第一章 廃棄された荷物
重厚な鉄扉が閉まる鈍い音が、私の世界を「生」と「死」に分断した。
「悪いなエイリ。ここから先は、戦力外のお前じゃ足手まといなんだよ」
扉の向こうから聞こえたのは、勇者グレアムの嘲笑混じりの声。
続いて、賢者リリアの冷ややかな言葉が隙間から漏れ出してくる。
「食料の『保存』しかできないスキルなんて、マジックバッグがあれば不要なの。今までご苦労様、生ゴミ係さん」
遠ざかる足音。高笑い。
残されたのは、湿り気を帯びた暗闇と、鼻をつく腐臭。
ここは『腐敗の大迷宮』。
あらゆる有機物が数分で腐り落ち、鋼鉄さえも赤錆に変える、死のダンジョン。
「……は、はは。嘘だろ」
乾いた笑いが喉から漏れる。
足元のブーツを見る。
革がすでによれ始め、白いカビが視界の端で増殖しているのが見えた。
肌がチリチリと焼けるように痛い。
大気そのものが猛毒の消化液だ。
(死ぬのか? 俺はここで、誰にも知られずに腐って土になるのか?)
走馬灯のように、パーティーでの日々が過ぎる。
荷物を持ち、彼らの食事を管理し、野営の準備をし、装備の手入れをした。
『保存』スキルのおかげで、彼らはいつでも温かい食事を食べられたし、ポーションは劣化しなかった。
それを、生ゴミ係と呼んだのか。
「ふざ、けるな……」
恐怖が怒りに変わる。
俺の体は俺のものだ。
誰にも腐らせたりしない。
俺は右手を自分の胸に当てた。
心臓の鼓動が早鐘を打っている。
「スキル発動……【保存(キープ)】!」
本来、リンゴや干し肉にかけるだけの生活魔法。
だが、今の俺にはこれしかない。
対象は、俺自身。
イメージしろ。
腐敗の進行を止めるんじゃない。
俺という存在の「状態」を、この瞬間に固定するんだ。
細胞の一つ一つ、皮膚の一ミリまで、何人たりとも干渉させない。
(俺は、変わらない。永遠に、このままで!)
ブォンッ。
耳元で空気が弾ける音がした。
直後、世界から「音」が消えた。
いや、違う。
迫りくる腐食の瘴気が、俺の皮膚の表面数センチのところでピタリと止まっている。
這い上がろうとしていたカビが、灰色の粉となって崩れ落ちた。
寒さを感じない。
呼吸の苦しさもない。
俺は恐る恐る、足元に落ちていた石ころを拾い上げた。
そして、それを握りしめ、再び【保存】をかける。
そして、壁に向かって全力で投げつけた。
――カィンッ!
石は壁に当たっても砕けなかった。
それどころか、壁にめり込み、そのままの形状を保って回転し続けている。
「……運動エネルギーが、減衰していない?」
衝撃。
俺のスキルは、単に鮮度を保つものじゃなかった。
対象の「時間」と「状態」を固定する。
それはつまり、物理法則による劣化も、エネルギーの損失も、外部からの干渉も、すべてを無効化するということ。
俺は自分の手を見つめた。
この手はもう、二度と汚れない。
暗闇の中で、俺の口元は自然と歪んだ。
それは絶望の笑みではなく、反逆の狼煙だった。
第二章 凍てついた聖女
迷宮を歩く。
以前なら一歩踏み出すたびに恐怖で足がすくんだだろうが、今は違う。
襲い掛かる「腐敗スライム」が、俺に触れた瞬間に液状化して崩れ落ちる。
俺の体表面は【保存】により「何ものも受け付けない」状態にある。
酸も、毒も、物理攻撃でさえも、俺という固定された事象の前では滑り落ちるだけの水滴だ。
「おいおい、このダンジョン、宝の山じゃないか」
通路の脇には、過去の冒険者たちが遺した伝説級の武器が転がっていた。
通常なら錆び果てて塵になっているはずだが、俺が触れて【保存】をかければ、その瞬間に往時の輝きを取り戻す。
錆が逆再生するように剥がれ落ち、刀身が冷たい光を放つ。
俺はアイテムボックス代わりの麻袋(これも【保存】で強化済み)に、国宝級の魔剣を無造作に放り込んだ。
最深部に近づいた時だ。
広大なドーム状の空間の中心に、青白い光が見えた。
「……氷?」
近づいてみると、それは氷ではなかった。
水晶のような棺の中に、ひとりの少女が閉じ込められている。
銀色の髪、透き通るような肌。
しかし、その体には無数の黒い紋様が浮かび上がっていた。
『呪い』だ。
「……助けて……」
か細い声が、直接脳内に響く。
「君は?」
「私はエレノア……かつてこの迷宮を封印しようとして、逆に取り込まれた者……」
エレノア。
歴史書で読んだことがある。『灰の聖女』。
百年前に消息を絶った、大陸最強の治癒術師。
「私の体は、もう限界……腐敗の呪いが、魂まで蝕んで……」
彼女の指先が、黒く変色していく。
