第1章: 終電へのダイブと覚醒
地下鉄のホーム。吹き込む冷たい風。湿ったコンクリートと埃の混じった臭いが、容赦なく鼻腔を突く。午前0時を告げる電子ベルは、まるで水底で聞く音のように遠く、歪んで鼓膜を叩いていた。
九条新。彼は点字ブロックの凹凸を、革靴の薄いソール越しに感じていた。ふらりと傾ぐ重心。量販店のポリエステル混紡スーツは汗と湿気で重く、肌への張り付きが不快だ。視界の端で鬱陶しく揺れる、伸び放題の黒髪。ショーウィンドウに映る、自分の姿――無精髭が浮いた青白い頬、生気を失った泥のような瞳。
(まるで、廃棄寸前の産業廃棄物だな)
カフェインの過剰摂取で小刻みに震える指先を、ポケットに押し込む。
「電車が、参ります」
無機質なアナウンス。闇の奥から膨張する二つのヘッドライト。ブレーキの金切り音と、圧倒的な風圧。新の膝がカクンと折れた。
思考よりも早い、重力への服従。迫りくる鋼鉄の塊、線路の砕石。それらがスローモーションで網膜へ焼き付いていく。
(ああ、これで明日の会議に出なくていい)
漏れ出したのは、安堵にも似た吐息。その刹那。
視界がノイズ混じりの青色に染め上げられる。
『SYSTEM REBOOT... COMPLETE.』
『Welcome Back, Hero.』
脳髄を直接鷲掴みにされる衝撃。網膜に羅列される文字列。かつて異世界で魔王の喉元に剣を突き立てた記憶、世界そのものを記述する感覚。それらが奔流となり、神経回路を焼き切る勢いで逆流した。
衝突まで、あと0.1秒。
新の瞳孔が開く。濁った泥の色は消し飛び、その奥で炸裂する、幾何学的な青い燐光。
「……編集(エディット)」
乾いた唇から漏れた言葉。それは地下鉄の轟音にかき消されることはない。
世界が、凍りつく。
火花を散らす車輪。宙に舞う埃。悲鳴を上げようと口を開いたサラリーマンの唾液。すべてが静止画として固定された世界。
新は空中に浮かぶ半透明のキーボードを叩いた。
【対象:九条新】
【パラメータ:疲労度 9999 → 0】
【パラメータ:精神汚染度 85% → 0】
【ステータス異常:睡眠不足、栄養失調、過労 → 全消去(Clear)】
弾かれるエンターキー。
重りをつけていたような四肢は、羽根のように軽い。鉛のようだった瞼は、冴え冴えと開かれる。血管を巡るドロドロの血液が、清冽な清水へと置換されたかのような全能感。
「……魔王を倒す気力はないが」
時間を再始動させる直前、自らの身体座標を『満員電車の空席』へと書き換える。
世界が動き出した。轟音、風圧。しかし、新の身体はホームにはない。
彼は涼しい顔で、奇跡的に空いていた優先席に深く腰掛けていた。
ポケットから取り出したスマホ。画面には、未読の業務連絡が50件。新は口角をわずかに上げ、迷いなく押した。
「全件削除」のボタンを。
第2章: 圧倒的な事務処理無双
翌朝のオフィス。そこは独特の腐臭に満ちた密室だった。焦げたコーヒー、稼働し続けるサーバーの熱気、そして死んだ眼をした社員たちが放つ絶望のフェロモン。
「おい九条! 昨日の議事録はどうなってる! てめぇは息をするのと同じ速度で仕事ができねぇのか!」
毒島健蔵の怒声がフロアを震わせる。脂ぎった額、テラテラと光る鷲鼻。口角に泡を溜めたその顔面が、新の目前数センチまで迫っていた。飛ぶ唾。胃液の混じった不快な口臭。
新は瞬き一つせず、空中に指を走らせる。
毒島の周囲にだけ展開される、不可視の音響フィルター。
【Skill: 防音結界 (Soundproof Barrier) → Mode: Classic Orchestra】
「(――♪〜)」
