第一章: 硝子眼の契約
ツンと鼻腔を刺すホルマリンと、乾ききった獣皮の脂が混じり合う、冷徹な作業場の空気。
真壁律は灰褐色の前髪を無造作に払い、幾重にも染みのこびりついたリネンのエプロンを指先で弾いた。
作業台の上には、小鳥の骨格を模して細く組まれた針金の芯材が、無機質な影を落としている。
軋む蝶番の悲鳴とともに重い木製扉が押し開かれ、夜風の粉雪を従えて黒い輪郭が滑り込んできた。
藍色のハイネックセーターを乱雑に着崩した女の喉元には、生々しく引き攣れた赤紫色の手術痕。
陶器のように透き通る青白い肌と、鋭く切りそろえられた濡れ羽色のボブカットが、薄暗がりの中で異様に浮き立つ。
真壁 律「今月の受付はとっくに締め切りました。脈を打つ生きた人間を相手にする趣味はありません」
佐伯 依緒「……私を、剥製にして」
依緒の低く掠れたハスキーな声が、張り詰めた氷の膜を両断するように響き渡る。
律の濁りのない双眸がわずかに細まり、握っていた解剖用メスを作業台の縁へと音もなく置いた。
真壁 律「冗談なら他所へどうぞ。私が魅入られるのは、死に絶えた獣が放つ永遠の静寂だけです」
依緒は問答を拒絶するように無言で間合いを詰め、律の乾燥しきった手の甲へ、自らの掌を隙間なく密着させた。
凍てつくように硬直した指先が、律の骨ばった長い指を絡め取り、そのまま首筋の浮き出た青い血管へと這い上がる。
佐伯 依緒「……触って。私の身体はね、内側から少しずつ、硬い石へと変わっていくの」
皮膚の真下、本来なら柔軟であるはずの筋肉組織が石膏のように固化し、弾力を完全に奪われた異様な感触。
律の指先へ直接伝わってくるその温度は、すでに彼岸へと半分沈みかけた標本の冷徹さに限りなく酷似していた。
真壁 律「……進行性の硬化性疾患。筋膜から骨格に至る線維化の極致、ですか」
佐伯 依緒「病室で無様に腐り果てるくらいなら、あなたの手で完璧な鉱石にして。完全に呼吸が止まったら、誰よりも美しい形で残してよ」
依緒はコートのポケットへと手を差し入れ、底知れぬ深海の色を湛えた硝子の球体を取り出すと、作業台の盤面へと滑らせた。
コトリ、と乾いた硬質音を立てて転がる義眼。
佐伯 依緒「私の本当の色はこれよ。引き受けてくれるわね」
律の指先が吸い寄せられるように青い硝子球を拾い上げ、掌の中で滑らかに転がす。
寸分の狂いもない静止。永遠を約束された輪郭。
真壁 律「……いいでしょう。あなたが最後の呼気を吐き出した瞬間、世界で唯一の標本として私が永遠を施します」
依緒の薄い唇が嘲笑のように微かに歪み、降りしきる粉雪の闇の中へと音もなく融けて消えた。
第二章: 生温かい侵食

古い洋館の温室には、冬の結露に曇るガラス越しに、白く濁った陽光が斜めに差し込んでいた。
足元から立ち上る腐葉土の甘たるい湿り気と、枯れ草の乾いた匂いが、ドーム内の淀んだ空気を満たす。
律は手にした真鍮製のメジャーを引き出し、依緒の華奢な肩口へと冷ややかな目盛りをあてがった。
藍色のセーターが捲り上げられ、白磁の滑らかな肌に金属の冷たいエッジが容赦なく食い込む。
佐伯 依緒「……くすぐったい」
律の白く長い指先が、依緒の鎖骨の窪みを深く探り、背骨の微小な突起を上から順に一つずつ確かめていく。
石化しつつある筋肉の深層から、トク、トクと激しく抗うような生きている脈動が律の皮膚を震わせた。
耳の後ろを掠める彼女の熱を帯びた湿った呼気に、律の首筋が粟立つ。
真壁 律「動かないでください。芯材の設計が狂います」
佐伯 依緒「あなたの指先、氷みたいに冷たくて気持ちいい」
