ハッピー・ノイズの奇妙な一日

ハッピー・ノイズの奇妙な一日

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第一章 暴走するプレゼン、暴走する日常

佐藤陽介は、額にじっとりとにじむ汗を拭うことなく、薄暗い会議室のスクリーンを見つめていた。彼の人生で最も重要なプレゼンテーションが、まさに今、始まろうとしていた。32年間、目立たず、波風立てず生きてきた陽介にとって、大勢の役員たちの前で自身の企画を売り込むなど、拷問以外の何物でもない。心臓は、まるでけたたましい目覚まし時計のように胸の中で乱打し、手のひらは脂汗でしっとりと湿っていた。緊張は最高潮に達し、その瞬間、彼の内側で何かがカチリと音を立てたような気がした。

「えー、それでは……新商品の企画について、ご説明いたします」

陽介が震える声で話し始めた途端、会議室の空調が「マンボ!マンボ!イェーイ!」とラテン調の陽気な音楽を歌い出し、プロジェクターに映し出されていたグラフや数字が、突如として砂浜で踊る水着の美女たちの映像に切り替わった。まるで、会社の機密情報を扱ったプレゼンではなく、古き良き時代のカラオケスナックにでも迷い込んだかのようだ。役員たちは一瞬の静寂の後、困惑と怒りに満ちた表情で陽介を見つめた。

「佐藤君、これは一体どういうことだね?」部長の声が、エアコンの陽気な歌声に掻き消されそうになりながら響く。

陽介は青ざめ、必死で弁解しようとしたが、言葉が出てこない。感情が爆発寸前まで高まっているのを、はっきりと感じた。その焦燥感が、更なる異変を引き起こす。会議室の天井の蛍光灯が、点滅しながら七色に輝き始めたのだ。まるでミラーボールのように、会議室は突如としてディスコへと変貌を遂げた。陽介は混乱の極みで、会議室を飛び出した。

それから数日間、陽介の身には奇妙な現象が立て続けに起こった。カフェで頼んだコーヒーが、なぜかマグカップの中で突然マシュマロとグミに変わり、彼の恋人(先週できたばかりだというのに)に別れを告げられた際には、街中の自動販売機が野菜ジュースの代わりに全て靴下を吐き出し始めた。真っ赤になった信号機が、突如として陽介の感情に合わせて「ドゥンドゥン!パヤパヤ!」と踊り出す。その度に、周囲の人々はパニックに陥り、陽介は白い目で見られた。まるで、彼自身が歩く厄災であるかのようだった。

「僕、何かの呪いにかかったのか?」

陽介は、外界との接触を断ち、部屋に引きこもるようになった。彼の感情が少しでも揺らぐと、周囲の人工物が理不尽なまでの「遊び心」を発揮し始める。テレビは勝手に子供番組の歌を歌い出し、冷蔵庫は中の食材を勝手にシャッフルして謎のオブジェを作り上げた。電気を消そうとすれば、なぜか彼の人生で最も恥ずかしかった瞬間のスライドショーが壁に映し出される。こんな状況では、まともに生活することすらできない。陽介は絶望の淵に立たされた。

第二章 公園の賢者とハッピー・ノイズ

絶望と困惑の数日が過ぎた。陽介は、自分の身に起こっている現象の原因を突き止めようと、スマートフォンで検索を試みた。しかし、「感情が爆発すると自動販売機が靴下を出す」「プレゼン中にプロジェクターがカラオケになる」といったキーワードでは、宇宙の果てのような検索結果しか出てこない。結局、ヒットしたのは「電磁波過敏症」や「集団ヒステリー」といった、的外れな専門用語ばかりだった。

「こんな現象、僕以外に体験してる人なんていないんだ……」

疲弊しきった陽介は、人目を避けるようにして近所の公園に足を運んだ。ベンチに座り、ただただ虚空を眺めていると、隣に一人の老人が腰を下ろした。白髪に白い髭、そしてどこか悟ったような、しかし悪戯っぽい目つきをしたその老人は、陽介を一瞥するとニヤリと笑った。