毒島の口はパクパクと動いている。だが、新の耳に届くのは優雅なモーツァルトの旋律のみ。新はリズミカルに頷き、「承知しました、直ちに対応します」と完璧な営業スマイルを返した。気味悪そうに顔をしかめ、舌打ちをして去っていく毒島。
新はデスクを見下ろす。積み上げられた、高さ三十センチはある書類の塔。
指先を、鳴らす。
【Inventory: Store】
物理法則の無視。紙の束は虚空へと吸い込まれ、消滅した。
次いでPCの画面へ。プログラミング言語ではない。世界の構成コードを直接書き込む。
【Target: Project_DeathMarch → State: Completed】
エンターキー一発。
数週間かかると言われていたデバッグ作業。それが瞬きする間に「完了」のステータスへと書き換わる。一瞬で100%を叩き出すプログレスバー、輝く緑色の「SUCCESS」の文字。
「……あ、あの、九条先輩」
背後から、蚊の鳴くような声。
振り返れば、牧野ヒナが立っている。ボサボサの黒髪の隙間から覗く丸眼鏡。その奥の瞳は涙で潤み、真っ赤に充血していた。手には、コーヒーの染みがついた重要な契約書。
「や、やっちゃいました……。これ、部長の大事な……どうしよう、私、もう……」
白く変色するほど震える指先。過呼吸気味に上下する肩。土気色の顔面は、今にも床に崩れ落ちそうだ。
「貸して」
新は彼女の手から書類を抜き取る。
【Time Leep: Object Only (-10 min)】
青い光の粒子が紙面を覆った。中央へ収束し、蒸発するように消え去るコーヒーの茶色い染み。伸びるシワ、鮮明さを取り戻すインクの滲み。
一秒後。そこには新品同様の契約書があった。
「え……?」
眼鏡をずり上げ、信じられないものを見る目で新を見上げるヒナ。
「ミスなんて、最初からなかった。そうだろ?」
淡々と告げ、ヒナの頭にポンと手を置く。その手つきは無機質。だが、ヒナの頬に微かな朱色が戻るのを、彼の『解析眼』は見逃さなかった。
第3章: 編集できない『心』
システムは万能ではない。あるいは、人の悪意というバグが、処理能力を超えていたのか。
「牧野ォォッ!! てめぇ、クライアントにどんな口きいた!!」
数日後。毒島の咆哮が、防音結界すら貫通して響き渡った。
フロアの中央、パイプ椅子に座らされたヒナ。彼女は毒島の革靴の先を見つめ、縮こまっている。膝に叩きつけられた、濡れ衣のようなクレーム報告書。
「違います、私はただ、仕様の確認を……」
「口答えすんじゃねぇ! お前のその陰気な声が先方を不快にさせたんだよ! 土下座だ! 今すぐここで額を擦り付けて謝意を示せ!」
蹴り飛ばされる肩。パイプ椅子ごと倒れるヒナ。床に打ち付けられた肘から、鈍い音が響く。
立ち上がろうとする新。指先を組み、毒島の座標を天井裏に転送しようとコードを紡ぐ。
しかし、ヒナの表情が彼を止めた。
痛みに顔を歪めながらも、床に這いつくばる彼女。「申し訳、ありませんでした……」と震える声。瞳から消えかける光。心が、砕け散る寸前のガラス細工のように軋んでいる。
(辛すぎる。彼女の記憶を、感情を、一時的に消去すれば……)
新はヒナに向けて指をかざす。
【Target: Makino Hina → Delete: Emotion(Sadness)】
『ERROR: 警告。対象の尊厳(Humanity)を著しく損ないます。実行不可。』
視界を埋め尽くす赤い警告ウィンドウ。
新は息を呑んだ。
悲しみの消去。それは彼女を、ただ命令に従うだけのNPCに変えること。毒島がやっていることと、何が違う?
