第一章: 凶刃と血判状
稲妻が夜空を真横に切り裂いた。
轟音。白光が堂内の古びた板間を冷酷に照らし出す。吹き込む雨飛沫が肌を刺す中、浅葱色の矢絣に紺の袴を着た少女が、膝を激しく打ちつけた。肩を狂おしく揺らし、荒い息を吐き出す。
お涼「あなたが、あの『人斬り十兵衛』様ですね! 頼みます、父の仇、黒鉄源蔵を屠ってください!」
結い上げた濡れ髪を振り乱し、お涼は胸元から白刃を抜いた。氷のような切先が、ためらいなく自らの白首へと押しあてられる。皮膚が凹み、ぷつりと一粒、鮮血が滲み出た。
神無木十兵衛「……無駄口を叩くな」
ボロボロの漆黒の羽織をまとった大柄な男、十兵衛は顎の無精髭をじりじりと撫でた。鋭い三白眼をわずかに眇め、威圧的に立ちふさがる。だが、その裏地――雨水から決死の覚悟で死守している懐紙の膨らみへ、脂汗の滲む指先を神経質に滑り込ませていた。
頼むから刃を引け。血の匂いなど嗅いだ瞬間、拙者はここで胃袋のすべてをぶちまけて気絶する。
男の喉仏が小さく痙攣する。胃液が逆流しかけるのを、鋼の理性で呑み込んだ。
神無木十兵衛「……拙者の間合いに入るな。粉が落ちる」
低く乾いた声音を絞り出す。粉とは、この胸に秘めた至高の黒胡麻大福を包む餅取り粉に他ならない。
お涼「お断りになるなら、ここで喉を突いて果てます! 父の無念を晴らせぬなら、生きる恥など要りませぬ!」
少女の細い指が白く染まる。本気だ。切っ先が皮下へ食い込み、赤い筋が首筋を伝い落ちる。
神無木十兵衛「やめんか!」
爆ぜるような踏み込み。
十兵衛の右腕が唸りを上げた。動脈を断ち切られたら大惨事になる。血煙を浴びたくない、ただそれだけの猛烈な逃避衝動が、身体を神速の域へと押し出した。少女の手首を狙い、正確無比な手刀を振り下ろす。骨が軋む硬質な衝撃。カラン、と高い鉄の音が堂内に反響し、短刀が宙を舞って濡れた床板へ滑り落ちた。
お涼「あ……なんという神速……! 瞬き一つで私の覚悟ごと奪い去るとは……やはり、噂に違わぬ修羅……!」
お涼の瞳に陶酔の光が宿る。熱狂に震える唇から、微かな吐息が漏れた。
違う、ただ拙者に血が飛び散るのを防いだだけだ。死ぬほど怖かった。
十兵衛は胸を押さえ、奥歯を噛みしめて深く呼気を漏らす。その拍子、懐から白い粉を吹いた小さな包みがぽろりと板間へ転がり落ちた。
お涼「これは……極微粉末の劇毒!? 暗殺の仕度まで整えておられたとは……!」
お涼の視線が、床に落ちた白い粉の塊に釘付けとなる。危険極まりない代物を見る畏怖の眼差し。十兵衛の眉間がわずかに引きつった。
神無木十兵衛「……源蔵の屋敷へ参る。ついて来い」
これ以上ここで暴れられては、大切な大福が原型を留めなくなる。一刻も早く安全な茶屋へ逃げ込みたい一心で、十兵衛は背を向けた。
第二章: 修羅の潜入とすれ違う刃

雨は上がり、刃のような月光が豪商・黒鉄源蔵の庭園を青く染め上げていた。手入れの行き届いた枯山水の白砂を踏みしめ、十兵衛とお涼が潜入する。池の鯉が波紋を広げた瞬間、竹林の暗がりから殺気が膨れ上がった。
ザッ、と砂利を蹴る足音。
筋骨隆々たる十数名の用心棒が、抜き身の日本刀をぎらつかせながら包囲網を敷く。
神無木十兵衛「……止まれ」
お涼「囲まれた……! 十兵衛様、私に構わず皆殺しにしてください!」
