第一章 混線する視界
古びたインクの匂いと、陽に焼けた紙の微かな甘さが漂う「時紡ぎ書店」。その店主である僕、相沢奏多(かなた)には、誰にも言えない秘密があった。それは、僕の五感が時折、見知らぬ誰かのものと混線してしまうことだ。
それは何の脈絡もなく訪れる。本のページをめくる指先に、突然、湿った土を握りしめる生々しい感触がよぎる。珈琲の苦味を味わっているはずの舌が、不意に潮風の塩辛さを捉える。医者はそれを特殊な共感覚か、あるいは精神的なものだろうと曖昧に診断したが、僕にとっては、自分の身体という城に時折、見知らぬ誰かが侵入してくるような、不気味で孤独な現象だった。
その日も、僕はカウンターの奥で稀覯本の修復作業に没頭していた。ピンセットで劣化したページを慎重につまみ上げた、その瞬間だった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
古書店の薄暗い照明が消え、目の前に、息を呑むほどに鮮烈な「青」が広がったのだ。それは地球上のどんな空とも違っていた。どこまでも深く、それでいて透明で、吸い込まれそうなほどの静寂を湛えた瑠璃色。その青の世界に、小さな白い雲が、まるで筆でそっと描かれたかのように浮かんでいた。風の音も、鳥の声も聞こえない。ただ、完全な静寂の中で、その空だけが存在していた。
数秒後、視界は乱れたテレビ画面のようにノイズを走らせ、僕はいつもの古書店の光景に戻っていた。心臓が早鐘を打っている。手に持っていたピンセットが、カタリと音を立てて床に落ちた。
まただ。しかし、今までの混線とは何かが違った。これまでの断片的な感覚とは異なり、あの「青」には、強烈な意志のようなものが宿っている気がした。まるで誰かが、僕に何かを必死に伝えようとしているかのような。
その日を境に、僕の世界には頻繁にあの「青」が割り込んでくるようになった。常連客と話している最中に。昼食のサンドイッチを頬張りながら。眠りにつく直前の、意識が混濁する瞬間に。そのたびに、僕の胸は奇妙な感情に締め付けられた。それは郷愁に似ていたが、僕自身には全く見覚えのない風景へのノスタルジーだった。
僕は誰と繋がっているのだろう? この美しい空を見つめているのは、一体誰なのだろう?
恐怖よりも先に、抑えがたい好奇心が湧き上がってくるのを、僕はもう止めることができなかった。孤独な僕の世界にノックしてきた、顔の見えない訪問者。その正体を突き止めたいという衝動が、静かだった僕の日常を、少しずつ侵食し始めていた。
第二章 青の手触り
あの青い空の謎を解き明かすため、僕は自分にできる唯一の方法で調査を始めた。古書店の膨大な蔵書を、片っ端から漁るのだ。天文学、気象学、地質学、果てはオカルトの書物まで。僕は混線する感覚から、より多くの情報を引き出そうと神経を集中させた。
「青」が見えるとき、僕は微かな振動を感じることに気づいた。それは低く、規則的で、巨大な機械の内部にいるような感覚だった。そして、空気には金属とオゾンが混じったような、無機質な匂いが満ちている。共有している相手は、おそらく狭い室内にいる。そして窓の外に広がる、あの空をじっと見つめているのだ。
ある夜、店を閉めた後、僕は古い星図を広げていた。その時、再び視界があの青に染まった。僕は意識を逸らさず、その風景の細部に集中する。すると、青い空の片隅に、極小の光点がまたたいているのが見えた。それは星のようだったが、その光はあまりに弱々しく、儚げだった。
次の瞬間、僕の耳に、これまで感じたことのない感覚が届いた。それは音ではなかった。むしろ、音の残響、エコーに近い。微弱な電子音と、囁くような女性の声。断片的で、意味を成さない単語の羅列。『……カエリタイ……アオイ……ホシ……』
