第一章: 密室の聖女と血染めの嘘
雷鳴が歪んだ強化ガラスを激しく揺らし、削れ落ちた天井の隙間から、氷のように冷たい雨粒が叩きつけられる。
ガラス温室の中に充満しているのは、踏みにじられた大輪の薔薇が放つ青く甘い香りと、吐き気を催すほどに濃密な鉄の匂いだ。
シオン・グラディスはオイルとタールで汚れた指先をコートのポケットに押し込み、着古した革のロングコートの襟を立てた。
胸元のポケットで眠る古い機械式懐中時計が、カチ、カチと不規則で不気味な金属音を歪んだリズムで刻み続けている。
シオン・グラディス「呼び出しの理由がこれかよ。相変わらず趣味が悪すぎるな、お嬢様」
足元の温床には、胸を深々と鋭利なナイフで穿たれた老人の死体が、自らの血の海に浸かって転がっていた。
その死体のすぐ傍らに佇むのは、純白のドレスの裾を禍々しい朱に染めたひとりの少女。
風に洗われる透き通るようなプラチナブロンドの髪が、散らばる薔薇の花びらの上で儚げに揺れている。
宝石のように冷たく澄んだ碧眼が、天井から降り注ぐ雨粒と雷光を無機質に反射させていた。
エリス・ヴァレンティンは血に濡れた細い指先を胸の前で重ねあわせ、喉を愛らしく小さく震わせる。
エリス・ヴァレンティン「探偵様……お父様が、急に……私、恐ろしいことなんて何ひとつ知りませんの」
途切れ途切れの可憐な悲鳴。
だが、捲れ上がったドレスの破れ目、太もものガーターベルトに潜ませた黒光りする毒針がかすかに覗いているのを、シオンの眼が見逃すはずもない。
シオンは三白眼を深く細め、彼女の震える指先と、泥を被った靴先をじっと見つめた。
悲壮感に満ちた表情で泣き叫ぶその爪先は、恐怖で竦んでいるのではない。
あまりの歓喜と興奮に耐えかねて、今にも跳躍しそうなほどに強張っているのだ。
シオン・グラディス「嘘が下手だな、お嬢様。指先が微かに跳ねてるぜ。死体を前にして、嬉しさのあまり踊りだしたいのを必死に耐えている顔だ」
エリス・ヴァレンティン「あら……可憐な少女の演技、見破られてしまいましたでしょうか?」
その瞬間、おどおどとした可憐な笑みが醜悪なほど美しく歪んだ。
透き通る瞳の奥からどろりとした漆黒の狂気が溢れ出し、彼女は血濡れた指で自分の唇をなぞる。
直後、空を切り裂くような重低音が響き渡り、温室の広大な足場が強烈な砲撃によって一瞬で吹き飛んだ。
轟音。暴風。吹き荒れる熱波が二人を猛然と襲い、砕け散った数万個のガラス片がスコールとなって降り注ぐ。
崩落し、雲海へと傾いていく足場のギリギリの縁で、エリスはふわりと宙を舞うようにシオンの首元へ細い腕を巻きつけた。
濡れたプラチナブロンドの髪がシオンの頬をそっと撫で、甘いロイヤルミルクティーと濃厚な血の匂いが鼻腔を激しく突く。
彼女の濡れた吐息が首筋に直接吹きかけられ、熱い唇が耳元へとしどけなく寄せられた。
エリス・ヴァレンティン「私を救って、探偵様。……私を殺した本当の犯人は……あなたよ」
♥高鳴る心音[/Heart]が互いの胸板を通じて強く重なり合い、外部スピーカーから鼓膜を刺すような高音のサイレンが夜空に鳴り響く。
警報:総督殺害犯シオン・グラディスを検挙せよ。即座に鎮圧を開始する
シオン・グラディス「ハッ、最高だな! 最初から俺を嵌めるために仕組んでやがったか!」
足元の鉄骨が爆風で歪み、眼下にどこまでも続く果てしない雲海が広がる。
背筋を焼き尽くすような高所の恐怖を強烈な獰猛さで噛み殺し、シオンはエリスの細い腰を強く引き寄せた。
