黒澤が音もなく歩み寄る。
黒澤 怜(くろさわ れい)「白石さん、もし留学を拒否すれば、昨日の写真を学園長に提出するよ。君のせいで日向くんが退学になり、二度と絵を描けなくなってもいいのかい?」
美羽の喉がひゅっと鳴り、血の気の引いた唇が凍りついた。
色を失いかけたガラス玉の瞳が揺れ、すがりつくように俺を見る。
……俺なんかが傍にいたら、こいつの完璧な未来まで泥色に濁っちまう。
奥歯が軋む。俺は下唇を血が滲むほど強く噛み締め、自分の画材箱から一番太い豚毛の筆を抜き取った。鉄錆の味が口いっぱいに広がる。
日向 葵(ひなた あおい)「ああ、黒澤の言う通りだ! 俺の絵なんかゴミだよ! 天才のお前がムカついて、足を引っ張ってやっただけだ!」
声が裏返るのを、怒鳴り声で無理やり捻じ伏せた。
白石 美羽(しらいし みう)「ひ、日向くん……? 嘘よ、そんなの、嘘でしょう……!?」
バキッ。乾いた破断音がアトリエの空気を裂く。
美羽の目の前で、俺は長年使い込んだ愛用の筆を、両手で真っ二つにへし折った。掌に鋭い木片が食い込む。
折れた残骸を床に叩きつけ、俺は美羽の零れ落ちる涙から強引に視線を剥がして、背を向けた。
黒澤 怜(くろさわ れい)「賢明な判断だよ、日向くん。……ああ、餞別にこれを持っていくといい」
去り際、黒澤が俺の背中に向かって薄いタブレット端末を放り投げた。危うく床に落ちかけたそれを、俺は反射的に掴み取る。
黒澤 怜(くろさわ れい)「白石さんの家のハウスキーパーに撮らせた、彼女の本当の部屋だ。君という害虫がどれだけ彼女を汚染したか、その目で見ておきたまえ」
第三章: 暴かれた狂愛のギャラリー

全校生徒と海外の審査員が詰めかけた大講堂。
スポットライトが照らし出す特設ステージの中央に、白布を被せられた巨大なキャンバスが鎮座している。
俺は講堂の最後列、重い扉の陰で、黒澤から渡されたタブレットの画面を食い入るように見つめていた。指先の震えが止まらない。
そこに映し出されていたのは、狂気そのものの温室。
美羽の広大な自室。その瀟洒な壁紙も、高い天井も、天蓋付きのベッドの上ですら、俺がこれまで学校のゴミ箱に捨てたはずの『失敗作の青いキャンバス』が、何百枚も隙間なく貼り巡らされていた。
全部、俺がナイフで切り裂いて捨てた絵だ……! あいつ、毎日ゴミ箱を漁って、全部集めてたのかよ……!
画面の隅。切り裂かれたボロボロのキャンバスを胸に抱きしめ、胎児のように丸まって眠る美羽の姿が映っている。
俺が自分自身で唾を吐きかけたゴミの山の中でしか、あいつは息ができていなかった。
その時、ステージ上で黒澤がマイクを握り、勝ち誇った声を響かせた。
黒澤 怜(くろさわ れい)「それでは、パリへ旅立つ白石美羽さんの最高傑作をお披露目します!」
白布が、ふわりと引き剥がされる。
現れたのは、写真のように正確無比で、一点の曇りもないヨーロッパの街並み。完璧な遠近法。完璧な色彩設計。
会場中から、割れんばかりの称賛の拍手が湧き起こる。
だが。ステージの脇に立つ美羽の瞳は、完全に光を失った死んだガラス玉に戻っていた。指先は氷のように白く、呼吸すらしていない人形。
ふざけるな。あいつに、こんな冷たい檻の中で一生息を止めろってのか! 綺麗に整えられた窒息の中で、死ねっていうのかよ!
