第1章: 断頭台の求婚
首筋を撫でる空気は、氷柱のごとき冷たさ。
眼下には、民衆の海。彼らは泡を飛ばし、拳を突き上げ、かつて「聖女」と崇めた少女へ呪詛を吐き出している。
断頭台の上、跪くエララ。
嵐に晒された古木のような、色素の抜け落ちた銀髪。かつて豪奢だった純白のドレスは土と黴にまみれ、引き裂かれた裾からは拘束具の食い込んだ足首が覗く。震える痩身。光を吸い込むような虚ろな瞳は、焦点を結ばず宙を彷徨うのみ。
「魔女エララよ。その穢れた血をもって、世界の礎となれ」
輝く白銀の鎧を纏った男――勇者カイルの宣告。陽光を弾く金髪、一点の曇りもない碧眼。彼こそが正義だと、世界中が信じて疑わない輝き。
エララの喉の奥で鳴る、乾いた音。
これが、愛?
国中の呪いを一身に引き受け、肌が焼け爛れる痛みに耐え、それでも微笑み続けた果てが、この冷たい刃なのか。
カイルの手が振り上げられる。重厚な刃が、死神の鎌のごとき音を立てた。
最高潮に達する民衆の熱狂。
ふ、とエララの唇が歪む。
恐怖ではない。諦観ですらない。
乾ききった井戸の底から湧き上がるような、狂った哄笑。
「あは、あははははッ! 素晴らしいわ、カイル。これが、あなたの言う『大義』なのね……!」
刃の落下。
刹那――世界の色が反転した。
空が、濡れた紙のように音もなく裂ける。
青空から溢れ出したのは、光ではない。粘つくような、圧倒的な闇。
民衆の悲鳴すら置き去りにする速度で、何かが断頭台へと墜ちた。広場を揺らす衝撃音。舞い上がった砂煙の中、獰猛に燃え上がる二つの紅蓮。
「――やっと見つけた」
地獄の底から響くような低音。
処刑人は悲鳴を上げる間もなく「弾け飛んだ」。降り注ぐ赤い雨の中、その影はエララの体を宝物のように抱きすくめる。
闇を纏った長身の男。背中で翼のように蠢く不定形の影。鋭い爪を持つ手が、エララの頬にこびりついた泥を愛おしげに拭う。
世界中が恐怖に凍りつく中、男はただエララだけを瞳に映していた。
「俺の心臓。俺の命。……迎えに来たぞ」
静寂に響き渡る、刃の砕け散る音。
第2章: 歪な蜜月
時間の概念すら溶解した、地下深くの闇。
光の届かぬ迷宮の最奥。湿った岩肌に張り付く発光苔の淡い緑色さえ、この空間を支配する男の闇には勝てない。
「口を開けて。エララ」
差し出されたスプーン。
エララは硬い石造りの寝台の上、絹のクッションに埋もれるようにして座らされていた。
拒絶しようと顔を背けるが、ザインの指が優しく、しかし万力のような強さで顎を固定する。
「嫌……離して……」
「駄目だ。お前は何もするな。歩くことも、食べることも、呼吸さえも、俺が許した時だけでいい」
流し込まれたスープの、皮肉なほど甘美な味。
ザインは満足げに喉を鳴らすと、エララの痩せた手首を掴む。そこに残る古い傷跡――聖女時代に受けた虐待の痕――へ、ざらついた舌を這わせた。
「ひっ……!」
背筋を走る、嫌悪と、それとは違う熱い戦慄。
だが止まらないザイン。エララの肌に刻まれた無数の傷、痣。その一つ一つを、まるで聖遺物を崇める信徒のように舐めとり、そして――泣いていた。
「痛かっただろう。苦しかっただろう。……許さない。お前にこんな傷をつけた世界を、俺は絶対に許さない」
紅蓮の瞳から滴り落ちる黒い涙。
古傷に落ちたその雫は、熱した鉄のように熱い。
彼は怪物だ。エララを監禁し、自由を奪う最悪の看守。
それなのに、どうして。
誰も見ようとしなかった「エララの痛み」を、この怪物だけが、我がことのように嘆くのか。
エララの胸の奥、凍りついていた感情の湖に入る亀裂。
聖女として崇められた時、人々が見ていたのは「奇跡」だけだった。
だが、この男は。
この狂った怪物は、ボロボロのエララという「個」そのものを、世界を敵に回してでも欲している。
「……私のこと、汚いと思わないの?」
震える問い。ザインは心外だと言わんばかりに目を見開き、そして破顔した。
「汚い? 冗談だろう。……お前が触れた泥さえ、俺にとっては黄金より尊い」
地上では、聖女の不在により結界が崩壊し、魔獣による殺戮が始まっている頃。
だが、この冷たい地下室だけが、世界で最も安全で、狂おしいほど温かい揺りかごだった。
第3章: 彼を作ったのは私
静寂を破ったのは、正義の輝き。
轟音と共に吹き飛ぶ迷宮の扉。闇を切り裂く聖剣の光。
「そこまでだ、怪物! エララを返してもらう!」
踏み込むカイル。背後には武装した近衛騎士団。
眩しすぎる光に、思わず目を細め、ザインの背中にしがみつくエララ。その反応を見たカイルの眉が、不快げに跳ね上がる。
「エララ、洗脳されているのか? 安心しろ、今すぐその汚らわしい魔物から解放してやる」
「……カイル」
「世界は混乱している。君の力が必要なんだ。さあ、戻って人々のために祈ってくれ。それが君の幸せだろう?」
どこまでも正しいカイルの言葉。