二人の交錯する身体は、紫煙と雷光が疾走する空へとダイブするように投げ出された。
第二章: 偽りの記憶と支配者の襲来

ズバッ、ズバッと雨水を不規則に吐き出す古い排気管の音が、薄暗い地下診療所の湿った空間に重く響いている。
シオンは雨と血で濡れた革コートを雑に脱ぎ捨て、胸元から取り出した懐中時計のリューズを強く巻き上げた。
カチ、カチ、カチ。金属の不協和音が狭い部屋の静寂を削り取っていく。
エリスは濡れたドレスの裾を固く絞り、血の滴を床に落としながら、冷え切ったパイプ椅子に優雅に腰掛けていた。
エリス・ヴァレンティン「私の目的は一つ。この天空都市の全記憶を司る『中枢鍵』の奪取ですわ。あなたを容疑者に仕立て上げたのは、あなたの生体反応こそが、鍵の保管庫を開く唯一の承認コードだからです」
シオン・グラディス「俺の身体が鍵だと? 生憎だが、俺の記憶にそんな物騒なデータが入っている覚えはないな。笑えない冗談だ」
シオンが吐き捨てたその瞬間、重厚な鉄扉が圧殺されるような衝撃音とともに豪快に吹き飛んだ。
爆風に乗って、無機質で重厚な靴音が暗闇を踏み荒らして迫る。
煙の奥から現れたのは、漆黒の軍服を隙ひとつなく完璧に着こなした大柄な男。
完璧に整えられたオールバックの金髪。右目の鋭い眼光と、不気味に青く明滅する左目の精密な機械義眼。
治安維持局長官、ヴェイン・クロウが腰の大型拳銃のグリップに、手袋越しに手をかけていた。
ヴェイン・クロウ「そこまでだ、バグども。無駄な逃亡劇はここで終わりだ」
シオン・グラディス「ヴェイン……! 失われた俺の過去を、親切に返しに来てくれたのかよ」
ヴェインは冷血な嘲笑をその唇に浮かべ、左腕のホログラム端末を滑らかに操作した。
ヴェイン・クロウ「追うべき過去など初めから存在しない。シオン、お前は半年前、我々がラボで製造したただの実験体だ。総督を殺害し、処分されるためだけに作られたプログラミングに過ぎん」
強烈なノイズがシオンの視界を真っ赤に塗りつぶす。
頭蓋骨を内側から鋭利な万力で握り潰されるような猛烈な激痛が走り、シオンは頭を抱えてその場に膝をついた。
脳裏に濁流となって強引に流れ込んでくるのは、自分が血塗られたナイフを握り締め、慈悲を乞う総督の胸を何度も激しく突き刺す残酷な映像だ。
視界がドス黒い赤に染まり、鉄の味が口内にぶわりと広がる。
シオン・グラディス「がっ……ああぁぁぁっ! 俺が……俺の手が……やったとでも言うのか……!?」
ヴェイン・クロウ「この都市に本物の人間など一人もいない。お前も、その女も、配管を流れる廃液と同じ精細な人形だ」
足元で吐血し打ち震えるシオンを見下ろし、ヴェインが大型拳銃の引き金に指をかけたその瞬間、横合いから一筋の影が奔った。
エリスが人間離れした素早い動作でヴェインの肘を蹴り上げ、空中に舞った大型拳銃を完璧な動作で奪い取る。
そして、その黒い銃口を、あろうことか膝をつくシオンの眉頭へと突きつけた。
エリス・ヴァレンティン「ふふ、自分の正体に絶望し、崩れていくお顔……本当に、本当に素敵ですわ、シオン様」
第三章: 反転する愛憎と楽園の崩落

天空都市の心臓部。巨大サーバー群が発する冷却ファンと重低音が、空間全体を微細に震わせている。
青いホログラムの膨大なデータ光が交差するタワー最上階で、ヴェインは奪い返した銃を構え、冷たく言い放った。
ヴェイン・クロウ「エリス、お前の協力には感謝する。これで都市住民すべての記憶を白紙化し、完璧な統制を行う準備が整った」
