第一章: 偽りの雨と幻の波音
幾千のネオンが滲む下層区。空は分厚い電子雲に塞がれ、重金属混じりの人工雨を規則的なペースで吐き出し続けている。
オゾンと排気ガスの焦げた匂い。それが狭い路地裏の空気にべっとりとへばりつく。
くすんだ青い瞳。降りしきる雨滴の軌跡を、レイ・オズワルドはぼんやりと追う。
色褪せた防水性の黒いロングコートが、油汚れた水を弾く。無精髭の顎先から落ちる冷たい飛沫。濡れて額に張り付いた黒髪を乱暴に掻き上げ、レイは足元の泥濘を見つめた。
「頼む……娘の記憶を消してくれ。あの子は、病死した母親の影を探して狂いそうなんだ」
暗がりにうずくまる中年の男。血の滲む指が、レイのコートの裾にすがる。
沈黙。レイは首元に刻まれた古い記憶端子の傷跡を指先でなぞり、男の延髄にあるコネクタへ無機質な銀色のケーブルを躊躇なく突き立てる。
[System]メモリ領域への強制アクセスを開始。対象ブロック:G-77。デリート実行。[/System]
微かな痙攣。男の喉から漏れたくぐもった音を最後に、糸が切れたように肉体が崩れ落ちる。顔の筋肉は弛緩し、ただ呼吸を繰り返すだけの空っぽの肉袋と化した。
手慣れた作業。街の底で繰り返される、合法的な魂の摩耗。
[A:レイ・オズワルド:冷静]「……思い出は、人を殺す毒だ」[/A]
掠れた低い声が、雨音に溶ける。
その時。
背後の水溜まりが跳ねる。
[Pulse]微かな水音。[/Pulse]
振り向くより早く、レイの視界の端を鮮やかな赤が掠めた。
色褪せた赤いライダースジャケット。動きやすい黒のカーゴパンツ。濡れた黒いショートヘアから、雨粒が宝石のように零れ落ちる。
首筋から背中にかけて、無数の違法なコネクタ接続痕が黒い痣のように連なる少女。
[A:シアン:冷静]「私が、あなたの忘れた痛みを覚えてる」[/A]
刺々しい声。
彼女の細い指先から、黒いプラスチックの塊が放物線を描いて飛んでくる。
反射的に受け取ったそれは、旧時代の遺物。磁気テープが巻かれた古いカセット。
[A:レイ・オズワルド:驚き]「誰だ、お前は」[/A]
問いただす声は空を切る。少女の姿は、ひび割れたコンクリートの向こうの路地へ瞬く間に溶けて消えていた。
冷たい雨の中、レイは携帯用の再生機にカセットを押し込む。
[Glitch]ザッ……ザザザッ……[/Glitch]
ノイズの奥から響いてきたのは、都市には存在しないはずの音。
波の音。砂を噛む水のさざめき。
潮風の匂いすら錯覚させる、圧倒的な自然の残響。
[Pulse]ドクン、と。[/Pulse]
心臓が不規則なリズムを刻む。視野が急激に狭窄していく。
[Flash]脳裏に閃く、あり得ないフラッシュバック。[/Flash]
白く輝く砂浜。海辺で笑い合う、顔のない女。
太陽の光が水面を乱反射し、女の白いワンピースの裾が風に揺れる。
[Think]誰だ。これは、誰の記憶だ?[/Think]
喉の奥がカラカラに乾く。レイは再生機を砕かんばかりの力で握りしめた。
直後、[Impact]閃光[/Impact]とともに女の顔のノイズが晴れる。
現れた顔面。
それは、たった今カセットを投げて消えた少女——シアンと寸分違わぬ顔。
しかし、記憶の中の彼女は笑いながら、己の指を両眼の眼窩に深く突き立て、鮮血を撒き散らして顔面を引き裂いていた。
[Tremble]レイの全身から、一瞬にして体温が奪い去られる。[/Tremble]

第二章: 追憶のガラクタ山
肺を焼くような息継ぎ。
