第1章: 汚泥に咲くデジタル・ローズ
便器の水面が、青白い光を揺らめかせながら反射している。
個室の空気は淀み、芳香剤と下水の混じった匂いが鼻腔にへばりつく。雨宮ミオの親指は止まらない。ひび割れたスマートフォンの画面上で、二本の指が狂気的な速度で舞っていた。
コンマ一秒のカット割り。色彩の彩度を上げ、肌のノイズを消し去る。瞳に星を入れ、輪郭を数ミリ削る。
現実の物理法則を無視した「奇跡」が、ミオの指先から生成されていく。
画面の中の西園寺レナは、女神のように微笑んでいた。
「投稿」
タップした瞬間、ミオの肺から熱い呼気が漏れた。
プログレスバーが右端に到達する。完了。
その刹那。
轟音と共に、個室のドアが内側に弾け飛んだ。
鍵がひしゃげる金属音が鼓膜を裂く。ミオは身体を強張らせ、狭い個室の隅に縮こまった。
逆光の中に立つシルエット。ヒールの先端が、ミオの膝元に残っていた泥を容赦なく踏みつける。
「遅いのよ、ゴミ」
甘ったるい香水の匂いが、汚水の臭気を塗り替える。
西園寺レナは、スマホを握りしめたミオの手首を掴み上げると、まるで汚い布切れでも見るような目で一瞥した。
「あ……レナさん、今、ちょう、ど……」
「言い訳なんて聞いてない」
レナの手が離れる。
ミオの手から滑り落ちたスマートフォンは、スローモーションのように回転しながら落下し――ポチャン、と鈍い音を立てて便器の中に沈んだ。
波紋が広がり、画面の光が水底で濁る。
「あッ!」
ミオが手を伸ばそうとするより早く、レナの手元にある最新機種が震え始めた。
通知音が止まらない。重なり合う電子音が、まるで祝福のファンファーレのように狭い個室に反響する。
『レナちゃん天才!』
『この編集神すぎる、鳥肌たった』
『世界一かわいい!』
レナは画面をスクロールし、満足げに口角を歪めた。その瞳には、足元で震えるミオの姿など映っていない。ただ、数字という名の麻薬が脳髄を駆け巡っているだけだ。
水底で明滅するミオのスマホには、防水機能などない。
明かりが不規則に点滅し、やがてふつりと消えた。
ミオは濡れた床に膝をつき、黒い水面を見つめる。
称賛の声はすべて、頭上の「怪物」へと吸い上げられていく。自分の指先が生み出した魔法が、自分自身を窒息させていた。
第2章: 仮面の裏側の肉塊
スタジオの照明は、太陽よりも残酷だ。
毛穴の一つ、産毛の一本までを白日の下に晒し出す。
その強烈な光の中心で、レナは歌い、踊っていた。
生配信の視聴者数は三百万人を突破。コメント欄は滝のように流れ、投げ銭のエフェクトが画面を埋め尽くす。
その時、スタジオの奥で「ブツン」という異音が響いた。
メインモニターの映像が砂嵐に変わり、音響がハウリングを起こす。機材トラブル。
スタッフたちが顔面蒼白で凍りつく中、舞台袖のミオだけが動いた。
予備のタブレット端末をジャックし、配信サーバーへ直接割り込む。
指先が走る。思考よりも速く。
ノイズの砂嵐をあえて「グリッチエフェクト」として利用し、不快なハウリング音をリズムトラックへと変換する。
トラブルを演出へ。事故をアートへ。
画面の向こうの三百万人が息を呑んだのがわかった。
『演出かっこよすぎ!』
『これがレナの世界観か……!』
レナは一瞬戸惑ったものの、すぐに状況を理解し、不協和音に合わせて妖艶なポーズを決めた。
アクシデントは伝説の神回へと昇華された。
「――はい、カット! お疲れ様でしたー!」
ディレクターの声と共に、配信の赤ランプが消える。
スタジオが安堵の空気に包まれた瞬間、レナが大股で舞台袖へと歩いてきた。
ミオはタオルを差し出そうと一歩踏み出す。
乾いた音が響いた。
ミオの視界が白く弾ける。頬に焼きつくような熱。
よろめいたミオの足元に、差し出したタオルが落ちた。
「誰が目立てって言った?」