効率のために心を殺す。それはかつて、自分が最も憎んだ「社畜」の論理そのものではないか。
「おい九条! 何突っ立ってんだ! お前も教育係として連帯責任だ。隣で土下座しろ!」
飛ぶ怒声。
魔法は使えない。使ってはいけない。
新は唇を噛み切り、鉄の味を口いっぱいに広げながら、ゆっくりと膝を折った。
冷たいフロアの感触、毒島の嘲笑。そして隣で嗚咽を漏らすヒナの、布擦れの音。それだけが、鼓膜にこびりついて離れない。
第4章: 魔法の代償と人間宣言
深夜二時。
オフィスの照明は消え、非常灯の緑色の光だけが亡霊のように揺らめく。止まった空調、耳鳴りのように押し寄せる静寂。給湯室で冷え切った缶コーヒーを握りしめる新。
「……私のせいで、すみません」
入り口に立つヒナ。
洗面所で顔を洗ったのだろう。前髪は濡れて張り付き、眼鏡は外されている。酷く青白い素顔、新よりも濃い目の下のクマ。
彼女の指には、いくつものあかぎれと、修正液の白い汚れが付着していた。
「九条先輩は、すごいですね。魔法使いみたいに、なんでも解決して……。私なんて、生きてるだけで迷惑かけて」
糸が切れる寸前の楽器のような、危うい響き。
新は、彼女の『パラメータ』を見た。
【SAN値: 3 / 100】
【状態: 自我崩壊寸前】
「……違う」
握り潰される缶コーヒー。アルミのひしゃげる音が、静寂を引き裂いた。
「俺はすごくない。ただ、逃げていただけだ。感情を殺して、効率よく処理して……それが大人だと思っていた。だが」
新はヒナの方を向く。震える肩。それは拒絶ではなく、助けを求める信号。
かつて異世界で、魔王に立ち向かった時の力。それはスキルのおかげではなかった。
「守りたい」「許せない」という、熱くて泥臭い、理不尽への『怒り』がトリガーだったはずだ。
「ヒナ。泣いてもいい。怒ってもいい。……俺たちは、機械じゃない」
新の胸の奥で、凍りついていた何かが音を立てて砕ける。
同時に、激しく明滅する視界のインターフェース。
青い光が赤く、そして黄金色へと変質していく。
『SYSTEM UPDATE... Emotion Drive: ON』
『New Mode: JUDGEMENT (断罪執行) Unlocked.』
新の瞳が、再び輝き始めた。今度は冷徹なデジタルの青ではない。血管を流れるマグマのような、赫灼たる黄金の光。
「バグだらけの現実は、俺がデバッグする。……徹底的にな」
新はヒナの肩を抱き寄せた。その体温は熱く、確かに脈打っていた。
第5章: 楽園の創造
翌朝、全社員が出社した午前九時。
毒島がいつものように、ゴルフバッグを担いで悠々とオフィスに入ってきた瞬間、世界が反転した。
「おはようございます、毒島部長。……いえ、『元』部長」
新が指を鳴らす。
【World Edit: Global Broadcast → True】
【Target: All Monitors & Smartphones】
一斉にジャックされるオフィスの数百台あるPCモニター、社員全員のスマホ、果ては壁面の大型プロジェクターまで。
画面に映し出されたのは、毒島の裏帳簿。横領の証拠。部下への暴言を録音した音声データの波形。下請け会社への違法なキックバック要求のメール履歴。
「な、なんだこれは!? 消せ! 今すぐ消せぇぇ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ毒島。だが、誰も動かない。社員たちは呆然と、しかし次第に軽蔑の眼差しを向けていく。
新は毒島の前へ進み出る。その足取りは、もはや社畜のそれではない。勇者の凱旋だった。
「消去不能です。これは『事実』ですから。改竄されたのはあなたの虚栄心だけだ」
毒島が新に掴みかかろうとする。
しかし、新は動じない。毒島の拳が届く直前、新の瞳が黄金に輝き、空間そのものが拒絶するように毒島を弾き飛ばした。尻餅をつく毒島。かつての威光は見る影もなく、ただの怯えた小太りの中年男がそこに這いつくばっている。
『Execution Complete. 対象の社会的ステータスを【抹消】しました。』
遠くから聞こえてくる警察のサイレン。
新は振り返り、ヒナを見た。口元を両手で覆い、涙を流す彼女。それは絶望の涙ではなく、安堵と解放の涙。
「……最後だ」
新は空を見上げる。オフィスの天井を超え、青空が見える気がした。
彼は自身の内側にある『異世界チート能力』のコアを掴み出し――握り潰した。
【Sacrifice: World Edit Skill】
【Effect: Area Heal (Last Elixir)】
まばゆい光の粒子が、オフィス全体に降り注ぐ。
それは雪のように優しく、春の日差しのように温かい。
光に触れた社員たちの顔色が戻る。ほぐれる肩の凝り、消えゆく目の下のクマ、心にこびりついたヘドロのようなストレスが浄化されていく奇跡。ヒナの頬にも、健康的な薔薇色が咲いた。
光が収まった時、新の視界からデジタルなログは消えていた。
身体は少し重い。眠気もある。明日からはまた、満員電車に揺られる日々が始まるだろう。
だが。
「……おはようございます、先輩」
ヒナが、眼鏡を外した素顔で、花が綻ぶような極上の笑顔を向けた。
新はネクタイを少し緩め、人間らしい、少し不器用な笑みを返した。
「ああ。……おはよう」
窓の外から差し込む朝日。埃舞うオフィスは黄金色に染め上げられている。
世界はまだバグだらけかもしれない。けれど、今日という日は、悪くない。