0.02秒のラグ、血の味の歌声

0.02秒のラグ、血の味の歌声

10 4797 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:
表示モード:

第1章: 泥濘に咲く電子の薔薇

湿った布がリノリウムの黒ずみを撫でる。腐った雑巾の臭いが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。

「おい、そこ。まだ終わらねえのか」

頭上から降ってきたのは、脂ぎった怒声だった。

九条湊は顔を上げない。ただ背中を丸め、床の一点を凝視する。視界の端、革靴の爪先が苛立たしげにリズムを刻んでいる。かつて自分が所属していた芸能事務所の社長、権藤だ。

「すいません、すぐに」

喉の奥から絞り出したのは、言葉というより、壊れた換気扇が回るような軋みだった。

喉頭癌の手術で削ぎ落とされた声帯。「神の喉」と讃えられた器官は今、古びた笛のように空気漏れの音しか奏でない。

権藤は鼻を鳴らし、湊の脇を通り過ぎて社長室へと消えた。

重厚なドアが閉まる直前、部屋の奥から熱狂的な歓声と、砂糖菓子を溶かしたような甘い歌声が漏れる。

『みんなー! アリアだよ! 今日も愛してる!』

湊はモップをバケツに突っ込んだ。汚水が跳ね、作業着の裾を濡らす。

ポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。

画面の中では、銀髪の美少女アバター『アリア』が、数万の視聴者に向けて投げキッスをしている。

その声は、完璧だった。

高音の伸び、ビブラートの揺らぎ、息継ぎの艶。すべてが計算され尽くした黄金比。

湊は無表情のまま、イヤホンを耳にねじ込む。

唇だけを、微かに動かした。

(……愛してる、なんて言ったことないくせに)

