第一章: 壁の向こうの捕食者
コンクリートの壁。それは冷たく、硬質な皮膚だ。
深夜二時。横浜、高級レジデンスの一室。
月島和也は、高価なグレーのスーツを纏ったまま、その皮膚にへばりついていた。背中を丸め、整髪料で固めた髪は脂ぎり、疲労に滲んだ眼球には、赤い毛細血管が走っている。
聴診器代わりのクリスタルグラス。底を通して、隣室の空気が鼓膜を震わせる。
絹擦れの音。湿った吐息。そして――甘く、粘り気のある水音。
月島 和也「……嘘だろ」
(まさか、また今夜もなのか?)
隣人、一ノ瀬紗枝子。濡羽色のロングヘアが似合う、京言葉の美しい貞淑な妻。
だが今、和也の耳朶を打つのは、理性を焼き切るような雌の獣の声だ。
一ノ瀬 紗枝子「……あぁ、和也さん……」
心臓が早鐘を打つ。幻聴ではない。彼女は確かに、和也の名を呼んだ。
夫が出張で不在の夜、彼女は壁一枚を隔てた隣人の名を唇に乗せ、自らの花芯を弄っている。
一ノ瀬 紗枝子「見て……もっと、和也さんの音を聞かせて……♥」
ドクン。和也の股間が熱く脈打つ。
壁に押し付けた耳が熱い。彼女の指先が自身の蜜壺を掻き回す、あのねっとりとした音が、コンクリートを透過して脳髄へ直接注ぎ込まれる。
翌朝。
エレベーターの扉が開く。そこには、紗枝子がいた。
昨夜の狂態など嘘のよう。上品な淡い藤色のワンピースに身を包んでいる。だが、和也と目が合った瞬間、その切れ長の瞳が妖艶に歪んだ。
二人は無言のまま、閉鎖空間を落下していく。
一階に到着する直前、紗枝子が一歩、距離を詰めた。
甘い紅茶と、腐乱した果実が混ざったような香りが鼻腔をくすぐる。
一ノ瀬 紗枝子「昨日は、よく聞いていらっしゃいましたね?」
背筋が凍りつき、同時に火傷のような熱が広がる。
彼女は知っていたのだ。彼が壁に耳を当てていることを。
一ノ瀬 紗枝子「ふふ。今夜は……もっと近くで、記録してくださらない?」
彼女は和也のネクタイを指先でツーとなぞり、エレベーターを降りていく。
残された和也の膝は笑い、自身の裡にある「被虐の扉」が、軋んだ音を立てて開くのを自覚した。
第二章: 硝子の檻と共犯者
紗枝子の部屋。そこは過剰なほどに整理整頓されていた。
生活感の欠如したモデルルームのような空間。その一角、ウォークインクローゼットの中こそが、和也に与えられた「特等席」だ。
一ノ瀬 紗枝子「ここから一歩も出てはいけませんよ。貴方はただの『レンズ』なのですから」
暗闇の中、和也は高性能カメラを構える。
ルーバー扉の隙間から、リビングのソファが見えた。
やがて、玄関のチャイムが鳴り、男が招き入れられる。知らない男だ。紗枝子の夫ではない。
紗枝子は黒いレースのスリップ一枚という出で立ちで、男に跨る。
和也のファインダー越しに、彼女の雪のような背中が躍る。
一ノ瀬 紗枝子「もっと……乱暴にして」
男の楔が、彼女の濡れた秘奥を激しく突き上げていく。
震える指でシャッターを切った。
カシャ。カシャ。
その機械的な音が、情事のBGMとなる。
時折、紗枝子がカメラのレンズ――いや、クローゼットの中にいる和也の目――を直視する。
その瞳は、交わっている男など見ていない。「見ている和也」を見て、絶頂に達しようとしているのだ。
(僕が見ているから、彼女は感じるんだ。僕が支配されているようで、実は僕が彼女を支配しているのか?)