お涼の細い指が拳を握り、憎悪に満ちた声を張り上げる。男たちの凶刃が月光を浴びてぎらりと光った。
皆殺しだと? 誰が抜刀などするものか。本物の生血を見ただけで、拙者は三日三晩悪夢に魘されるのだぞ。
十兵衛の心臓が早鐘を打つ。背筋を伝う冷や汗が羽織を濡らした。男は懐の包み紙を指先で素早く裂くと、手のひらに溜まった極上の餅取り粉を、夜風の吹き抜ける軌道へ豪快に振り撒いた。
舞い散る白煙。
純白の粉末が突風に煽られ、用心棒たちの眼球を容赦なく襲う。
黒鉄源蔵「ぐわっ!」「目が、前が見えぬ!」「なんだこの甘ったるい匂いの煙は!?」
庭園が阿鼻叫喚の坩堝と化した。男たちが刀を取り落とし、目を擦りながら悶絶する。
神無木十兵衛「……消えろ」
地を這うような低音とともに、十兵衛の影が奔った。刀は抜かない。黒塗りの鞘そのものを水平に薙ぎ払う。
ドゴッ、と鈍い打撃音が連続して響いた。
鳩尾、顎先、こめかみ。的確無比な峰打ちが、骨を軋ませることなく男たちの意識を刈り取る。白煙の中、屈強な巨漢たちが次々と糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
お涼「毒粉で目を奪い、無音の打撃で骨を砕く……! 一滴の血も流さずに十人を屠るなんて、なんという冷酷非情な剣客……!」
お涼は自らの両肩を抱き、修羅の強さに戦慄してその場にへたり込んだ。
単なる上質な餅粉と峰打ちだ。頼むから変な毒煙扱いをするな。
十兵衛は額の脂汗を袖で拭い、浅い息を整える。その刹那、回廊の奥の金箔襖が、重々しい音を立てて左右へ滑り開いた。
黒鉄源蔵「夜分に騒がしいネズミどもだ。我が屋敷の敷居を跨いだ命知らずは、どこのどいつだ?」
豪奢な金糸の羽織を肩に掛け、口ひげを蓄えた巨躯の男――黒鉄源蔵が、冷厳な面持ちで立ちふさがる。その右腕には、黒光りする南蛮渡りの短筒が握り締められていた。銃口の暗黒が、真っ直ぐに十兵衛の眉間を捉える。
第三章: 大福の真実と暴かれた因縁

大広間に吹き込む夜風が、吊るされた行灯の灯火を激しく揺らす。お涼は憎悪を露わにして短刀を構え直し、爛々と輝く瞳で源蔵を射抜いた。
お涼「黒鉄源蔵! 父を罠に嵌めて自刃へ追い込んだ大悪党め! 今日こそ首を貰い受ける!」
喉が裂けんばかりの絶叫。しかし、源蔵は眉一つ動かさず、太い眉を苛立たしげに歪めた。
黒鉄源蔵「戯言を抜かすな、浅葱の小娘! お前の父親は死んでなどおらんわ!」
お涼「な……何を嘘八百を!」
黒鉄源蔵「莫大な借金を抱えて破滅寸前だったあの馬鹿を救うため、儂が全財産を投げ打って借財を肩代わりしたのだ! お前を養育する金まで手配し、奴を上方へ逃がしてやった恩を忘れおって!」
源蔵の怒声が広間に木霊する。その瞳には、裏切られた無念と痛惜の色が濃く滲んでいた。だが、盲信に憑りつかれた少女の耳には届かない。
お涼「騙されぬぞ! 死ねぇぇっ!」
弾かれた弓弦のように、お涼が白刃を突き出して疾走する。源蔵の指が短筒の引き金に掛かり、撃鉄が不穏な金属音を立てて持ち上がった。
黒鉄源蔵「止まれ、撃ちたくはない!」
火薬の匂いが鼻孔を掠める。
まずい、人が死ぬ! 至近距離で脳漿と生血が飛び散るのだけは絶対に勘弁だ!