温室の錆びた鉄扉が乱暴に蹴破られ、重苦しい足音が温室の静寂を暴力的に引き裂いた。
くたびれたトレンチコートを纏った男、梶原創が無精髭に覆われた顎を怒りに震わせて踏み込んでくる。
梶原 創「そこまでだ! てめえ、何をやらせてやがる佐伯!」
真壁 律「採寸の最中です。部外者は速やかにお引き取りを」
梶原 創「ふざけた真似すんじゃねえぞ! 命を工作の材料にするな! こいつはまだ息をしてる、生身の人間だ!」
梶原が依緒の細い手首を乱暴に掴み上げようと腕を伸ばすが、依緒はその手を激情を込めて激しく振り払った。
佐伯 依緒「触らないで! 薬品漬けにされて、ベッドの上でただ朽ちていくだけの時間を、生きているなんて呼ばないで!」
梶原 創「生きてる人間の泥臭さを舐めるな! お前が縋ってるのは救いなんかじゃない、ただの卑屈な逃避だ!」
怒号が交錯した瞬間、依緒の喉の奥から空気を引き裂くような激しい咳が爆発した。
鮮血の飛沫。
真紅の斑点が弧を描いて宙を舞い、律のリネンエプロンに無残な染みを作って広がる。
鉄錆の生々しい匂いが立ち込め、依緒の身体から一気に力が抜け、律の胸板へと崩れ落ちた。
第三章: 永遠の残照

真夜中の工房、静まり返ったフロアの中央には、霜のように冷たい金属製の解剖台が鎮座していた。
頭上の天窓から落ちる青白い月光が、部屋の片隅に設えられた無垢の大型ガラスケースを幽玄に照らし出す。
台の上に横たわる依緒の皮膚は透き通り、喉から漏れ出る呼吸はもはや冬枯れの風の囁きに等しい。
壁際に背を預けた梶原は、火の点いていない煙草を奥歯で噛み潰し、押し殺した沈黙を保っている。
依緒が残された力を振り絞って右手を持ち上げ、律の硬直した手首を冷たく絡め取った。
佐伯 依緒「……律。さあ、私を約束通り、永遠にして」
律は作業台から研ぎ澄まされた銀のメスを握り直し、依緒の細い喉元へと切っ先を音もなく近づける。
だが、鋼の刃先が小刻みに痙攣し、青白く張った皮膚を裂くことがどうしてもできない。
エプロンに染み込んだ彼女の血の生々しい匂い、胸郭をかすかに押し上げる弱々しくも確かな命の蠢き。
佐伯 依緒「どうしたの……? 呼吸を止めてくれなきゃ……永遠になれないじゃない……」
真壁 律「……切れない。私の刃が、あなたを拒絶している」
律の震える指先から解剖刀が力なく零れ落ち、床のコンクリートの上で鋭利な金属音を立てて跳ねた。
カラン、と響き渡る静寂の破片。
律は依緒の冷え切っていく両手を自らの掌で乱暴に包み込み、引き寄せるようにその細い身体を強く抱きしめた。
真壁 律「永遠などいらない! あなたのその、消えかけている熱が……この儚い体温が奪われる光景など、私は絶対に見たくない!」
梶原 創「……やっと生身の温度に気づいたかよ、標本師」
依緒の伏せられた瞳の端から、一筋の透明な雫が零れ落ち、律の胸元の血痕を濡らしていく。
佐伯 依緒「……あったかい。あなたの手……こんなにも、熱かったんだね……」
細く長い微かな吐息とともに、依緒の長い睫毛が静かに重なり合った。
底知れぬ静寂が工房の隅々まで満ちていき、最後の息吹が夜の冷気に静かに溶けて消え去る。
息を引き取った彼女の薄い唇には、永遠の標本などよりも遥かに鮮烈な、かすかな微笑みの輪郭が焼き付いている。
彼女を剥製にするためのメスが、再び握られることは二度とない。
律の掌には、世界中のどんな硝子細工よりも尊く、決して標本にすることのできない彼女の命の熱が、焼き付くように深く刻み込まれていた。