俺はタブレットを床に叩きつけ、レッドカーペットの通路を全力で駆け上がった。
肺が焼ける。視界が揺れる。そんなことはどうでもよかった。
日向 葵(ひなた あおい)「そんなの、お前の描きたい絵じゃねえだろ、白石ィッ!!」
腹の底から絞り出した俺の怒号に、講堂中の拍手がピタリと止まる。
黒澤の完璧な笑顔が醜く引きつり、ステージ上の美羽の華奢な肩が、ビクリと大きく跳ねた。
黒澤 怜(くろさわ れい)「日向くん! 退部になった人間が何をしている、警備員を――」
白石 美羽(しらいし みう)「……日向、くん……?」
美羽の死んでいたガラスの瞳に、ステージ下まで駆け寄った俺の、絵の具まみれのブレザーの袖が映り込む。
その瞬間。彼女の瞳の奥で何かが音を立てて決壊し、大粒の涙が次から次へと頬を伝って溢れ出した。
白石 美羽(しらいし みう)「そうよ……こんな綺麗だけの絵、私が描きたいものじゃない! 私の世界は、日向くんの汚い青がなきゃ、全部モノクロのゴミなのっ!!」
美羽はドレスのような制服の裾を翻し、ステージの袖に置かれていた舞台美術用のペンキバケツを両手で抱え上げた。
審査員や生徒たちが息を呑む中、彼女は自らの『完璧な新作』に向かって、バケツいっぱいの青い絵の具を力任せにぶちまけた。
ドシャアッ! 青い飛沫がステージの照明を浴びて炸裂する。
数百万の価値がつくはずだった精密な街並みが、一瞬にしてどろどろの青に呑み込まれ、窒息していく。
美羽は空になったバケツを落とし、青い水溜まりの中に膝から崩れ落ちて、子供のようにしゃくり上げて泣いた。
黒澤 怜(くろさわ れい)「狂っている! 何をするんだ白石さん! こんなの芸術じゃない、ただの汚染だ!」
激昂した黒澤が、白い手袋が青く染まるのも構わず、美羽の細い腕を乱暴に掴んでステージから引きずり下ろそうとする。
俺はステージの階段を一段飛ばしで跳躍し、二人の間に割り込んだ。
第四章: 群青のパレットで息をする
日向 葵(ひなた あおい)「その汚ねえ手で、俺の美羽に触んじゃねえよ!!」
黒澤の腕を力任せに振り払う。俺はブレザーの内ポケットから、金属製の巨大なチューブを取り出した。
昨夜、折れた筆の代わりに素手で混ぜ合わせ、一睡もせずに調合し続けた、俺だけの『くすんだ群青色』だ。
黒澤 怜(くろさわ れい)「どきたまえ、日向くん! 君には筆すらないじゃないか! 素人に何ができる!」
日向 葵(ひなた あおい)「筆が折れたなら、この手で塗ってやる! 美羽、立て!」
俺はチューブの蓋を奥歯で食いちぎり、吐き捨てた。
美羽がぶちまけた青の上へ、どろりと濁った群青色の絵の具を限界まで絞り出す。
絆創膏が剥がれ、昨日の木片の傷口が開いた素手で、その泥のような青を力任せに掬い取った。
白石 美羽(しらいし みう)「あぁっ……日向くんの青だわ……! 匂いがする、私の大好きな、命の匂い……!」
俺は泣き濡れる美羽の冷たい手を強く握りしめ、二人の掌を重ねて巨大なキャンバスへと叩きつけた。
ベチャッ、と生々しい粘着音が講堂に響く。
俺たちの指先が絡み合いながら、青い泥の中を獣のように引っ掻き回す。
黒澤 怜(くろさわ れい)「やめろ、やめてくれ! 構造も計算もめちゃくちゃだ! 市場価値がゼロになる!」
日向 葵(ひなた あおい)「価値なんていらねえ! これは俺が美羽を泣かせるためだけに描く、世界で一番汚くて綺麗なラブレターだ!!」
爪がキャンバスの布地を削る。俺の指の傷口から滲み出た赤い鮮血が、群青色の絵の具に混ざり合い、二度と再現できない深く妖しい紫の影を作っていく。
美羽の白いスモックも、銀色がかった黒髪も、俺が塗りたくる群青色の飛沫でぐちゃぐちゃに染まっていく。
白石 美羽(しらいし みう)「見える……! あぁっ、色が見えるわ! 日向くんの熱くて汚い青が、私の目から、ぜんぶ入ってくる……っ♥」
ボロボロと涙と涎を零しながら、美羽はかつてないほど恍惚とした、悪魔のように美しい笑顔でキャンバスに爪を立てる。
写真のような正確さなど微塵もない。
ただ二人の体温と、血と、涙と、剥き出しの執着だけを塗り込めた、圧倒的な生命力の塊。『群青の嵐』が、そこに獰猛な姿を現していた。
講堂中の生徒も、パリの審査員であるローラン氏すらも、暴力的なまでの色彩の奔流に呑み込まれ、声も出せずに釘付けになっている。
黒澤は膝から力を失い、銀縁メガネを青い水溜まりに落として、ステージの端で呆然と蹲っていた。
俺と美羽は、青く染まりきった巨大なキャンバスの前で、互いの額をピタリと合わせた。
ヒュー、ヒュー、と熱い息遣いが重なる。彼女の頬を伝う温かい涙が、俺の荒れた唇に落ちて溶けた。
塩辛くて、テレピン油の匂いがする、俺だけの天才の涙。
日向 葵(ひなた あおい)「はぁ、はぁ……どうだ、美羽。俺の失敗作、まだ足りないか?」
美羽は群青色の絵の具と俺の血で汚れた指先を伸ばし、俺の唇をゆっくりとなぞり上げた。そのまま俺の親指を自身の熱い口腔へと含み、ちゅっ、と音を立てて吸い上げる。
潤んだガラスの瞳が、底なしの狂愛で俺を射抜いた。
白石 美羽(しらいし みう)「全然足りないわ……。ねえ日向くん、次は私のどの部分を、あなたの青で汚してくれるの……?♥」