十兵衛の足裏が、畳の編み目を粉砕した。
神速の踏み込み。
残像を残して滑り込んだ十兵衛は、抜刀の軌跡を描きながら、鞘の鍔を源蔵の握る銃身の真下へ叩き込んだ。跳ね上がる黒鉄の筒。
轟音。
暴発した鉛玉が天井板を吹き飛ばし、白煙と木片が雪のように降り注ぐ。その強烈な衝撃の反動で、十兵衛の懐から、丸々と太った黒胡麻大福がぽろりと宙へ跳ね上がった。
放物線を描く餅。叫びを上げようと大きく開いていた源蔵の口内へ、神の悪戯のごとく真正面から飛び込む。
ぎゅう、と喉奥まで黒胡麻の弾力がねじ込まれた。
黒鉄源蔵「もがッ……!? ん、んぐ……!?」
静寂が訪れる。源蔵は目を白黒させ、窒息寸前の形相で口内の巨大な異物を咀嚼した。その瞬間、男の全身が落雷を受けたように凝固した。
第四章: 甘味と情けの空っ風
夜明けの薄紅色の光が、破れた障子の隙間から広間を静かに染め上げていく。黒鉄源蔵は口の周りを真っ黒な胡麻で汚したまま、大粒の涙を畳の上に滴らせていた。
黒鉄源蔵「こ、この歯ごたえ……この上品な漉し餡の甘みと、炒り胡麻の香ばしさは……上方でお前の父親が新しく開いた甘味処の看板菓子ではないか……!」
嗚咽が男の喉を震わせる。
お涼「父上の……大福……?」
源蔵はおもむろに懐へ手を差し入れ、一通の折り畳まれた書状を取り出した。震える手でお涼の足元へと滑らせる。墨痕鮮やかに記されていたのは、紛れもなく、かつて幼き日の自分に文字を教えてくれた実父の温かな筆跡だった。そこには、源蔵への尽きせぬ感謝と、上方で菓子職人として再起した日々の歓びが綴られていた。
お涼「あぁ……父上……! 私、私はなんて浅はかな真似を……!」
短刀が板間に落ちる。お涼はその場に崩れ落ち、額を擦りつけて慟哭した。源蔵は静かに立ち上がり、煤だらけの着物を正すと、十兵衛へ向かって深々と腰を折った。
黒鉄源蔵「十兵衛殿。貴殿がこの大福を口にねじ込んでくださらねば、儂は無二の親友の愛娘を射殺すところであった。誠に見事な仲裁、天下無双の義賊とお見受けいたした」
お涼「人を斬るどころか、甘味一つで二つの命を救い、因縁を晴らすとは……これぞ真の剣聖の御業……!」
お涼の潤んだ瞳が、崇拝の光を帯びて十兵衛を見上げる。
神無木十兵衛「……拙者は、ただ城下の茶屋で買い求めた黒胡麻大福を、無傷で味わいたかっただけだ」
低く呟く十兵衛の額には、隠しきれない脂汗が光っていた。
黒鉄源蔵「なんと欲のない、澄み切った武士道か! さあ、持っていかれよ! 上方から届いたばかりの極上大福、五十個すべて差し上げよう!」
ずっしりと重い漆塗りの大重箱が、否応なしに十兵衛の両腕へ押しつけられる。十兵衛は引きつる口角を羽織の襟で隠し、無言のまま踵を返した。
……長居は無用だ。早く茶屋へ駆け込み、熱い深蒸し茶を淹れねば。
朝露に濡れる江戸の大路へ踏み出すと、冷たい朝風が無精髭を撫でる。十兵衛は重箱の蓋を指先でわずかに浮かせ、艶やかな餅を一つ掴み出すと、大きな口で頬張った。
神無木十兵衛「……うむ。やはり、漉し餡に限る」
柔らかな甘みが疲弊した五臓六腑へ染み渡る。漆黒の羽織を翻し、無口な修羅――その実、誰よりも血を恐れる孤高の甘党は、澄み渡る青空の下、誰にも追いつけぬ軽やかな足取りで姿を消した。