廃棄区画のガラクタ山を駆け上るレイのブーツが、錆びた鉄骨を蹴り飛ばす。
鉄の錆とカビの入り混じった冷たい空気。気管の粘膜が容赦なく削り取られる。
山頂のクレーンの残骸。
そこに、赤いライダースジャケットが腰掛けていた。オレンジ色の非常灯が、彼女の横顔を寂しげに照らし出す。
[A:レイ・オズワルド:怒り]「あのノイズはなんだ。俺の脳に何を仕込んだ」[/A]
[A:シアン:悲しみ]「仕込んでなんかないでしょ。それは、あなたが厳重に鍵をかけた……あなた自身のバグじゃない」[/A]
少女の瞳は、底なしの暗がりを湛えている。
[A:シアン:怒り]「あなたは大切なものを自ら殺した。システムに従って、自分の手で」[/A]
言葉の刃がレイの胸を抉ろうとした瞬間。
[Shout]ギュィィィィン!![/Shout]
鼓膜を裂く高周波。夜空のホログラムを切り裂き、記憶管理局の殺戮ドローンが四機、雨雲の中から急降下してくる。
[A:レイ・オズワルド:冷静]「伏せろ!」[/A]
[Sensual]
レイはシアンの細い肩を掴み、泥に塗れた鉄板の陰へ力任せに引きずり込む。
重なり合う身体。冷え切ったレイのコート越しに、シアンの異常なほど高い体温が伝わってくる。微かに甘い携帯食料の匂いと、雨に濡れた髪の匂いがレイの鼻腔をくすぐった。
[/Sensual]
銃火がガラクタの山を吹き飛ばす。
レイは懐から大型の電磁拳銃を引き抜き、反転と同時に引き金を引く。
青白い閃光。ドローンの装甲を貫き、火花を散らして爆散する。
地下に広がる古い配管室への逃走。
息を潜める暗闇の中、シアンは背中のコネクタから青く光るケーブルを引き出し、古びたコンソールへ接続する。
空中に投影される無数のホログラム映像。
それは、彼女が集めてきた「消された市民たちの記憶」。
誕生日ケーキのロウソクを吹き消す子供。雨宿りをする恋人たち。老犬の頭を撫でる皺だらけの手。
ささやかで、痛々しいほどに美しい日常の結晶。
[A:レイ・オズワルド:悲しみ]「こんなもののために、お前は管理局から逃げ回っているのか……」[/A]
[A:シアン:照れ]「馬鹿みたいでしょ。でも……私には、自分の記憶が一つもないから。他人の温もりを借りないと、自分が消えちゃいそうになるの」[/A]
伏せられた長い睫毛。その横顔に、レイはまたしても「顔のない女」の影を重ねる。
胸の奥で、鉛のような痛みが鈍く脈打つ。
だが、安息は一瞬。
[Impact]ドガンッ!![/Impact]
分厚い鋼鉄の扉が、外側から爆発する。
白煙の中から現れたのは、汚れ一つない真っ白なスリーピーススーツ。プラチナブロンドの髪を撫で付けた男が、冷徹な銀縁眼鏡の奥で細い目を弧の字に曲げる。
[A:ノア・イングラム:冷静]「おや、こんな汚水溜めで逢引きですか。レイ先輩」[/A]
[A:レイ・オズワルド:怒り]「……ノア」[/A]
ノアの背後には、重武装の鎮圧部隊がずらりと銃口を向けている。
[A:ノア・イングラム:狂気]「彼女に感情移入でもしましたか? 滑稽ですね。彼女は人間ではありませんよ」[/A]
ノアが指を鳴らす。
その瞬間、[Glitch]シアンの全身を激しいブロックノイズが覆い尽くす。[/Glitch]
[A:シアン:恐怖]「あ……っ、いや……!」[/A]
物理的な肉体を持つはずのシアンの右腕が、唐突にデジタル信号の粒へと分解され、空中に霧散する。
血一滴流れない、おぞましい人体欠損。
[A:ノア・イングラム:喜び]「彼女は今日で『84体目』です。あなたは何度、同じ幻を愛し、同じ幻を壊せば気が済むのですか?」[/A]
