第一章: 首筋を捧げる女と一万両の契約
榊 静乃「さあ、弦之介(げんのすけ)様……っ。私のこの白い首を、あなたの名刀で、今すぐ刎ねてくださいませ……!」
高く結い上げた黒髪がふわりと揺れ、甘く濃厚な香油の匂いが畳の上に広がる。純白の紋付袴の襟元が大きくはだけ、月明かりを吸い込んだ雪のように白いうなじが、無防備に晒された。
すり切れた黒の着流しを纏う長身の浪人、朽木弦之介(くちき げんのすけ)は、眠たげな三白眼をわずかに細める。余裕たっぷりに見下ろすその視線の裏で、彼の背筋には冷たい汗がツツーッと流れ落ちていた。
冗談じゃねえ!俺の本物の名刀はとっくの昔に質屋の蔵の中だ!今腰に差してるこいつは、銀箔を貼っただけのただの竹光(たけみつ)だぞ!
着物の下で、弦之介は冷え切った足の指先をぎゅっと丸める。喉の奥がカラカラに乾き、生唾を飲み込む音すら響きそうだった。だが、ここで動揺を見せれば、目の前の狂った大富豪の娘から一文も引き出せない。
朽木 弦之介「……おいおい。俺の刀を拝みたきゃ、まず一万両を耳を揃えて積んでからにしな」
弦之介はわざとらしく大きなあくびを噛み殺し、ザラつく無精髭を親指の腹で撫でた。そして、腰に差した朱塗りの豪奢な鞘先(さやさき)をツッと伸ばし、榊静乃(さかき しずの)の細く尖った顎をクイと持ち上げる。
硬く冷たい漆の感触が、彼女の熱を帯びた柔肌に食い込んだ。
朽木 弦之介「お前さんの綺麗な首を斬るのは、今夜押し寄せる刺客どもを片付け、城の金蔵から礼金を貰った後にしてやるよ。……それまで、せいぜい首を洗って待ってるんだな」
突き放すような傲慢な物言い。だが、鞘を握る弦之介の左手は、柄の根元が抜けないよう必死に親指で鍔(つば)を押さえつけていた。
榊 静乃「はぁっ、あぁ……♥焦らされるのもまた、絶頂の極みでございます……!」
硝子玉(ガラスだま)のような黒目をトロンと潤ませ、静乃が熱い吐息を漏らして小刻みに震える。彼女の鎖骨のあたりが赤く染まり、早鐘を打つ脈動が薄い皮膚の上からでもはっきりと見て取れた。
その刹那。
ドゴォォォンッ!
空気をビリビリと震わせる轟音と共に、屋敷の重厚な表門が木っ端微塵に粉砕された。
第二章: 抜けば即バレ!極限の鞘当て心理戦

舞い上がる砂煙を突き破り、血脂(ちあぶら)で黒光りする陣羽織を纏った巨躯の男が廊下を踏み抜いて現れた。鬼頭陣内(きとう じんない)が、目の前の襖(ふすま)を丸太のような足で蹴り破る。
鬼頭 陣内「貴様が噂の居合の達人か!抜けェ!貴様のその伝説の魔刀、俺の剛剣でへし折ってくれるわ!」
顔面を縦に走る醜い刀傷を歪ませ、陣内が刃渡り三尺の胴田貫(どうだぬき)を軽々と振りかぶる。爛々(らんらん)と血走った目、荒い鼻息、そして部屋中に充満するむせ返るような鉄錆と血の匂い。
弦之介の胃の腑がキュッと縮み上がった。
朽木 弦之介「……ケッ。てめえみたいな雑魚相手にいちいち抜いてたら、俺の刀が汚え血脂で錆びちまうぜ」
弦之介は鼻で笑い、黒塗りの柄(つか)に軽く右手を添えた。心拍数が跳ね上がるのを無理やり抑え込み、息を完全に止める。ただのハッタリを本物の殺気へと変えるため、三白眼の奥に獰猛な光を宿し、周囲の空気を凍らせる凄絶な覇気を放った。
陣内の大刀が、うなりを上げて脳天へ振り下ろされる。
風圧。死の匂い。弦之介は半歩だけ体を開き、鞘に収めたままの太刀筋で、その重たい斬撃を紙一重で受け流した。
ガツンッ!と鈍い音が響き、火花ではなく赤い漆の破片が散る。柄を握る弦之介の掌に、骨まで軋むような強烈な痺れが走った。
榊 静乃「ああっ……!私以外の血で名刀を汚さないための、不殺の誓い……!なんと気高く、残酷な愛でございますか!」
背後で静乃が両手を頬に当て、うっとりと陶酔の声を上げる。
違えよ!断じて違え!ここで抜いたら中身が竹光だって一発でバレるから、死んでも抜かねえだけだ!くそっ、手が痺れて感覚がねえ……このまま鞘当ての打撃だけで、こいつの顎を砕いて気絶させてやる!
