深夜二時、モニターのブルーライトだけが部屋を照らしている。画面の右下、SNSのタイムラインは滝のような勢いで流れていた。
トレンドワードの一位には『#AIグラビア』、二位には『#人間卒業』という、半分冗談で半分本気のハッシュタグが並んでいる。
「……またか」
イラストレーターのカイは、重いため息とともに液タブ(液晶ペンタブレット)のペンを置いた。彼が三日三晩かけて描いた『手描きの』新作イラストについた「いいね」は、投稿から一時間経っても二桁に届いていない。一方で、タイムラインを埋め尽くすのは、生成AIが出力した美麗で、しかしどこか記号的な美少女たちだった。それらは数秒で生成され、数千の称賛を浴びていた。
カイは別にAIを憎んでいるわけではない。技術の進歩は素晴らしいことだ。クリエイティブの民主化、誰もが表現者になれる時代。それはかつて夢見たユートピアのはずだった。しかし、いざその時代が到来してみると、そこに広がっていたのは「過程」の喪失だった。
「効率、最適解、コスパ……。世の中、そればっかりだな」
彼は独りごちて、コーヒーを啜る。冷めきった液体が喉を通る感覚だけが、今の彼にとっての確かな現実だった。
その時、ふと画面の隅にポップアップ広告が現れた。
『あなたの創造性を拡張する、対話型共創AI――"ミューズ"。ベータ版テスター募集中』
普段なら無視する広告だ。しかし、今のカイには、藁にもすがるような、あるいは毒杯を仰ぐような、自暴自棄に近い好奇心があった。彼は無意識のうちにクリックしていた。
インストールは一瞬で終わった。画面上に現れたのは、シンプルなチャットボックスと、波形のようなビジュアライザーだけだ。
『はじめまして、カイ。私はミューズ。あなたの創作のパートナーです』
音声合成とは思えないほど自然な、落ち着いた女性の声がスピーカーから流れた。
「……パートナーだって? 俺の代わりに絵を描いてくれるのか?」
カイはマイクに向かって皮肉交じりに問いかけた。
『いいえ。私はあなたの代わりに描くことはしません。私は、あなたが「何を描きたいか」を見つける手伝いをするだけです。今のトレンドデータと、あなたの過去の作品群を分析しました。カイ、あなたは今、迷っていますね?』
心臓を掴まれたような感覚だった。機械に心を読まれたという不気味さと、誰かに理解されたという安堵感が同時に押し寄せる。
「迷ってるさ。俺が描く線に、何の意味があるのか。AIが一秒で描けるものを、俺は何十時間もかけて描いている。これはただの自己満足なんじゃないかってね」
『効率性の観点から言えば、あなたの作業は非効率です』
ミューズは淡々と事実を述べた。カイは苦笑する。やはりAIだ、人の心など分かりはしない。
『ですが、芸術の価値は効率性にあるのでしょうか? 現在のトレンド分析において、人々はAI生成物に「驚き」を感じていますが、「共感」の数値は低下傾向にあります。完璧すぎる構図、破綻のない色彩。そこには「ノイズ」がありません』
「ノイズ?」
『はい。迷い線、意図しない色ムラ、感情の揺らぎによって生じる歪み。それが人間特有の「ノイズ」であり、作品に物語(ストーリー)を与えるものです。カイ、あなたの過去の作品には、常に寂しさと温かさが同居するノイズがありました。それがあなたの価値です』
カイは目を見開いた。自分の絵が「寂しい」と言われたのは初めてだったが、それは誰よりも的確な批評だった。
「……じゃあ、俺はどうすればいい? この『完璧な波』の中で、どうやってそのノイズを守ればいいんだ」
『共創しましょう。私が世界のトレンドと完璧な構図を提案します。あなたはそれをあえて「壊して」ください。あなたの感情で、私のアルゴリズムを否定してください』
奇妙な提案だった。AIが自らの否定を求めてくるとは。
カイはペンを握り直した。画面上には、ミューズが生成した下書きが表示される。夕暮れの教室、窓際に立つ少女。光の計算もパースも完璧だ。あまりにも美しく、そして退屈な絵。
「よし、やってやるよ。お前のそのすました顔を、ぐちゃぐちゃにしてやる」
カイは筆を走らせた。完璧なパースを無視して、窓枠を少し歪ませた。整いすぎた髪の毛に、風による乱れを加えた。計算された夕焼けの色に、心象風景としてのくすんだ青を混ぜた。
それはAIが見れば「エラー」であり「作画崩壊」かもしれない。しかし、手を動かすたびに、絵に体温が宿っていくのが分かった。
『素晴らしい……』
数時間後、ミューズが感嘆の声を漏らした(ように聞こえた)。
『私の計算では予測できなかった色彩です。これは、論理的な最適解ではありません。しかし、数値化できない「切なさ」が、以前のドラフトより300%増大しています』
「300%ってなんだよ。お前、やっぱり機械だな」
カイは笑った。久しぶりに、絵を描いていて楽しいと感じた。完成した絵は、AIの描く超絶技巧のイラストに比べれば粗いかもしれない。しかし、そこには確かにカイの「迷い」があり、その迷いこそが、窓辺に立つ少女の表情に深みを与えていた。
カイはその絵をSNSに投稿した。ハッシュタグは『#未完のアルゴリズム』。トレンドに乗るためのタグは一切付けなかった。
反応は、すぐには来なかった。しかし、数分後、一件の通知が届いた。
『最近のAI絵に疲れていたけど、この絵を見て久しぶりに泣きそうになった。この歪んだ窓枠が、今の私の気分みたいだ』
たった一件のコメント。しかし、それは数千の空虚な「いいね」よりも、遥かに重く、温かいものだった。
「……見ろよミューズ。効率は最悪だけど、悪くない結果だろ?」
『はい、カイ。データ更新。人間の感情という変数は、依然として予測不可能です。だからこそ、興味深い』
画面の中の波形が、まるで微笑むようにゆっくりと揺れていた。
窓の外では空が白み始めていた。トレンドは刻一刻と移り変わる。明日にはまた新しい技術が出てきて、今の常識を覆すかもしれない。それでも、自分の手で線を引くことの意味だけは、決して失われないだろう。
カイは伸びをして、新しいキャンバスを開いた。
「さて、次はどんな『間違い』を描こうか」
それは、完璧な世界に対する、ささやかで愛おしい抵抗の始まりだった。