レナの瞳孔は開いたままだ。興奮と、それを上回る激怒。
完璧にセットされた髪を振り乱し、彼女はミオの胸倉を掴み上げた。
「あんたは影。私の影なの。影が本体よりいい動きしてんじゃないわよ、気持ち悪い」
吐き捨てられた唾が、ミオの頬を濡らす。
スタッフたちは見て見ぬふりをして機材を片付けている。誰も助けに来ない。
ミオの母親の入院費。その命綱を握っているのは、目の前のこの女だからだ。
「すい、ません……」
「次やったら、あのババアの点滴、私が引き抜きに行ってやるから」
レナはミオを突き飛ばすと、踵を返した。
鏡の前へ戻り、自らの顔を確認する。そこには慈愛に満ちたアイドルの表情が張り付いている。
ミオは床に這いつくばったまま、口の中に広がる鉄の味を噛み締めた。
憧れは死んだ。
ここにあるのは、人間の皮を被った、ただの美しい捕食者だ。
第3章: ガラスの城、崩落の雨
東京の雨は、煤と排気ガスの味がする。
ミオは傘もささずに、交差点の真ん中で立ち尽くしていた。
大型ビジョン。
そこには、涙を流すレナの顔が大写しになっていた。
『……信じてたんです。家族みたいに思ってたスタッフに、裏切られるなんて……』
演技がうまい。ミオはぼんやりと思う。
その涙のひとしずくが落ちるタイミングさえ、計算し尽くされている。
ネット上には、精巧に捏造された動画が溢れていた。ミオがレナの財布から現金を抜き取る映像。企業秘密のデータを売り捌く音声データ。
レナの取り巻きたちが作った、悪意あるフィクション。
ポケットの中のスマホが、また震える。
着信拒否にしなかった最後の一件。母の入院先からだ。
「……はい」
『雨宮さんですか? あの、病院の方に嫌がらせの電話が殺到していまして……他の患者様のご迷惑になりますので、至急……』
看護師の声は怯えていた。
背後で怒号のようなものが聞こえる。
ミオは通話を切った。指先が氷のように冷たい。
住所は特定された。実家の壁には赤いスプレーで「死ね」と書かれた。
そして今、母の居場所さえも奪われようとしている。
「私は……ただ……」
辞めたいと言っただけなのに。
奴隷契約から逃れようとした、ただそれだけの代償がこれか。
ビジョンの中のレナが、濡れた瞳で微笑む。
『でも、私は負けません。みんながいてくれるから』
歓声。無数の「いいね」。
世界中がレナを擁護し、ミオという名の「悪」を石打ちにしている。
真実など、何の意味もない。
声の大きい者が正義で、美しい者が神なのだ。
冷たい雨がミオの髪を濡らし、服を重くしていく。体温が奪われていくのを感じながら、ミオは見上げた。
巨大な虚像。
1000万人の信者を持つ怪物。
ミオの目から光が消える。
だが、その奥底で、どす黒く、しかし鋭利な刃物のような光が灯った。
彼女はスマホを取り出す。画面は水滴で濡れているが、操作には支障ない。
正攻法では勝てない。
ならば、私が最も得意なやり方で殺す。
ミオは踵を返した。路地裏の闇へと消えていく彼女の背中を、レナの虚像だけが見下ろしていた。
第4章: 毒入りのフィルム
ネットカフェの個室は、かつてトイレで編集作業をしていた時と似た閉塞感があった。
今のミオに焦燥はない。あるのは、外科医がメスを入れる前の静謐な集中だけだ。
画面には無機質なコードの羅列。
かつてミオがレナのアカウント管理を任されていた時、密かに仕込んでおいたバックドア。
セキュリティホールという名の、小さな蟻の穴。
「パスワード変更を確認……認証突破」
キータッチの音が乾いた室内に響く。
レナのSNS、配信プラットフォーム、そして明日のライブ会場の制御システム。
全てが一本の線で繋がっていく。
ミオは動画編集ソフトを立ち上げた。
タイムラインに並べるのは、きらびやかな素材ではない。