弦之介は奥歯をギリッと噛み締め、口の中に広がる血の味をごくりと飲み込んだ。
鬼頭 陣内「ぐぬっ……!な、なぜ抜かぬ!?貴様、いつ抜いてくる気だァ!?」
完璧な受け流しと、微動だにしない弦之介の不気味な威圧感。見えない刃の幻影に怯え、陣内の額から脂汗が噴き出す。恐怖に駆られた巨漢は、呼吸を乱しながら渾身の力で兜割りを振り下ろした。
逃げる間はない。弦之介は咄嗟に鞘を十字に掲げて受け止める。
パキィィィンッ!
乾いた破砕音が、静まり返った屋敷に木霊した。陣内の剛剣の重みに耐えきれず、弦之介の朱塗りの鞘が、真ん中から真っ二つに割れて吹き飛んだのだ。
第三章: 剥がれた銀箔、砕け散る剛剣

雲間から射し込む冷たい月明かりの下。
割れた鞘から現れたのは、妖しく輝く玉鋼(たまはがね)の刃ではない。雑に貼られた銀箔がペリペリと剥がれ落ち、黄色く乾いたみすぼらしい竹の刀身が、無惨に露わになっていた。
一瞬の静寂。ハラハラと舞い落ちる銀箔の欠片が、やけに遅く見える。
鬼頭 陣内「……ブハッ、ブハハハハハ!竹光だと!?貴様、居合の達人どころか、ただのしけたペテン師かァ!」
陣内が腹を抱えて哄笑し、唾を撒き散らす。
榊 静乃「た、竹光……でございますか……?」
静乃の潤んでいた瞳から、スーッと熱が引いていく気配がした。
ちくしょう、完全にバレちまったか!……だが、ここで膝をついて命乞いなんざしたら、侍としての魂まで竹ベラになっちまう。こうなりゃヤケクソだ、地獄の底までハッタリ突き通してやるぜ!
弦之介は一歩も退かなかった。それどころか、口の端を耳元まで吊り上げ、三白眼を獰猛に光らせてニヤリと笑って見せた。
朽木 弦之介「ああ、見ての通りの竹光だ。……おい、なぜだか分かるか?」
低く、地を這うような声。弦之介が竹光をだらりと下げたまま、一歩、前へ踏み出す。
朽木 弦之介「俺が本物の真剣を握れば、空間ごと斬り裂いて、この屋敷もろともお前を塵(ちり)にしちまうからだ!死体すら残らねえぞ、それでもいいか?」
鬼頭 陣内「な、なんだと……!?ひっ……!」
ハッタリのはずの言葉に、弦之介自身の死兵の覚悟が乗る。陣内が思わず半歩後ずさり、喉をひきつらせた。
その一瞬の隙を、弦之介の身体に染み付いた本物の剣術が捉える。
朽木 弦之介「お前なんざ、この竹ベラで十分だぜェッ!」
床板が踏み抜かれ、弦之介の身体が霞(かすみ)のように消えた。
音速を超える神速の抜き胴が炸裂する。
極限まで練り上げられた身体操作と、一点に集中した剛力。ただの竹光が真空の刃を生み出し、空気を激しく爆発させた。
ガァァァァンッ!