「あんたも、お困りのようだね、『ハッピー・ノイズ』のせいで」

陽介は心臓が止まるかと思った。まさか、自分の身に起こっていることを言い当てる者がいるとは。

「ハッピー・ノイズ……ですか?」

老人は仙波(せんば)と名乗り、かつて自分も同じ現象に悩まされていたと語った。彼の話によると、「ハッピー・ノイズ」とは、特定の感情が高ぶった際に発生する特殊な低周波が、人工物に「遊び心」を付与する現象なのだという。

「まあ、簡単に言えば、機械が人間を楽しませるためのお遊び、とでも言おうかね。あんたは特に、その力が強いようだ。まったく、選ばれし者というのは大変だ」

仙波の言葉は突拍子もなかったが、陽介はなぜか彼を信じずにはいられなかった。なぜなら、仙波が陽介の感情に合わせて、公園の噴水が音楽に合わせて色とりどりの水を噴き上げ始めたからだ。彼の感情が高まると、まるで噴水が彼自身の心の波を表現しているかのようだった。

「私も昔はね、動物園でライオンがジャズを歌い出したり、スーパーのレジがラップバトルを始めたりして、随分と世間を騒がせたものさ」

仙波は遠い目をしながら語った。陽介は、自分の孤独が少しだけ和らいだ気がした。仙波は、陽介の能力はまだ未熟で、コントロールができていないだけだと指摘した。そして、彼の能力を制御する方法、あるいはもっと正確に言えば、彼の感情を意図的にコントロールし、その結果として人工物の「遊び心」をポジティブな方向に導く方法を教えてくれると言った。

陽介は半信半疑ながらも、仙波に導かれ、自身の能力をコントロールする練習を始めた。それはまるで、心と機械の間に隠された奇妙なオーケストラを指揮するような作業だった。最初はうまくいかず、練習中に公園のブランコが空高く舞い上がったり、鳩が突然「オー・ソレ・ミオ」を合唱し始めたりと、カオスな状況を生み出した。しかし、陽介は少しずつ、自分の感情の波長が、周囲の人工物にどう影響するかを感じ取れるようになっていった。

第三章 宇宙の遊び心と揺らぐ世界観

仙波との特訓が続く中で、陽介は少しずつ自分の能力を受け入れ始めていた。しかし、その根底にはまだ、この異常な現象への疑念と、なぜ自分がこんな目に遭うのかという疑問が渦巻いていた。ある日の夕暮れ時、仙波は公園のベンチで、陽介に衝撃的な事実を告げた。

「陽介君、このハッピー・ノイズ現象はね、実は、宇宙からの信号なんだよ」

陽介は持っていたジュースを噴き出しそうになった。

「宇宙人? まさか!」

仙波は真顔で頷いた。「そう、宇宙人。彼らはね、地球の文明を観察し、その進化の過程を楽しんでいるんだ。特に、地球人が生み出す人工物には、かなりの興味を抱いているらしい」

仙波の話はこうだ。遠い宇宙のどこかに存在する高等生命体は、退屈しのぎに様々な星の生態系を観察し、時には「刺激」を与えるのだという。地球の人工物は、彼らにとって最高のエンターテイメントツールであり、彼らは時折、特定の地球人を通じて、人工物に「遊び心」を注入する信号を送っているのだと。

「つまり、僕らは宇宙人のおもちゃってことですか?」陽介は呆然とした。

「おもちゃ、というよりは、エンターテイナーとでも言おうかね。彼らは、人間が感情を爆発させることで、人工物が予想外の面白い動きをするのを見て、心底楽しんでいるんだ」

仙波は、この「宇宙からの娯楽信号」が近年弱まっており、地球上の人工物が「心を失いつつある」という危機が迫っていると語った。スマートフォンの普及により、人々は画面の中の世界に没頭し、現実世界の人工物とのインタラクションが希薄になったため、宇宙人も刺激を失いつつあるのだという。陽介の能力は、その信号を増幅させ、地球に再び「遊び心」を取り戻す可能性を秘めているのだと。

陽介の価値観は根底から揺らいだ。自分が抱えていた能力が、まさか宇宙からの「エンタメ要請」だとは。これまでの人生で、感情を表に出すことを苦手としてきた自分自身が、皮肉にもその「感情の爆発」によって、世界を面白くする使命を帯びているという事実に直面した。