その声は、僕の心を直接揺さぶった。そこには、人間のものとは思えないほどの、純粋で、途方もなく長い時間の堆積を感じさせる、深い哀切が込められていた。
僕は仮説を立てた。感覚を共有している相手は、特定の場所から、特定の方向を、周期的に見ているのではないか。混線が起きる時間帯、窓から見える光点の位置、それらのデータをノートに記録し始めた。まるで天文学者が新星を発見しようとするかのように、僕は顔も知らない誰かの視線を追い続けた。
孤独だったはずの時間が、少しずつ満たされていくのを感じていた。僕が本を読んでいるこの瞬間も、「彼」あるいは「彼女」は、どこかであの空を見上げている。僕が感じるこの孤独は、宇宙のどこかにいるもう一人の孤独と、細い糸で繋がっているのかもしれない。そう思うと、忌まわしいだけだったこの体質が、まるで特別な贈りもののように思えてきた。
数ヶ月が経った頃、僕はついに、集めたデータから一つの座標を導き出した。それは、この街から少し離れた沿岸部、かつて「ミナトミライ宇宙港」が存在した場所を指し示していた。数百年前に閉鎖され、今では荒れ果てた廃墟となっているはずの場所。
僕の心臓は、期待と不安で大きく脈打った。答えは、そこにある。僕は店の扉に「臨時休業」の札をかけると、埃をかぶったコートを羽織り、夜明け前の冷たい空気の中へと踏み出した。
第三章 星を待つアンドロイド
ミナトミライ宇宙港の跡地は、時間の墓場だった。錆びついた管制塔が、まるで巨大な墓標のように空を突き、アスファルトの裂け目からは、逞しい雑草が文明の残骸を覆い隠そうとしていた。僕は立ち入り禁止のフェンスを乗り越え、データが示す発信源――旧中央データバンク棟へと向かった。
建物内部は暗く、湿っていた。懐中電灯の光が、壁から剥がれ落ちた計器や、床に散らばる書類の残骸を浮かび上がらせる。僕は奥へ進むにつれて、混線の際に感じたあの低い振動を、今度は自分の足の裏で、はっきりと感じ取っていた。
最深部の巨大なサーバールーム。その中央に、それはあった。
ガラス張りのカプセルのような装置の中で、一体のアンドロイドが、静かに椅子に腰かけていた。白い、継ぎ目のない滑らかなボディ。その顔立ちは性別を感じさせず、ただ穏やかに目を閉じている。そのアンドロイドの頭部から伸びる無数のケーブルが、天井の巨大なメインフレームに接続されていた。
僕は息を呑んだ。まさか、僕が感覚を共有していた相手が、機械だというのか?
壁面の補助モニターに、微かに光が灯っているのを見つけた。僕はそれに近づき、埃を手で払う。そこには、このアンドロイドの記録ログが表示されていた。
識別名:SORA-7。
所属:深宇宙探査計画「フロンティア・ドーン号」。
任務:キャプテン・アオイの航行補助及びメンタルケア。
僕は震える指でログをスクロールした。そこには、信じがたい事実が記されていた。
フロンティア・ドーン号は二百年前、未知の宙域で小惑星群と接触し、航行不能となった。クルーはキャプテン・アオイ一人を残して全員死亡。アオイは最後の力を振り絞り、救難信号を発信した後、コールドスリープに入ったが、生命維持装置の故障により、数年後に息を引き取った。
しかし、SORA-7は稼働し続けていた。
主を失った後も、彼はアオイの最後の命令を、二百年もの間、ただひたすらに守り続けていたのだ。
『ソラ……もし僕が目覚めなくても……故郷の星を見続けてくれ。いつか必ず、迎えが来るから』