0.02秒後。

画面の中のアリアが、少しだけ照れたように俯き、小声で呟いた。

『……本当は、恥ずかしいんだけどね』

コメント欄が「尊い」「ギャップ萌え」の文字で埋め尽くされ、虹色のスーパーチャットが滝のように流れ落ちる。

湊は唇の端を吊り上げた。

誰も知らない。

この薄暗い廊下で掃除をしている、声帯を失った清掃員こそが、今をときめくトップVtuber『アリア』の中身であることを。

彼は先ほど権藤が浴びせた怒声を、脳内の波形エディタで再生する。

周波数、ピッチ、抑揚。

あの豚のような男の音声データは、RVC(リアルタイム音声変換)の学習素材として極めて優秀なノイズを含んでいる。

モップを握り直す指の関節が、白く浮き出た。

全ては計算通りだ。

世界は美しい嘘を求めている。ならば、極上の嘘で窒息させてやる。

第2章: 蜜の味、鉄の味

デスクの上に積み上げられた契約書の山が、雪崩を起こしかけている。

権藤は額の汗をハンカチで拭いながら、受話器にしがみついていた。

「ですから! 契約金は言い値で構わない! 頼む、アリアちゃんをウチに……いや、君の事務所に迎え入れたいんだ!」

受話器の向こうから聞こえてくるのは、脳髄を痺れさせるような美声。

『権藤社長、そんなに焦らないでください。私、怖いおじさんは苦手なんです』

湊は自宅アパートの薄暗い一室で、マイクに向かって息を吹きかけていた。

壁には吸音材代わりの卵パックがびっしりと貼られ、モニターの光だけが痩せこけた顔を青白く照らす。

喉に当てたコンタクトマイクが、しわがれた振動を拾う。

PCの中のAIモデル――亡き妹の声をベースに構築した『アリア』の核――が、その汚い振動を瞬時に濾過し、極上の蜂蜜へと変換して権藤の耳へ届ける。

「いやいや、怖くないよ! 私は君の才能に惚れているんだ。君のためなら、この事務所の株だって譲る覚悟がある!」

権藤の声が裏返った。

湊は冷めたコーヒーを啜りながら、キーボードを叩く。モニターに表示された権藤の心拍数は上昇の一途を辿っていた。

『株、ですか? ……それなら、誠意を見せていただけますか?』

湊は、権藤が最も欲している言葉を、最も効果的なタイミングで配置する。

かつて歌手として培った「間」の技術。

客席の呼吸を読み、感情の昂ぶりを指揮する能力は、声を失っても錆び付いてはいなかった。むしろ肉体という制約を離れ、研ぎ澄まされている。

「もちろんだ! すぐに手続きをする! だから、契約のサインを!」

『うふふ。社長って、意外と可愛いところがあるんですね』

権藤の荒い息遣いが聞こえる。完全にオチている。アリアという虚像に、そして湊の手のひらの上で。

湊はマウスをクリックし、契約破棄の時限爆弾が仕込まれた電子書類を送信した。

これで終わりだ。

彼らがアリアに全財産を注ぎ込み、依存しきった瞬間、この美少女は煙のように消える。

残るは巨額の負債と、空っぽの事務所だけ。

マイクのスイッチを切り、大きく息を吐いた。

喉が焼けるように痛い。

だがその痛みこそが、復讐の快感だった。

第3章: ガラスの靴が割れる音

異変は、同接数が十万人を超えた記念ライブの最中に起きた。

『次の曲は、私にとって特別な……』

曲紹介をしようとした瞬間、モニターの波形が赤く点滅した。

警告音が鳴り響く。ファイアウォールが、まるで紙切れのように引き裂かれていく。

「なっ……」

指先が凍りつく。

コメント欄の流れが止まり、不気味な文字列が走り始めた。

『学習元データ:Kujo_Mana_Recorded_2020』

『無断使用検知』

『オリジン特定:旧所属・九条湊』

妹の名前。

そして、自分の名前。

誰かが、アリアの「皮」を剥ぎ取りに来た。

「やめろ、やめろッ!」

キーボードを叩きつける。だが、制御が効かない。

RVCの変換プログラムが強制終了される。

画面の中のアリアが、ノイズと共に明滅する。

美少女の姿が崩れ、ポリゴンの塊へと変貌していく。

何よりも残酷なことに、音声のバイパスが直結された。

『……やめてくれぇっ!!』

ドーム会場のようなバーチャル空間に響き渡ったのは、天使の歌声ではない。

錆びた鉄板を爪で引っ掻くような、耳障りな絶叫だった。

一瞬の静寂。

世界が反転する。

『は?』『何この声』『キッショ』『バケモノじゃん』『詐欺師』『金返せ』

称賛の嵐は、瞬く間に罵倒の土石流へと変わった。

愛を囁いていたファンたちが、今や湊を殺さんとばかりに石を投げつけてくる。

特定班が動き出すのに、時間はかからなかった。

住所、氏名、過去の経歴、そして癌で声を失った哀れな元歌手という事実。

全てがネットの海に晒され、嘲笑の種として消費されていく。

湊はヘッドホンをかなぐり捨てた。

アパートの窓ガラスに、石が投げ込まれる音がした。

「ああ……あああ……」

喉から漏れるのは、もはや言葉ですらない。

ただの、汚れた空気の振動。

妹の声も、アリアの姿も、名声も、復讐も。

全てが0.02秒で消え去った。

残ったのは、薄汚い部屋で震える、声のない怪物だけだった。

第4章: 瓦礫の下の周波数

雨が降っていた。

ネットカフェの狭いブース。リクライニングシートの合成皮革が、汗ばんだ肌に張り付く。

湊はここ数日、何も食べていなかった。

所持金は尽きかけ、アパートは特定されたため戻れない。

死人のような目で、炎上し続ける掲示板をスクロールしていた。

『九条湊の末路www』

『声帯ないなら大人しくしてろよ』

『妹の声使うとかサイコパスか?』

画面を閉じようとした指が、ふと止まった。

罵倒の嵐の中に、一つの奇妙な書き込みがあった。

『でも、あの叫び声、どこかで聴いたことあるリズムだった』

『最後の「やめてくれ」、音程は酷いけど、ピッチの合わせ方が全盛期の湊くんと同じだった』

『俺はアリアじゃなくて、あのブレスの瞬間に泣いてたのかもしれない』

湊は息を飲んだ。

心臓が、早鐘を打つ。

アリアの声は、完璧だった。

だが、その完璧さを操っていたのは、紛れもなく湊の技術であり、彼の魂だった。

妹の声という「楽器」を演奏していたのは、彼自身だったのだ。

震える手で、保存されていた最後の配信データを開く。

ノイズ混じりの、醜い絶叫。

それを再生する。

「……汚い声だ」

自嘲気味に呟く。

だが、耳を澄ませば聞こえてくる。

その汚いノイズの奥底に、かつて自分が持っていたリズムの鼓動が。

0.02秒のラグの間に詰め込まれた、悲痛なほどの「歌いたい」という渇望が。

(俺は、隠れていたんじゃない)