和也はズボンの上から自身の欲望の塊を握りしめ、苦悶の表情で自らを慰める。
月島 和也「くっ……紗枝子、さん……」
しかし、紗枝子は和也に「果てる」ことを許していない。
事前の契約。「許可なく放出してはいけない」。
極限の寸止め(エッジング)。
ファインダー越しの背徳感と、下腹部に溜まる灼熱の鉛。
和也は、冷え切った自らの夫婦生活では決して味わえない、泥沼のような熱狂に蝕まれていった。
第三章: 道化の舞台
三度目の撮影日。
和也は慣れた手つきで機材をセットしていた。
今日はどんな男が来るのか。期待と罪悪感が綯い交ぜになり、ドーパミンが脳を焼き焦がす。
チャイムが鳴る。
紗枝子が出迎える声。
一ノ瀬 紗枝子「いらっしゃい。待ちかねたわ」
入ってきた人物を見て、和也は息を呑み、カメラを取り落としそうになった。
男ではない。
そこに立っていたのは、和也の妻、絵里だった。
月島 和也「え……り……?」
絵里は、和也の前で見せるようなバリキャリの鎧――ブランド物のスーツ――を脱ぎ捨てていた。
どこか媚びるような、湿った視線を紗枝子に向けている。
月島 絵里「紗枝子さん……本当に、いいの?」
一ノ瀬 紗枝子「ええ。貴女の旦那様なんて、つまらない男なんでしょう? 私が忘れさせてあげる」
衝撃が和也の頭蓋を貫く。
つまらない男。その言葉が、妻の口からではなく、崇拝する女神の口から出たことに絶望する。
紗枝子は絵里をソファに押し倒した。
男に見せる顔とは違う、支配者の顔。
紗枝子の長い指が、絵里のブラウスを引き裂くように開く。
月島 絵里「あぁっ! ……すごい、指……入っ……」
妻の白く肉感的な肢体が、紗枝子の手によって赤く染め上げられていく。
そして、紗枝子はゆっくりとクローゼットの方を向いた。
その唇が、音もなく動く。
「撮りなさい」
和也は理解した。
これは不倫の覗き見ではない。
紗枝子が脚本を書き、演出し、主演する、「月島和也の精神崩壊」という名の演劇。
妻が快楽に溺れ、自分を侮蔑する言葉を吐く。それを、夫である自分が記録させられる。
レンズが涙で滲む。だが、指はシャッターを切ることを止められない。
第四章: 飼育される魂
クローゼットから引きずり出された和也は、リビングの絨毯に四つん這いになっていた。
目の前には、事後の気だるさを纏った紗枝子と、恍惚とした表情の絵里。
月島 絵里「か、和也!? なんで……ここに……」
絵里は悲鳴を上げ、自身の乱れた衣服をかき集める。
だが、紗枝子は優雅に脚を組み、冷ややかな視線で和也を見下ろした。
一ノ瀬 紗枝子「誰が撮影を止めていいと言いました? 続きを撮りなさい」
理性の堤防が決壊する音がした。
和也は、妻の羞恥に染まった顔よりも、紗枝子の絶対的な命令に反応した。
月島 和也「撮ります!! 撮らせてください!!」
彼は床を這い、カメラを構える。
紗枝子は満足げに微笑み、絵里の顎を掴んで上を向かせた。
一ノ瀬 紗枝子「絵里さん。貴女の旦那様、最高のカメラマンだと思わない? ほら、もっと足を開いて。彼に見せつけてあげて」
月島 絵里「いや……やめて、見ないで……!」
抵抗する妻。それを冷酷に暴く隣人。
そして、その光景を「構図が素晴らしい」と感じてしまう自分。
嫉妬も、倫理も、プライドも、全てが摩耗し、粉々になった。
月島 和也「いい……すごくいいよ、絵里。その顔……最高だ……」
和也の口から漏れたのは、称賛だった。
紗枝子の足元に縋り付き、ヒールの爪先を舐める。
革と靴墨の味が口内に広がる。それが、今の彼にとっての「聖餐」だった。
一ノ瀬 紗枝子「よし。いい子ね、和也さん」
その一言。
ただ頭を撫でられ、「よし」と言われるためだけに、彼は人間であることを辞めた。
魂が、快楽の奴隷へと完全に書き換えられた瞬間だった。
第五章: 幸福な備品
数ヶ月後。
壁の穴は塞がれたが、もはや壁など意味を成さない。
二つの夫婦関係は溶解し、奇妙な共同体として再構築されていた。
紗枝子の部屋。
中央には、女王のように君臨する紗枝子。
その傍らには、彼女に傅く絵里。
そして部屋の隅、三脚と一体化したかのように佇む和也。
彼はもう、言葉を発しない。
彼の役割は「記録」であり、「思考」ではないからだ。
絵里が他の男たち――紗枝子が手配した「俳優」たち――に抱かれる様を、和也は淡々と撮影し続ける。
ファインダーの中の世界だけが、彼にとっての現実。
絵里が白き熱を浴び、喘ぐ姿も、紗枝子がそれを眺めてワインを揺らす姿も、すべては美しい素材。
(ああ、光の加減が完璧だ。紗枝子さんの肌の質感が、神々しい……)
撮影が終わると、紗枝子が和也の方へ歩み寄る。
彼女はレンズを覗き込み、そして和也の頬にキスを落とす。
一ノ瀬 紗枝子「今日もお疲れ様。私の可愛いカメラさん」
その瞬間、和也の身体を至福の電流が駆け巡る。
自分は人間ではない。彼女の所有物。彼女の眼球の延長。
その事実に、これほどまでの安らぎがあるとは。
月島 和也「……はい。幸せです、紗枝子さん」
和也は、空っぽの瞳で微笑んだ。
彼は今日も、隣人の女神が与える「飼育」という名の愛に溺れ、永遠に満たされることのないレンズの飢えを抱えたまま、幸福な地獄を生き続ける。