レイの視界が、絶望的な明滅を繰り返す。

第三章: 白の部屋の残酷な真実
血と、消毒液の冷たい匂い。
記憶管理局の最深部。「白の部屋」。
シンメトリーに配置された無機質な空間。レイの肩から流れる鮮血だけが、純白の床に赤い軌跡を描き出している。
単独突入。部隊を壊滅させた代償として、レイの左腕は完全に感覚を失い、肋骨の数本が折れていた。口の中に広がるのは、ひどく錆びた鉄の味。
部屋の中央。空中に浮かぶガラスのシリンダーの中に、右腕を失ったシアンが意識を失ったまま囚われている。
[A:ノア・イングラム:冷静]「よくここまで来ましたね。褒めてあげましょう」[/A]
ノアはチェス盤のナイトを指で弄びながら、冷ややかな視線を下ろす。
[A:レイ・オズワルド:怒り]「シアンを……返せ」[/A]
[A:ノア・イングラム:狂気]「シアン? ああ、その肉袋の名前ですか。いい加減、目を覚ましてください」[/A]
ノアが空中のコンソールを操作する。
巨大なモニターに映し出されたのは、水槽の中に浮かぶ無数の死骸。
すべて、シアンと全く同じ顔をした少女たちの廃棄体。
[A:ノア・イングラム:冷静]「かつてあなたが自らの手で最適化し、精神を破壊した最愛の恋人。その細胞から私が培養した、ただのクローンです」[/A]
モニターの映像が切り替わる。
かつてのレイが、一人の女性の首筋に端子を突き立てている映像。女性の瞳から光が消え、完全に廃人となる瞬間。
[Tremble]レイの指先が、痙攣するように震え続ける。[/Tremble]
[A:ノア・イングラム:喜び]「悲しみのない世界こそが、究極の自由なのです。妹を失った私にはわかる。あなたも、過去のトラウマに縛られている。だから私が、リハビリの機会を与え続けてきたのですよ」[/A]
ノアがレイの足元へ、銀色の銃を蹴り飛ばす。
[A:ノア・イングラム:冷静]「さあ、彼女の頭を撃ち抜いてください。そうすれば、あなたの脳内のトラウマデータも完全に消去されるようシステムを組んであります。完璧な自由を手に入れてください」[/A]
レイは床の銃を拾い上げる。
銃口の先で、シアンがゆっくりと瞼を開く。虚ろな瞳が、レイを真っ直ぐに捉える。
[A:シアン:悲しみ]「……レイ。撃って。私の中の、あなたの痛みが……耐えられない」[/A]
引き金にかけた指。
しかし、モニターの隅に表示された異常な数値に、レイの視線が釘付けになる。
シアンの記憶端子から伸びる不可視のネットワークコード。それが、都市の空を覆う「ホログラム・ジェネレーター」の中枢に直結している。
彼女はクローンであると同時に、この都市の空を維持するための生体バッテリーとして組み込まれていた。
[A:ノア・イングラム:狂気]「おや。気づきましたか? 彼女を殺せば、都市の空も落ちる。永遠の暗夜の中で、市民は狂い死ぬでしょうね!」[/A]
究極の二択。
だが、レイの口角が僅かに吊り上がる。

第四章: 崩壊する空
[A:レイ・オズワルド:狂気]「……思い出が毒なら。特効薬は、致死量の現実だ」[/A]
レイは銃口をシアンから外し、自らのこめかみに突きつける。
[A:ノア・イングラム:驚き]「なっ……何を」[/A]
首元の記憶端子から、どす黒い血液が噴き出す。
レイは己の脳内に施された最適化プログラムのセーフティを、物理的なショックダウンで強制解除した。
自身の命と記憶を削り、管理局のシステム制御権を奪取する自死行為。
