第一章: 硝子と鉄の箱庭
酸性雨がトタン屋根を穿つ。単調な律動に混じる、咽び泣くような鉄の匂いと泥の腐敗臭。水溜まりには毒々しい紫のネオンサインが反射している。
アレンは無造作な黒髪から雫を滴らせ、作業台に寄りかかった。額に押し上げられた防塵ゴーグル。オイルに塗れた分厚いキャンバス地の作業着。薄暗い工房のランプが、彼の鳶色の瞳の奥で微かに揺らぐ。右肩から先――無骨な鋼鉄の塊である機械鎧が、カチリと乾いた駆動音を鳴らす。
雨の夜は嫌いじゃない。だが、この街の雨は肌を焼く。
アレン「……ったく。こんな粗大ゴミ、どこから湧いて出たんだよ」
足元のブルーシート。絶え間ない雨のノイズとは無縁の、圧倒的な静寂が横たわる。
純白の薄いワンピースが、濡れて半透明に肌へ張り付いている。透き通るような銀髪に泥が跳ね、首筋には無数の接続端子と青く発光するバーコードが刻まれていた。
ひんやりとした冷気が、彼女の体から立ち昇る。
閉じた睫毛の先で、光の粒が微かに震える。
アレンは無意識に息を止め、鉄の指先をそっと彼女の頬に近づけた。凍りつくような冷徹な肌の感触。
微かな呼気。血の気のない唇が動く。
ルミア「……うるさい、ノイズ……」
ガスバーナーに火を入れる。
すすけたマグカップに、ドロドロの栄養ペーストを溶かした温かいスープ。
アレン「おい、飲めるか。ぶっ壊れてるなら、直せばいいだけだ」
体を起こした少女は、マグカップを両手で包み込んだ。
トクン、と。
彼女の首筋の青い光が、脈打つように明滅する。
ルミア「……これは、何ですか?」
アレン「スープの代わりだ。腹の足しにはなる」
口に含んだ瞬間、ルミアの銀色の瞳が大きく見開かれた。
ルミア「温かい……。喉の奥が、熱いです……」
アレン「……そりゃどうも」
透明な雫が、彼女の頬を伝い落ちる。
アレン「おい、どこか痛むのか?」
ルミア「わかりません。ただ、水が、止まらなくて……」
雨音だけが響く静寂。
伸ばしかけたアレンの機械の右腕は、空を切る。
冷たい鉄の塊では、その涙を拭うことすらできない。
錆びついた胸の奥で、何かが軋む音を聞いた。
◇◇◇
第二章: 幻の空と迫る足音

街の感情統制システム「鳥籠」から逃亡した歌姫。
それが彼女、ルミアの正体。
アレン「ほら、こいつを見てみろ」
旧式のホログラムプロジェクターのスイッチを弾く。
熱を帯びた機械の駆動音とともに、空中に浮かび上がるのは旧世界のデータ。どこまでも広がる青の色彩。白い雲。羽ばたく鳥のシルエット。
薄暗い工房の中に、幻の空が広がる。
ルミア「……青い。これが、空、ですか?」
アレン「あぁ。俺たちは一生見られない景色だがな」
ルミア「私、もっと見たいです。あなたと、この世界を」
初めて口にした、我儘な願い。
アレンの鳶色の瞳が、一瞬だけ鋭く細まる。
俺には、空を飛ぶ資格なんてない。
失った右腕の断面が、幻肢痛のようにズキリと疼く。コーヒーの代用品の苦味が、舌の根に張り付いて離れない。
◇◇◇
都市の空気が、重く淀んでいく。
ルミアの不在。それは、街の人々の精神を強制的に安定させていたシステムの綻びを意味する。
遠くで、不協和音のようなサイレンが鳴り響く。
漆黒の特務警察制服に身を包んだ男が、雨の中に立つ。
冷たい青の義眼。後ろで束ねた銀色の長髪から、水滴が滴る。
ジン「自由などという幻想が、人を狂わせ、不幸にするのだ」
水たまりを踏み砕く黒いブーツ。
工房の警報システムが、けたたましく鳴り響いた。
赤色灯の強烈な明滅。焦げた配線の匂いが鼻を突く。
アレン「……ジン。とうとう嗅ぎつけやがったか」
扉の向こう側から迫る、圧倒的な暴力を孕んだ足音。
◇◇◇
第三章: 届かない指先