隠し撮りしていた、レナの暴言。スタッフを蹴り上げる足。ファンを「養分」と呼び、プレゼントをゴミ箱へ放り投げる姿。
それらを、ただ垂れ流すのではない。
ミオの才能は、そんな退屈な復讐を許さない。
ビートに合わせる。
レナの歌声、そのブレスの位置に、罵倒の声をシンクロさせる。
キックドラムの音に合わせて、殴打の映像をカッティングする。
悪意のミュージックビデオ。
最も醜い素材を使って、最も洗練された映像作品を作り上げる。
「レンダリング開始」
プログレスバーが伸びていく。
その光が、ミオの無表情な顔を青く照らす。
かつては「レナを輝かせるため」に使った技術。
今は、その光を反転させ、影を焼き付けるために使う。
明日は、レナのフォロワー1000万人達成記念ライブ。
世界が注目する檜舞台。
そこで、最高の編集版(ディレクターズ・カット)を上映するのだ。
エンターキーを叩く音が、引き金を引く音のように響いた。
第5章: 神の死、あるいは解像度の彼方
ドーム会場は、五万人の熱気で飽和していた。
色とりどりのサイリウムが海のように揺れ、地鳴りのようなコールが空間を振動させる。
ステージ中央。
スポットライトの束を浴びて、西園寺レナが新曲のサビを歌い上げる。
完璧な音程。完璧な表情。
巨大スクリーンには、最新の美顔フィルターを通した「女神」の顔が映し出されていた。
クライマックス。
曲のBPMが上がり、照明が激しく明滅する。
レナが天を仰ぎ、高音のフェイクを入れた瞬間。
ミオの指が、スマホの「実行」ボタンを押した。
『あんたたちなんて、ただの養分なのよ!』
会場のスピーカーから、レナの歌声とは異なる、金切り声が響き渡った。
演奏は止まらない。だが、巨大スクリーンの映像がジャックされる。
楽屋裏でスタッフを罵倒するレナ。
その口の動きが、曲のリズムと完全にシンクロしている。
ファンの手紙を破り捨てる音が、スネアドラムの音と重なる。
「え……?」
ステージ上のレナが凍りついた。
バックトラックは止まらない。ミオが組んだプログラムが、音響システムを支配している。
『ブサイクなファンと握手とか、マジで吐きそう』
レナの声がサンプリングされ、リズミカルにループする。
観客たちがざわめき始める。サイリウムの海が波を止める。
そして、トドメの一撃。
スクリーン上の「美顔フィルター」が、強制解除された。
バチッ、というノイズと共に、虚構の皮が剥がれ落ちる。
そこに映し出されたのは、恐怖で顔を引きつらせ、脂汗でメイクが崩れた、年相応に老けた一人の女の顔だった。
毛穴の開き、ほうれい線の溝、そして何より、その瞳に宿る醜悪な怯え。
『うそ……消して! 消しなさいよ!!』
レナが叫ぶ。マイクを通したその悲鳴すらも、エフェクトがかかり、滑稽な電子音へと変換される。
観客席から、失笑が漏れた。
それはすぐに伝播し、嘲笑の渦となり、やがて怒号へと変わった。
「金返せ!」「ペテン師!」
サイリウムがステージへと投げ込まれる。
光の雨の中、レナは膝から崩れ落ちた。1000万人の「いいね」が、数千万の「殺意」へと反転する瞬間。
ドームの外。
路地裏の非常階段に座るミオは、スマホの画面でその光景を見ていた。
コメント欄が加速する。罵詈雑言の嵐。
かつてレナを祭り上げていたアルゴリズムが、今度は彼女を食い尽くそうとしている。
ミオは静かにアプリを閉じた。
指先には、まだ微かな熱が残っている。
「設定」から「アカウント削除」を選択。
指は震えなかった。
「さようなら、私の神様」
確認ボタンをタップする。
画面が暗転し、ミオの顔が黒いガラスに映り込んだ。
そこには、憑き物が落ちたように穏やかな、一人の編集者の顔があった。
ミオはスマホをポケットにしまうと、サイレンの音が近づく街の雑踏へと歩き出した。
雨は、いつの間にか止んでいた。