仙波は続けた。「私も若い頃、この能力に悩まされたが、ある時、自分の感情をコントロールできるようになり、意図的に面白い現象を引き起こせるようになった。そうすると、世界が違って見え始めたんだ。退屈だった日常が、まるで最高の舞台になったようにね」

仙波が語ったのは、彼の能力で動物園の動物たちが皆でミュージカルを始めた話、退屈な政治家の演説中にマイクが突然オペラを歌い出した話、そして銀行のATMがなぜか突然、現金と一緒に大量の駄菓子を吐き出し始めた話など、どれもこれも陽介の常識では考えられないような愉快な出来事ばかりだった。

「陽介君、君の能力は、人々を笑顔にする力だ。宇宙人が何を企んでいようと、この力は、この退屈な世界に、もう一度笑いを呼び戻すことができるんだよ」

陽介は、自分の内側で何かが変わっていくのを感じた。自分の能力を呪うのではなく、むしろそれを「受け入れる」こと、そして「楽しむ」ことの意味を、仙波の言葉と過去の奇妙なエピソードの数々が教えてくれたのだ。

第四章 お祭り騒ぎを呼び起こせ!

宇宙からの「娯楽信号」という突拍子もない真実を知った陽介は、自分の能力に対する見方を大きく変えた。これまでの「呪い」が、今は「使命」のように感じられる。仙波の指導のもと、彼は自分の感情をより繊細にコントロールする練習に没頭した。特定の感情、例えば純粋な喜び、予期せぬ驚き、そして心からの感動などを意図的に高めることで、人工物をポジティブな方向へ「暴走」させられるようになるのが目標だ。

最初は小さな成功だった。止まって動かなくなった駅のエスカレーターが、陽介の「がんばれ!」という心の声に反応し、突然ディスコミュージックを奏でながらダンスフロアになったり、退屈な会社の会議室の電光掲示板が、彼の「もっと自由に!」という思いを受けて、参加者全員への応援メッセージをスクロールさせたりした。人々は最初は困惑するものの、その突飛な光景にやがて笑顔を浮かべ、写真を撮り始める。陽介は、人々が笑顔になるのを見るたびに、自分の心が温かくなるのを感じた。

「なかなか良い調子じゃないか、陽介君!」仙波は満足げに目を細めた。

しかし、ある日、仙波は険しい表情で陽介に告げた。「陽介君、いよいよだ。地球の退屈が、極限に達しようとしている」

その日、街全体が停滞しているかのような異様な光景が広がっていた。週末に開催されていた地域の「ふれあい祭り」は、誰もがスマホを見つめ、無気力に綿菓子を頬張るばかり。屋台の店主も呼び込みをせず、寂れたBGMだけが虚しく流れていた。まるで、街全体が深い眠りに落ちているかのようだった。仙波は言った。

「見てごらん。この無気力さ。宇宙人が言うところの『人工物が心を失いつつある』状態だ。このままでは、地球は『面白くない星』として、宇宙人リストから抹消されてしまうかもしれない!」

冗談めかしているが、仙波の口調にはどこか切迫感があった。陽介は、かつての自分が、まさにこの祭りの参加者たちと同じように、感情を押し殺して生きていたことを思い出した。そして、そんな自分を変えてくれたのは、この「ハッピー・ノイズ」だった。

「僕が、何とかしてみせます」陽介は静かに、しかし力強く言った。

仙波は陽介の目を見て頷いた。「その意気だ、陽介君。君の『ハッピー・ノイズ』を、あの祭りの中心で爆発させるんだ。そうすれば、きっとあの無気力な人工物たちも、そして人々も、再び笑顔を取り戻すだろう!」

陽介は、自分の体に漲る、これまで感じたことのない高揚感を感じていた。恐怖ではなく、期待と、そして少しの責任感。かつて内気だった自分からは想像もつかないような感情が、彼の中で渦巻いていた。これは、自分の人生で最も大きな「感情の爆発」になるだろう。