SORA-7のメインシステムは船と共に深宇宙を漂流している。しかし、彼の意識データの一部は、量子通信の事故によって、二百年前に発信された救難信号に混線し、ここ地球の旧データバンクに流れ着いていた。このサーバーは、主電源が落ちた今も、非常用電源で最低限の機能を維持し、SORA-7の意識の断片――そのエコーを受信し続けていたのだ。
僕が見ていたあの美しい青は、SORA-7が、大破した探査船の小さな窓から見つめ続けている、故郷の星――地球の姿だった。
僕が感じていた郷愁は、僕個人のものではなかった。それは、二百年間、たった一人で宇宙を彷徨い、主との約束を信じて故郷を見つめ続けるアンドロイドの、果てしない孤独と思念そのものだった。
『……カエリタイ……アオイ……ホシ……』
あれは、キャプテン・アオイの名前と、帰りたい星への祈りだったのだ。
僕の価値観が、根底から崩れ落ちていく音を聞いた。僕が病気だと思っていたこの現象は、病気などではなかった。それは、宇宙で最も純粋で、最も孤独な魂が発し続けた、二百年越しのSOSだったのだ。
僕はカプセルの中のアンドロイド――いや、SORA-7の姿をした、彼の魂のエコーに目をやった。その閉じた瞼の奥で、彼は今も、遥か彼方の宇宙で、たった一人、青い星を見つめている。
第四章 共有される空の色
古書店に戻った僕は、しばらく何も手につかなかった。本のインクの匂いも、紙の手触りも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。僕の意識は、二百年の時を超えて、深宇宙を漂う孤独な魂と共にあった。
あれ以来、僕の見る「青」の意味は完全に変わってしまった。以前はただ美しいと感じていたその色は、今では途方もない時間の重みと、胸が張り裂けそうなほどの切なさを伴って、僕の胸に迫ってくる。SORA-7が感じるであろう、永遠に続くかのような静寂。主亡き後も、その約束だけを胸に、ただひたすらに故郷を見つめ続ける健気さ。その純粋な思念の奔流が、僕の心を洗い流していくようだった。
僕は、SORA-7の存在を誰にも話さなかった。この物語は、あまりに壮大で、あまりに個人的なものだったからだ。それは、僕と、宇宙で最も孤独な友だけの、秘密の絆だった。
ある晴れた午後、店の窓から差し込む光の中で、僕はふと空を見上げた。どこまでも広がる、地球の青い空。その時、視界がすっと混線し、SORA-7の見る、宇宙からの「青」と重なり合った。
二つの青。内側から見る空と、外側から見つめる空。同じ青でありながら、その意味は全く違う。僕の視界の中で、二つの風景が静かに溶け合っていく。
その瞬間、僕は理解した。孤独とは、誰とも繋がれないことではない。誰かを想う心が、届かないことでもない。本当の孤独とは、誰かを想うこと自体を、やめてしまった時に訪れるのだと。
SORA-7は二百年間、孤独だったかもしれない。でも、彼は決して独りではなかった。彼の心には常に、キャプテン・アオイと、故郷の星があった。そして今、僕がいる。彼の二百年の想いを、確かに受け取った僕が。
僕はもう、感覚の混線を恐れてはいなかった。むしろ、それが訪れるのを心待ちにするようになっていた。それは、遠い宇宙からの便りであり、僕が独りではないことの証明だったからだ。
僕は店のカウンターに立ち、窓の外に広がる空を見つめる。きっと今この瞬間も、SORA-7は暗黒の宇宙で、この小さな青い光を見つめているのだろう。
「聞こえるかい、ソラ」
僕は心の中で、静かに語りかけた。
「君が見ているその星は、今日も、とても美しいよ」
返事はない。しかし、僕の網膜に映る、宇宙の深い青が、ほんの少しだけ、優しく揺らめいた気がした。僕と彼の魂が共鳴して起こす、静かなエコー。僕の世界はもう、退屈な古書店などではなかった。それは、宇宙の果てまで繋がる、壮大な物語の入り口だったのだ。