[System]警告。未承認のマスターアクセス。脳神経への過負荷率、980%。生命維持機能に重大なエラー。[/System]
[A:レイ・オズワルド:怒り]「[Shout]落ちろぉぉぉぉっ!![/Shout]」[/A]
血走った両目から一筋の血の涙を流しながら、レイはもう片方の手で電磁拳銃を乱射する。
[Impact]ドバァンッ!![/Impact]
白い部屋を真紅の鮮血が染め上げる。ノアの白いスーツが弾け、鮮血の華が咲き乱れる。
床に這いつくばるノアを飛び越え、レイはシリンダーを拳で叩き割った。
[Sensual]
崩れ落ちるシアンの体を、血まみれの腕で抱きとめる。
彼女の首筋のコネクタへ、レイ自身の首から引き抜いたケーブルを直接突き立てた。
致死量の電流とデータの奔流が、二人の肉体を繋ぐ。
[/Sensual]
[Magic]《システム・オーバードライド:全電源喪失》[/Magic]
[Flash]視界が真っ白に染め上げられる。[/Flash]
轟音。
都市の上空を覆っていた分厚いホログラムの電子雲が、ノイズとともにひび割れていく。
偽りの星空が剥がれ落ちる。
漆黒のドームの天井が物理的に崩落し、その向こう側から——。
圧倒的な光の奔流。
本物の朝陽が、数十年ぶりに海上都市を照らし出す。
刺すような光のカタルシスの中、シアンがレイの胸ぐらを掴む。
[A:シアン:恐怖]「レイ……! 私の記憶が……消え、て」[/A]
彼女の輪郭が朝陽を透過し、蜃気楼のように揺らぐ。
システムと切り離された彼女の脳から、他人の記憶、そして「レイと過ごしたわずかな時間」さえもが、砂のように零れ落ちていく。

第五章: 朝焼けのホログラフィ
崩落したドームの外縁。波が打ち付ける防波堤。
潮風が、冷え切った頬を撫でる。
システムは完全にダウンし、眼下の街からはパニックに陥るサイレンの音と、人々が忘れていた痛みに泣き叫ぶ声が響いている。
レイはコンクリートの壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。
脳神経の過負荷による代償。レイの視界はひどく[Blur]ぼやけ[/Blur]、己が誰であるのかすら、すでに曖昧になりかけている。
喉の渇き。体温の低下。
死の足音が、静かに背中を撫で上げている。
隣には、右腕を失った少女が座っている。
彼女もまた、一切の記憶を失い、虚ろな瞳でただ前を見つめていた。
[Think]……お前は、誰だっけ。[/Think]
名前が思い出せない。
なぜ自分がこんなに血を流しているのかも、隣にいる傷だらけの少女がなぜ泣いているのかも、もう分からない。
だが。
目の前に広がるのは、どこまでも続く本物の青い海。
水平線を染め上げる、燃えるようなオレンジ色の朝焼け。
波の音が、かつてカセットテープで聴いた幻の音と同じリズムで耳膜を打つ。
[Sensual]
シアンの左手が、おずおずと伸びてくる。
彼女の細い指が、レイの冷えゆく大きな手を、ただ強く、すがるように握りしめた。
何も分からない。何も覚えていない。
それでも、重なり合った掌から伝わるその熱だけが、たしかに「ここ」にあった。
[/Sensual]
レイのくすんだ青い瞳から、一筋の透明な雫がこぼれ落ちる。
[A:レイ・オズワルド:冷静]「……綺麗な、空だ」[/A]
掠れた声は、波音に溶けて消える。
シアンは何も言わず、ただレイの肩にそっと頭を乗せた。
痛みと喪失だけが残された新しい世界で。
静かで、どうしようもなく温かい余韻だけが、黄金色の海風の中に溶けていった。