第五章 世界は最高のステージだ

陽介は、ふれあい祭りの寂れたステージに立った。観客席には、依然としてスマホを弄る人々や、うつろな目でステージを見上げる人々がまばらに座っている。その重苦しい空気は、陽介の胸を締め付けた。彼は、人生で最も感情を爆発させる決意をしたものの、いざとなると心臓はまた激しく脈打ち、手のひらはじんわりと汗ばんできた。

「大丈夫か、陽介君!」ステージの脇から仙波の声が聞こえる。「君の心からの喜びを、あの人工物たちに伝えてやるんだ!」

陽介は深呼吸した。自分の感情が、そのまま世界を変える力になる。その重みを、改めて感じた。しかし、何かが足りない。純粋な「喜び」が、まだ完全に溢れ出してこない。その時、幻覚か、あるいは仙波の能力のせいか、観客席に会社の同僚たちの顔が見えた。彼らは、あのプレゼンの失敗以来、陽介を避け続けていたはずなのに、なぜか皆、陽介に向かって手を振っている。「佐藤さん、がんばれ!」という声が聞こえたような気がした。さらに、別れた恋人の姿も見えた。彼女は、陽介が靴下を吐き出す自動販売機のせいで振られたはずなのに、満面の笑みで親指を立てている。

「君は、世界を面白くする人間だよ!」

その瞬間、陽介の心に、これまで押し込めていた純粋な感情が一気に溢れ出した。恥ずかしさも、恐れも、すべてを吹き飛ばすような、強烈な「みんなで楽しみたい!」という願い。そして、自分の能力を受け入れたことへの、心からの喜び。

その感情が最高潮に達した瞬間、陽介の体から放たれた低周波が、会場全体に拡散した。

「ウオー!」という陽介の雄叫びとともに、静かだった祭りの会場が、突如として爆発的な色彩と音に包まれた。

まず、屋台の電光掲示板が、陽気なピクセルアートのアニメーションを映し出し始めた。「いらっしゃい!みんなで踊ろうぜ!」というメッセージが、虹色に輝きながら次々と表示される。次に、会場の自動販売機が、陽介の感情が歓喜に満ちるたびに、無料でジュースを勢いよく吐き出し始め、子供たちが歓声を上げて駆け寄る。街灯は、まるで音楽に合わせて点滅するカラフルなスポットライトに変わり、中央の噴水は、陽介の心の喜びを表現するかのように、リズムに合わせて水を高く噴き上げ、まるで踊っているかのように見えた。

会場に流れていた寂れたBGMは、陽気なサンバのリズムへと変わり、その軽快な音楽に合わせて、屋台のテントがフリルのように揺れ、提灯が楽しげに踊り出した。スマホを見つめていた人々は、顔を上げ、この突拍子もない光景に驚き、そしてやがて、我慢できずに笑い出した。一人、また一人と、自然と体が動き出し、サンバのリズムに合わせて踊り始める。子供たちは噴水の周りで水しぶきを浴びてはしゃぎ、大人たちは顔を見合わせては、声を上げて笑った。

陽介自身も、感情をオープンにすることの、そしてそれが世界をこんなにも明るく変えることの喜びを知った。彼は、自分が退屈な日常の観客ではなく、最高の舞台の主役であることを実感した。

事件後、陽介の「ハッピー・ノイズ」能力は完全には消えなかったが、彼はもはやそれを恐れることはなかった。むしろ、それを「人生の最高のスパイス」として受け入れた。彼が感情をオープンにするたびに、世界は少しだけ面白くなる。それは、彼のプレゼン中にプロジェクターがカラオケになったり、信号機がディスコライトになったりするような、小さなサプライズの連続だった。しかし、それはもはや厄介事ではなく、人々を笑顔にする魔法のような力だった。

仙波は、満足げに陽介の肩を叩き、静かに人ごみの中へと姿を消した。陽介は、これからも世界をちょっとだけ面白くする「ハッピー・ノイズ現象の伝道師」として、笑顔で日常を送るだろう。彼の周りには、いつも小さな笑いと驚きが絶えない。それは、彼の感情が織りなす、この世界で最も奇妙で、そして最も幸福なノイズだった。

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