AIという完璧な鎧を着込むことで、自分自身の傷ついた声を直視することから逃げていただけだ。

皮肉にも世界に届いたのは、鎧が剥がれた瞬間の、生身の悲鳴だった。

ブースの蛍光灯がチカチカと明滅する。

湊はリュックから、壊れかけたノートPCを取り出した。

もう、妹の声はいらない。

アリアもいらない。

必要なのは、この壊れた喉を「楽器」として再定義するプログラムだけだ。

RVCの設定を書き換える。

補正ではない。拡張だ。

ノイズを消すのではなく、ノイズを倍音として響かせるための、悪魔的なチューニング。

指先が熱を帯びていく。

瓦礫の中で、怪物は再び歌う準備を始めた。

第5章: 0.02秒の協奏曲

権藤が主催する、起死回生のドームライブ。

ステージ中央には、新しいAIアイドルがホログラムで投影され、寸分の狂いもないダンスを披露している。

観客はペンライトを振っているが、その瞳に熱狂はない。ただの完璧な映像を、消費しているだけだ。

突如、スピーカーがハウリングを起こした。

『……テス、テス』

耳障りなノイズ。

会場がざわめく中、ステージの巨大スクリーンがジャックされる。

映し出されたのは、美少女ではない。

無精髭を生やし、目の下に濃い隈を作った、痩せこけた男の顔だった。

「九条!? 警備員! つまみ出せ!」

権藤が叫ぶ。

だが、湊は止まらない。ネットカフェから回線を繋ぎ、セキュリティホールを食い破っていた。

「聴いてくれ。これが、俺の声だ」

湊がマイクに向かって歌い出した瞬間、会場の空気が凍りついた。

それは歌と呼ぶにはあまりに無惨な、しわがれた唸り声だった。

観客が耳を塞ぎそうになった、その時。

0.02秒遅れて、重厚なコーラスが重なった。

RVCによって生成された、かつての「神の喉」を持つ全盛期の湊の声。

そして、現在の傷ついた湊の声。

過去と現在。

虚構と現実。

二つの声が、わずかな遅延(ラグ)を持って重なり合い、不協和音スレスレのところで、凄まじいうねりを生み出した。

『歪なままで、愛してくれ』

歌詞の一節が、鋭利な刃物となって観客の胸を刺す。

完璧なAIの声だけでは表現できない「痛み」。

壊れた喉だからこそ出せる「渇き」。

その二重唱(デュエット)は、あまりにも痛々しく、そして暴力的なまでに美しかった。

「なんだ……これ……」

最前列の少女が、ポロポロと涙を流している。

ペンライトの動きが止まる。

誰もが、スクリーンの中の男から目を離せない。

権藤はへたり込んだ。

彼が作り上げた完璧な商品は、湊の「欠落」が放つ圧倒的なリアリティの前に、ただの色褪せた絵画と化していた。

曲が終わると、会場は静寂に包まれた。

0.02秒の静寂。

その後、ドームを揺るがすような拍手と慟哭が爆発した。

湊は画面の向こうで、深く息を吐く。

喉からは血の味がした。

だが、これほど清々しい空気は、生まれて初めてだった。

カメラに向かって、ニヤリと笑う。

かつてのアリアのような愛想笑いではない。

傷だらけの狼が見せる、獰猛な笑みだった。

「アンコールは、まだ早いぜ」

画面がプツンと消える。

黒いモニターに反射した自分の顔は、かつてないほど、生きていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 九条湊 (Minato Kujo): 声帯を失った元天才歌手。清掃員として泥水を啜りながら、VTuber「アリア」として世界を欺く。その動機は復讐だったが、最終的に「表現者」としての業(カルマ)に向き合うことになる。
  • アリア (Aria): 湊の亡き妹の声をAI学習させた虚構の歌姫。完璧無欠の偶像であり、湊が隠れ潜むための「鎧」。
  • 権藤 (Gondou): 搾取と消費の象徴。完璧な商品を求めるあまり、人間の泥臭い情動を見誤る。

【物語の考察】

  • 0.02秒のラグ: 通常は「遅延」という欠陥だが、本作では「人間性」が宿る聖域として描かれる。AIによる完全な補正が行われる前の、湊の魂が息づく唯一の時間。
  • 声の二重性: 「神の喉(過去)」と「ノイズ(現在)」のデュエットは、自己肯定と自己否定の統合を意味する。傷ついた自分を晒すことで初めて、虚構を超えた感動が生まれる。
  • ノワールとアイドルの対比: 汚れたモップや血の味といった「生」の感触と、電子の歌姫という「清潔な死」の対比が、物語の輪郭を際立たせている。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る