エリス・ヴァレンティン「あら、大きな勘違いをなさらないで。私の狙いは全員を『偽りの平和』から解放すること。つまり、この記憶データをすべて灰にすることですわ!」
エリスが隠し持っていた毒針を中央端末に突き刺そうとした瞬間、ヴェインの容赦ない鉄拳が彼女の細い顎を容赦なく撃ち抜いた。
生々しい音を立てて床に倒れ込み、美しいプラチナブロンドの髪を血と埃の中に散らすエリス。
脳内で流し込まれた偽りの記憶が激しく渦巻き、視界を明滅させていたシオンは、ポケットの中で胸元の機械式懐中時計を強く握り締めた。
ズボンのポケットから引き抜き、鋭利な金属の角を、自らの額へ向けて全力で叩きつける。
ゴツン、と嫌な音が響き、皮膚が大きく裂け、温かい鮮血が視界を真っ赤に濡らした。
脳を刺す強烈な物理的激痛が、システムから流し込まれた偽りのノイズを力任せに吹き飛ばす。
シオン・グラディス「真実も記憶も作り物なら全部ゴミだ! なら、俺の都合のいい嘘でこの世界を塗り替えてやる!」
シオンの濁った瞳に、凄惨な狂気の光が宿る。
シオンは懐中時計から飛び出した鋭利な解錠用ツールを中央コンソールへ深く突き刺し、セキュリティプログラムを力任せに破壊した。
警告:反重力機関の安全装置が解除されました。都市墜落プロセスを開始します
ガガガとタワー全体が大きく傾き、足元の鉄骨から不気味な金属疲労音が悲鳴のように響き渡る。
ヴェイン・クロウ「狂ったか! 自分ごと都市を墜落させる気か!」
シオン・グラディス「偽物の楽園はここで終わりだ! 支配者気取りのお前も、一緒に地獄へ行こうぜ!」
第四章: 落下の果ての純愛
無数の爆炎が、黒く染まった夜空を激しく焼き尽くす。
高度数千メートル。浮力を完全に失った巨大天空都市が、真っ赤な火柱を上げながら崩落を開始していく。
吹き荒れる凄まじい暴風の中、シオンは狂気に満ちた叫びを上げ、襲い来るヴェインの胸元へ果敢に跳びかかった。
エリスのガーターベルトから瞬時に引き抜いていた暗器を、ヴェインの機械化された左目へ深々と突き立てる。
バチバチと青い火花が散り、過電流が男の顔面を焼き焦がす。
ヴェイン・クロウ「こんな……ただのバグに……私が築いた秩序がぁぁぁっ!」
絶叫とともに、かつての支配者は雲海の深淵へと真っ逆さまに姿を消した。
あとに残されたのは、崩壊しながら落下していく外壁の、ほんの一片の小さな鉄骨だけだ。
ゴーゴーと耳を劈く風が吹き荒れ、足元の鉄骨が次々と剥がれ落ちて夜空へ散っていく。
シオンは口から血を吐き出しながら、血塗られたナイフの刃先をエリスの白く細い首元に突きつけた。
荒れ狂う炎の赤が、彼女の純白のドレスと透き通るような白い肌を妖しく照らし出す。
エリスは首筋に鋭利な刃を立てられながら、荒い息を吐き出し、宝石の瞳を怪しく興奮に輝かせた。
エリス・ヴァレンティン「私をここで殺すの? それとも、私と一緒に落ちてくれるの……?」
シオン・グラディス「どっちでもいいさ。お前が仕掛けた最高の嘘に、最後の最後まで付き合ってやる」
シオンは彼女の細い首に腕を強く回し、エリスもまたシオンの首元へ細い指先を食い込ませた。
♥互いの死の温もりと激しい心音が、肌を通じて鮮明に伝わる。[/Heart]
極限の落下速度と重力の中、二人の血塗られた唇が強く重なり合った。
エリス・ヴァレンティン「ああ……世界で一番美しい嘘を、あなたと……永遠に」
二人は狂おしく愛おしい笑みを交わしたまま、真っ白な雲海の底へ、誰も嘘をつかなくていい未知の地上へとどこまでも共に堕ちていった。