最強の治癒術師でさえ治せない、進行性の死。
だが、治す必要なんてない。
「止まればいいんだろ?」
俺は水晶の棺に手を触れた。
邪魔な結界など、固定された俺の指先の前では薄紙同然に破れる。
俺は彼女の、冷たくなりかけた頬に触れた。
「スキル発動。【保存(ステート・ロック)】」
ドクン。
世界が震えた。
エレノアの体を蝕んでいた黒い紋様が、その場で凍り付いたように停止する。
進行が止まったのではない。
「腐敗している」という現象そのものが、俺の理(ルール)によって上書きされ、無効化されたのだ。
彼女の睫毛が震え、真紅の瞳が開かれた。
「……痛みが、消えた? 時の流れが……あなたを中心に、淀んでいる……?」
彼女は信じられないものを見る目で俺を見上げた。
「君の状態を『発症前』の健康な状態で固定した。俺が解除しない限り、君は年老いることも、腹が減ることも、傷つくこともない」
神の御業。
そう言いたげな顔で、彼女は俺の手を握り返した。
「貴方は……何者なのですか?」
「ただの荷物持ちだよ。ちょっと、賞味期限にうるさいだけのね」
俺はニヤリと笑い、彼女の手を引いて立ち上がらせた。
「さあ行こうか、エレノア。地上では、俺を捨てた連中がまだ宴会の途中かもしれない」
第三章 腐らない復讐
地上へ出る扉の前。
そこは、皮肉にも俺が突き落とされた場所のすぐ近くだった。
扉を開けると、そこには見覚えのある顔ぶれが揃っていた。
勇者グレアム、賢者リリア、僧侶、剣士。
彼らは満身創痍で、巨大な「腐竜」と対峙していた。
「くそっ! なぜ剣がこんなに脆くなっているんだ!」
「私の回復魔法が追いつかない! 毒の回りが早すぎるわ!」
どうやら、俺がいなくなったせいで、彼らの装備品のメンテナンス(【保存】による劣化防止)が切れ、ダンジョンの瘴気に耐えられなくなったらしい。
ザシュッ!
腐竜の爪がグレアムの盾を紙のように引き裂き、彼を壁まで吹き飛ばした。
「がはっ……! お、終わりか……」
絶望に染まる勇者の視界。
その端に、悠然と歩み寄る二つの影が映った。
「誰だ……? まさか、エイリか!?」
リリアが叫ぶ。
俺の姿を見て、彼らは目を見開いた。
ボロボロの服を着て死んだはずの男が、傷一つなく、伝説の聖女を連れて立っているのだから。
「よう。ずいぶんと武器の手入れが杜撰じゃないか?」
「お、お前! 生きていたのか! ちょうどいい、囮になれ! その間に俺たちは逃げる!」
グレアムが叫ぶ。
相変わらずだ。
呆れるのを通り越して、哀れみすら感じる。
「ギャオオオオオ!」
腐竜が俺たちに気づき、猛烈な勢いでブレスを吐き出そうとした。
溶解液の塊が、俺の頭上へと降り注ぐ。
「エイリ様、危ない!」
エレノアが前に出ようとするが、俺はそれを手で制した。
俺はポケットから、道中で拾ったただの「銅貨」を取り出した。
「見てな。これが『荷物持ち』の戦い方だ」
俺は銅貨を指で弾いた。
ピンッ、という軽い音。
その瞬間、俺は銅貨に【保存】をかけた。
ただし、今回は「運動エネルギー」を上乗せして固定する。
俺が指で弾いたエネルギー。
さらに、踏み込んだ足の力。
そして――この空間に満ちる腐竜のブレスの衝撃波。
すべてを銅貨という一点に「保存」し、そして「解放」する。
「【保存・解放(リリース)】」
閃光。
ヒュンッ――ドォォォォォォォォン!!
ただの銅貨が、あたかも攻城兵器の砲弾のように空気を切り裂いた。
ブレスを真っ二つに割り、そのまま腐竜の眉間に着弾する。
圧倒的な運動エネルギーが炸裂し、腐竜の頭部が瞬時に消滅した。
静寂。
巨大な竜の巨体が、ズズ……と崩れ落ちる音だけが響く。
「な……何が……」
グレアムが腰を抜かして震えている。
リリアは口をパクパクと開閉させている。
俺は彼らの前を素通りし、出口へと向かう。
「待て! エイリ、待ってくれ! 俺が悪かった! パーティーに戻ってくれ! お前がいなきゃ、俺たちの装備は……!」
グレアムが俺の足に縋り付こうとする。
だが、俺はその手を冷たく見下ろした。
「触るな。腐るぞ」
「え……?」
俺は彼に触れず、ただ一言告げた。
「俺は『保存』したんだ。お前たちに裏切られた瞬間の、この感情をね。だから、お前たちに対する慈悲も情も、永遠に芽生えることはない」
俺は聖女の手を取り、陽の光が差す出口へと歩き出した。
「じゃあな。精々、カビないように気をつけてくれ」
背後で絶叫が聞こえたが、俺は一度も振り返らなかった。
俺たちの時間は、今ようやく動き出したのだから。