衝撃波が走る。しなりきった竹の刀身が、陣内の鋼鉄の剛刀を、なんと根元から粉々にへし折ったのだ。さらにその余勢は止まらず、陣内の分厚い胸板へと凄まじい打撃を叩き込む。
鬼頭 陣内「ぐ、ぐわあああああっ!」
肋骨の砕ける鈍い音。陣内の巨体が紙風船のように壁まで吹き飛び、土壁にめり込んだまま白目を剥いて失神した。
第四章: 二万両の借金と、終わらない焦らし
パン、と乾いた音がして、弦之介の手の中で竹光が根元から砕け散った。おがくずのようになった竹の破片が、彼の足元にパラパラと降り注ぐ。
荒い息を吐きながら、砕け散った柄だけを握りしめる弦之介。その足元に、静乃が文字通り滑り込むようにしてひれ伏した。
榊 静乃「あぁ……!竹光すら凶器に変える、その神技……!やはりあなたは、私が全てを捧げるべき本物の剣神(けんしん)でございます!」
畳に額を擦りつけ、歓喜に咽び泣く静乃。
弦之介は肩の力を抜き、ジンジンと痛む右手をブラブラと振りながら、やれやれと息を吐いた。
朽木 弦之介「へっ、俺の実力が分かったなら、約束の一万両をさっさと貰おうか。それで明日一番に質屋へ行って、俺の本物の名刀を請け出して……」
そう言って手を差し出した弦之介の言葉が、途中でピタリと止まった。
顔を上げた静乃が、月光を背に受けて妖艶に微笑んでいたからだ。彼女は乱れた胸元から、甘い体温の移った分厚い証文の束をスッと取り出し、弦之介の目の前に突きつける。
榊 静乃「いいえ、弦之介様。あなたが質に入れた本物の名刀は、私が先ほど『二万両』で全て買い占め……残らず、暗い海の底へ沈めましたわ」
朽木 弦之介「……は?う、海の底だと……!?」
弦之介の思考が凍りつく。口が半開きになり、差し出した手が空中で虚しく彷徨った。
榊 静乃「ええ。だって、あなたが本物を抜けば、空間ごと斬り裂かれて私が即死してしまいますもの。一振りで終わってしまうなんて、そんなの絶対に嫌でございます……♥」
静乃が膝立ちのままにじり寄り、弦之介の着流しの裾をギュッと掴む。
榊 静乃「あなたが一生、本物を抜けないまま、私を焦らし続けてくださるように……私が全部、片付けておきましたわ♥」
底なしの狂気を湛えた黒い瞳。静乃が熱い吐息を吐きながら、汗ばんだ白い首筋を弦之介の鼻先へとグイグイ擦り寄せてくる。ドクン、ドクンと跳ねる彼女の頸動脈の鼓動が、弦之介の肌を直接焼き焦がすかのように伝わってきた。
榊 静乃「さあ、私が立て替えた借金二万両のカタに……今夜も、そしてこれからもずっと!その折れた竹光で、私のうなじを優しく撫で回し、焦らし殺してくださいませ……っ!」
快楽に身をよじり、うっとりと目を閉じる静乃。
弦之介の脳裏に、暗い海の底へ沈んでいく愛刀の幻と、絶対に返せない二万両という天文学的な数字が浮かび上がる。血の気が一気に引き、手の中の竹の柄がミシミシと音を立てた。
朽木 弦之介「じょ、冗談じゃねえええええっ!」
静まり返った真夜中の屋敷に、不世出の達人(ペテン師)の悲痛な絶叫が、いつまでも虚しく響き渡っていた。