かつてのエララなら、涙を流して頷いていただろう。
だが今、彼女の耳に届くその声は、ひどく薄っぺらな雑音。
喉の奥で唸り声を上げ、一歩前へ出ようとするザイン。
しかし、その足がふらついた。
黒い霧となって揺らぐ体。
「ザイン……?」
「……ふっ、バレたか」
自嘲気味な笑み。エララにだけ聞こえる声で、彼は囁いた。
「俺は、お前なんだ」
エララを貫く衝撃。
ザインは語る。彼は、エララが聖女として引き受け、身体の中に溜め込み続けた「人々の悪意と呪い」が飽和し、実体を持った存在なのだと。
エララの絶望が彼を生み、エララの孤独が彼を育てた。
「俺を殺せば、呪いは消え、お前は聖女に戻れる。……だが、俺を愛せば、俺は増長し、世界を侵食する毒になる」
剣を構え、突進してくるカイル。
抵抗しないザイン。
彼はエララへ、この世で最も穏やかな微笑みを向け、両手を広げた。
「俺を殺せ。そして、光へ帰れ、エララ。お前の幸せは、そこにある」
差し出された首。
エララを守るために、エララの一部である自分自身を殺すことを選んで。
第4章: 聖女の死、悪女の誕生
「死ねェェェェ!! 怪物!!」
カイルの咆哮。ザインの首へと迫る白銀の刃。
閉じられた目。受け入れられた死。
ドクン。
エララの心臓が打つ早鐘。
赤く染まる視界。真っ白に弾け飛ぶ思考。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「――ふざけるなッ!!!」
金属音ですらない、響く鈍音。
止まるカイルの聖剣。
その刃を掴んでいたのは、エララの素手だった。
「エ、ララ……?」
呆然と呟くカイル。
エララの白い指から、止めどなく滴り落ちる鮮血。裂けた手のひら、覗く骨。痛みなど、どこにもない。
エララは、血走った目でカイルを、かつての婚約者を睨みつけた。
ほとばしる絶叫。
「私の幸せ? よくもそんな口が利けるわね! 私が血を吐く思いで祈っていた時、お前はどこにいた!?」
「な、何を……君は聖女だろ!?」
「知ったことか! 世界が平和になるなら、私が泣いてもいいと思っていた。……でも!」
剣を握りしめたまま、ザインの方を振り返る。
崩れかける影の体。だがその瞳だけは、心配そうにエララを見つめていた。
「彼を殺すなら、お前たち全員、地獄へ道連れにしてやる!!」
自らの手首を噛み切るエララ。
噴き出す血。
彼女はその傷口を、ザインの口へと押し付けた。
「飲みなさい、ザイン! 私の血を、私の命を! もう聖女なんていらない。私は、あなただけの共犯者になる!」
禁忌の契約。
聖女の聖なる血が、呪いの塊である怪物に注がれる。
それは、世界を滅ぼす劇薬の調合。
かつてないほど鮮烈な紅蓮に輝くザインの瞳。
爆発的に膨れ上がる影が、カイルと騎士たちを弾き飛ばす。
「ああ……甘い。最高だ、エララ」
ザインは血まみれのエララを抱き寄せ、その唇についた自分の血を舐め取った。
聖女は死んだ。
今ここにいるのは、世界を敵に回してでも己の怪物を愛することを選んだ、一人の狂った女だけ。
第5章: 灰の上のワルツ
燃え盛る王都。
空を覆うのは黒煙と、舞い散る火の粉。かつてエララを処刑しようとした広場は、瓦礫と死体で埋め尽くされている。
逃げ惑う民衆の悲鳴。それは、まるで音楽。
だが、崩れ落ちかけた王城のテラスに立つ二人の耳には、それすらも遠い。
覚醒したザインの力は圧倒的だった。
勇者の聖剣は飴細工のように砕かれ、影の波に飲まれて消滅した王国軍。
カイルは、自身の正義が通じない理不尽を呪いながら、瓦礫の下で息絶えていることだろう。
「美しい夜明けだ」
炎上する街を見下ろすザイン。
その腕の中には、エララ。
血と煤で汚れたドレスは、どんな高価な夜会服よりも、今の彼女には似合っていた。
「ええ。……とても綺麗」
かつて守ろうとした国が灰になっていく。
罪悪感? そんなものは、断頭台の上に置いてきた。
エララの胸を満たすのは、空っぽだった器が、ねっとりとした愛で満たされていく充足感のみ。
「踊ろうか、俺の女神」
紳士のように差し出された手。
エララはその手を取り、そっと身体を預けた。
音楽はない。崩れる建物の轟音と、炎の爆ぜる音が刻むリズム。
ワン、ツー、スリー。
灰の降り積もるテラスで、軽やかにステップを踏む二人。
影と人が混じり合い、一つの生き物のように。
「愛しているわ、私の災厄」
ザインの首に腕を回し、熱に浮かされた瞳で見上げるエララ。
「世界など燃え尽きればいい。お前が笑うなら、何度でも灰にしてやる」
塞がれる唇。
そのキスは血の味がした。
背後で崩壊する王城の大塔。夜空を焦がす巨大な火柱。
世界は闇に沈んだ。
だが、二人にとっては、これ以上ないほど眩しく、永遠に続く幸福な夜明け。
誰も邪魔する者のいない、灰色の楽園で、二人のワルツはいつまでも続いていく。