扉が吹き飛ぶ。
爆風と、濃密な硝煙の匂い。
土砂降りの雨が、工房の中へ容赦なく雪崩れ込んでくる。
ジン「探したぞ、アレン。その不良品を引き渡せ」
アレン「ふざけんな! こいつはモノじゃねぇ!」
ジンの青い義眼が、残酷な光を放つ。
ジン「お前の薄っぺらい自由が街を壊す。あの時のように、また大切なものを守り損ねるつもりか?」
右腕。親友。血の匂い。絶叫。
アレンの喉の奥がヒュッと鳴る。視界が明滅し、息ができない。
街のあちこちから、暴徒と化した人々の叫び声が風に乗って響く。
ルミアが、青ざめた顔で窓の外を見つめていた。
ルミア「私のせいで……皆さんが、痛がっている」
アレン「ルミア、行くな! そいつの言葉を聞く必要はねぇ!」
ルミアは静かに振り返る。
純白のワンピースが、吹き込む風に煽られて大きく翻った。
ルミア「アレン。私の歌で、皆さんが安らぐのなら……それでいいんです」
彼女の冷たい両手が、アレンの汚れた頬を包み込む。
初めて触れる、雪のような柔らかい感触。
唇の端に、かすかな笑みを浮かべる。
ルミア「さよなら、私の青い空」
ジンの部隊が彼女を冷酷に取り囲む。
アレンは地面を蹴った。
アレン「ルミアぁぁぁ!!」
指先。あと数ミリ。
冷たい雨の膜を裂いて伸ばした機械の腕は、ルミアの白い指先を無惨に滑り落ちる。
掴み損ねた虚空。
身を切るような雨の冷たさだけが、鉄の掌に残っていた。
◇◇◇
第四章: 鳥籠の頂へ

中枢タワー「鳥籠」。
その頂上から、悲鳴にも似たノイズ混じりの歌声が街に降り注ぐ。
ルミア「あ、ああぁぁ……!!」
通信機から、しゃがれた声が響く。
マザー・クロック「ガラクタにはガラクタの意地ってもんがあるんだよ。道は開いた! 行きな、アレン!」
アレンは螺旋階段を駆け上がる。
肺が焼け焦げるような熱。口内に広がる、ドロリとした血の鉄の味。
最上階の重厚な扉を蹴り破る。
無数のケーブルに縛られ、虚空を見つめるルミア。
その前に、ジンが立ち塞がった。
ジン「なぜ理解しない! 完全な統制こそが人を救うのだ!」
アレン「黙れぇ!!」
鋼鉄と鋼鉄が激突する轟音。
火花。焦げた肉の匂いが鼻を突く。
ジンの鋭い蹴りが、アレンの脇腹を抉り取る。
ジン「俺はもう、誰にも傷ついてほしくないんだ……!」
アレン「自由が人を殺すなら! 俺がその痛みを背負う!!」
限界を突破した駆動音。
アレンの右腕の装甲が弾け飛び、剥き出しのシリンダーが火を噴く。
渾身の一撃が、ジンの胸当てを砕き割った。
崩れ落ちるジン。
アレンは血を吐きながら、ルミアの元へ這いずる。
ルミア「……ア、レン……?」
アレン「迎えに来た」
ブチィッ!!
無数の接続ケーブルを、千切り捨てる。
火花。ショートする青い光。
ルミアの体が、ゆっくりと前へ傾く。
アレンは残された左腕で、その華奢な体を受け止める。
システムから引き剥がした瞬間。
メインサーバー、強制シャットダウン
街のすべての光が、落ちた。
◇◇◇
第五章: 夜明けの青

完全な暗闇。
いや、違う。
スモッグを吐き出し続けていた排気塔が沈黙している。
何十年ぶりかに、風が街の淀みを吹き払う。
肺の奥まで届く、澄み切った冷たい空気の匂い。
瓦礫の山の上で、アレンは目を覚ます。
腕の中には、規則正しい寝息を立てる少女。
首筋の青いバーコードは、もう光っていない。
東の空が、白み始める。
灰色の雲が切れ、圧倒的な光の矢が降り注ぐ。
ルミアがゆっくりと目を開けた。
その銀色の瞳に、燃えるような朝焼けが鮮やかに映り込む。
ルミア「ここは、どこですか? 私は……」
記憶を失った透明な声。
アレンは痛む体を起こし、彼女の小さな手を握る。
温かい。ただの人間と同じ確かな体温が、そこにあった。
アレン「……俺たちの、自由な空の下だ」
見上げれば、旧世界のデータよりもずっと鮮やかな、本物の青。
機械の腕はもう動かない。
けれど、この繋いだ手だけは、二度と離さない。